ちょっとした気紛れから流川にラーメンを奢ってやって以来、視界の端っこにもの言いたげなおおきい人影をよく捉えるようになった。それが、ほんとうに端っこなのだ。注意して見なければそこにいると気付かないくらい、ほんとうのほんとうに端っこなのである。三井がもしフクロウやシマウマだったならその表情まではっきり捉えることができるのだろうが、お生憎様だった。
「……流川」
三井がため息混じりに声をかけると、三井が立っている場所の斜め後ろからさらに一歩半ほど離れた場所に佇んでいた流川が「なんすか」と不思議そうに返事をした。
「なあ、お前、帰んねぇのか?」
三井はいま自分に割り当てられたロッカーに向かって汗みづくの練習着を着替えている最中で、対する流川はもうとっくに着替えも終え、制服姿でぼうっと、それこそ背後霊のようにただつっ立っているのだった。
問われた流川は首を左右に振ると、三井の真横まで歩み寄ってきて「帰んねー」とぶっきらぼうに言った。この男に行間を読むなどという高度なコミュニケーションを期待したのがそもそもの間違いだった、と内心で毒づく。
「ほかの一年と一緒に帰りゃあよかったろ」
「なんで」
「なんでって……お前、もう着替え終わってんじゃん」
居残り常連組のなかでも、三井は比較的帰り支度に時間をかけるほうだ。今日も今日とてそうなのだが、後片付けや掃除のために遅くなりがちな一年生たちを見送り、彼らに代わって体育館や部室の戸締りをすることも多かった。ひとつ言わせてもらえば、三井の帰り支度がとくべつ遅いのではなく、洒落者の宮城を除くほかの部員どもがあまりに身仕舞に無頓着すぎるのではないかと思うのだが、ともかく、その辺りは個人の価値観だからとうるさく言ったことはない。
なかでも、流川はダントツで帰り支度が素早い男である。たぶん、あまりトロトロしていると着替えの途中で寝てしまうからではないかと疑っているのだが、ろくに汗も拭かず、制汗剤などのたぐいを使っている様子もない。髪はいつ見ても洗いざらしのままだし、顔も水道水で洗いっぱなしである。これで別段汗臭いわけでもなければニキビもできやしないというのだから、その辺に人並みの気を使っている三井としてはなんとも複雑なところだった。
「今日は奢んねーぞ」
三井が言うと、流川は「別に、期待してねー」と可愛げのない無表情で返し、そのちいさな頭を斜めに傾げてから「見てるだけ」と理解に苦しむ言葉を発した。
「なにを」
「先輩を」
「なんで」
「見ちゃダメっすか」
「ダメじゃねーけど。……金とんぞ」
理解を超えた後輩の言動に困惑しながらなんとか冗談めかしてそう答えると、流川はふっと頬を緩めて毒気のない表情で笑い「ケチ」と短く返した。
「ケチとはなんだ、ケチとは」
「新手のカツアゲ」
「人聞きの悪ィこと言うな。当然の権利だ」
顔を大袈裟に顰めながら言い返し、脱いだ練習着をビニールの巾着袋に放り込む。三井の家では洗濯はすべて各人の責任において行われる仕事なので、汚れ物で臭くなったスポーツバッグを洗って天日干ししてくれる人間など、自分をおいて他にいないのである。
「お前も汗くらい拭いてから帰れよ。バスケ部の連中はみんな汗くせーなんて噂になっちゃ堪んねぇからな」
今度はべつの巾着袋から使っていないタオルを引っ張り出し、汗で濡れた体を拭いながら言った。
「噂んなって、なんか困るんスか」
「……そりゃ、お前は困んねぇわな」
と、すぐ横にある端正な顔面を横目で見ながら肩を落として嘆息する。
インターハイで見せた破竹の快進撃によって、湘北高校バスケ部員たちはにわかに降って湧いたこの世の春を謳歌している真っ最中である。一部まったくもって春めかしい話題とは無縁のゴリラもいるが、地方ニュースでその活躍が特集されるや否や、やれクラスの女子に連絡先を聞かれただの、やれ他校の女子に待ち伏せされただのと引きも切らない大騒ぎだった。ここで奴らはどうも汗臭いの汚いの柄が悪いのと悪評が立っては、せっかくの春もあっという間に行き去ってしまう。柄が悪いに関しては、すでに手遅れのような感もないではないが。
もちろん、バスケ部に春をもたらした女子生徒の大多数はいまや全国区のスター選手となった流川への取りなしを期待して戦略的に接近してきたにすぎなかったわけであるが、当の本人はこの通りなのだから始末に負えない。
「まあいいわ、この話は。……で、俺になんか用事でもあんのか?」
話題を替えようと着替え用のTシャツを広げながら尋ねれば、流川はやはり「別に」と不思議そうに首を傾げ「見てるだけって言った」と奇妙な答えを繰り返すばかりだ。
「それ、楽しいんか?」
「別に」
「じゃあなんで見てんだよ」
Tシャツの袖に腕を通しながら、三井も同様に首を傾げた。ボールを持って体育館を走り回っているときのほうが、よっぽどまともに流川とコミュニケーションを取れるような気さえしてくる。
流川は不思議そうに首を傾げたまま「だって」といつになく稚気な言葉遣いで呟くと、じっと三井の顔を見つめながら言った。
「先輩がわけわかんねーこと言うから」
「俺が?」
「ずっと考えてた」
「はあ?」
「好みのタイプ」
と、そこまで聞いてようやく流川の意図を察する。いや、その真意まではどう頑張っても分からないのだが、先の発言に至る発端が、先日のラーメン屋での自分の発言にあるということまではなんとか理解できた。
「……まさか、それを俺に発表すっために待ってたんか?」
そのまさかである。
流川は「そう」とこっくり頷くと、真剣なのかふざけているのかさっぱり分からない無表情で三井をまじまじと見つめながら言った。
「バスケが上手くて、ギャーギャーうるさくなくて、顔がどーのとか言わねーひとが好き、だと思う」
「……なるほど」
三井はつい反射的にそう言って頷いてから、もう一度「なるほど」と意味もなく繰り返した。なるほど、噛み砕けば噛み砕くほど流川らしい答えである。綺麗系とか可愛い系とか、胸がデカいとか背が高いとか、年上とか年下とか、ギャル系とか清楚系とかそういう俗っぽい話ではなく、のっけから「バスケが上手くて」とくるあたりがとくに流川らしい。
だが、と首を傾げる。
「――しかしよォ、お前そりゃあ、牧とか仙道とか、そういう話になってこねぇか?」
途中になっていた着替えを再開しながら、頭に浮かんだ疑問を素直にぶつけてみた。ぶつけてみながら、俺ってもうちょっとマトモでジョーシキテキな男だったと思うんだけどなあ、と内心で独り言ちる三井である。ここ最近、常識と非常識の境目がだんだん曖昧になってきている自覚はあった。
バスケが上手くてうるさくなくて面食いじゃない人間、とは確かに流川らしい好みではあるが、しかし、バスケが上手い、の時点で、そのへんの女子生徒たちはまず間違いなくアウトなのではないだろうか。篩にかけるまでもない。
突飛な仮定ではあるが、男子生徒、それも県選抜クラスのプレイヤーに絞ったところで、流川が相手とくればこれはかなりの狭き門である。なにせ流川は、全日本ジュニア選抜にも選ばれたほどの選手なのだ。手近なところで候補にあがってきそうなのは、もはや海南の牧か陵南の仙道くらいではないだろうか。彼らならば恐らくギャーギャーうるさくはないだろうし、いまさら流川の顔をうつくしいのなんのと白々しく褒めそやしたりもしないだろう。
重ね重ね突飛な仮定には違いないが、お似合いといえば、まあ、お似合いである。名も知らぬ女子生徒とある日突然お付き合いをはじめましたと聞かされるより、じつは俺仙道と付き合ってるんス、なんて言われたほうがよっぽど「へえ、よかったじゃん」という感じだ。驚かない。
しかし当の流川はぎょっとした顔で「なんでそうなる」と言うと、むっつりと眉を寄せ、睨むように三井を見た。
「なんでって、お前と張るくらいバスケが上手い奴だろ。そうなりゃこの辺じゃ牧か仙道くらいしかいねーじゃねぇか」
「……もっといる」
「あー、翔陽の藤真とか?」
制服の半袖シャツを羽織り、普段は開けっぱなしのボタンをなんとなく留めながら、思いついた名前をなんの気なしにあげる。藤真と流川が仲良く並んで歩いた日には、神奈川じゅうの高校からミーハーな女子生徒が集まってきて、それこそどこぞのテーマパークのパレードのごとき行列ができるに違いなかった。むっつりと群衆を睨めまわす流川と、愛想よく手など振りながら歓声に応える藤真。そんなふたりの後をぞろぞろとついて歩くチアガール姿の親衛隊たち。
それはちょっと見てみたい光景だな、などと思いながら乱れた前髪を整えていると、横から露骨に不機嫌そうな空気が流れてきて、さしもの三井も少しばかり面食らった。
「おい、なにキレてんだよ」
「……別に」
「今日そればっかだなお前。別に別にって」
「うるせー」
「うるせーとはなんだ。先輩相手に」
そう言って横にあったふくらはぎを軽く蹴ると、流川も負けじと蹴り返してくる。やりやがったな、と爪先を踏めば、また負けじと踏み返される。可愛くない。なんと可愛くない後輩だろうか。
「……かわいくねー」
三井の内心を読んだかのように、流川が言った。
「んだとコラ。そりゃこっちの台詞だボケ」
「かわいくねーし、やっぱうっせーし、意味わかんねー」
「それもこっちの台詞だよ」
「……マジ、意味わかんねー」
二回も言うなボケ、と頭を小突くと、流川は長い前髪の向こうから思いがけない眼光の強さで三井を睨み返してきた。ついぎょっとして動きが止まり、振り上げていた拳が行き場を失くす。
「お、おい。なんだよ……」
「別に。もういーッス」
「もういいって、なんなんだよ。気になんじゃねーか」
「いいもんはいい。……帰る」
流川はそう言うと、その言葉通りに踵を返し、さっさと部室を後にしてしまった。建付けの悪い引き戸が軋んだ音を立てて勢いよく閉まる。
残された三井は、中途半端に拳を振り上げた姿勢のまま、しばし呆然とその場に立ち尽くしていた。なんなんだ。俺が一体なにをした。その問いに答えを返してくれる者はおらず、三井はただ途方に暮れるほかないのだった。