訝しげに眉をひそめる宮城と桜木、それから、モップを手にうろうろと様子をうかがっている一年坊主たちを強引に帰し、耳が痛むほど静かな体育館で流川とふたりきりになった。
秋季国体をいよいよ来週末に控えた金曜日、陽もずいぶんと短くなって、明り取りのちいさな窓からは強烈な西日が差し込んでくる。三井は汗と寝不足でしょぼついた目を手の甲で擦り、手にしていたボールをゴール下でぽつねんと立ち尽くす流川に向かって投げた。
「――なあ、ワンオンしねーか」
三井の誘いに、流川が無言で頷く。
「お前が勝ったら、ラーメン奢ってやるよ」
「……炒飯も?」
「いーよ。好きなもん食え」
苦笑を浮かべながらそう返し、ライン際に立つ。流川も三井と向かいあうように立ち、しばし無言のまま睨みあった。
その視線の強さに、思わずちいさく喉が鳴った。
合宿の晩、三井を不安そうに見上げていたあの子供はどこにもいない。ボールを持ってコートに立てば、流川はやはり流川だった。バスケをしている間だけは、好きだと面と向かって言われた三井でさえ、あの一連の出来事は悪い夢かなにかだったのではと疑ってしまうほどだ。いざ試合となれば練習だろうと容赦なく当たってくるし、三井を立てるようなわざとらしいアシストをすることもない。
ただ、じっと見つめてくるだけ。それだけだ。
答えを急かされることもないし、俺を好いてくれと殊更にアピールされたり、べたべたと必要以上に付きまとわれることもない。ただじっと三井の答えを待っているだけ。それだけなのだ。
流川がそういう男だから、三井も真剣に考えた。
さんざん考えたあげく結局答えは出なくて、だからこうして柄にもなくワン・オン・ワン勝負など持ちかけている。
「お前が先攻でいーぜ」
「……うす」
流川はそれ以上の言葉もなく頷き、頬に流れる汗をリストバンドで拭った。そのまま重心が低く沈み、バスケットシューズがぎっと高い音を立ててフロアを踏み切る。
そして、気付けば三井は大の字で体育館の床に寝そべっていた。
「……あー、くそ」
負けた。それも、完膚なきまでに、だ。
「先輩」
耳慣れた呼びかけとともに差し伸べられた流川の手を握り、そのままぐいと強く引っ張る。そして、ちいさな声で囁くように言った。
「――なあ、流川。お前、ファーストキスってもう済ましたか?」
突然の狼藉に姿勢を崩した流川は、四つ這いの格好で三井のうえに覆いかぶさった格好のまま目を見開いている。三井は驚きと戸惑いに固まったその顔を見あげながら、心の中で「ごめんな」と詫びた。
自分は流川のようにはなれない。なりふり構わず正々堂々とオフェンスに邁進することも、傷つくことを恐れずに誰より高く跳びあがって、欲しいもののために手を伸ばすこともできない。三井にできるのは、恥も外聞もなく小狡い手を使ってでも、わずかな勝ち筋に食らいつくことだけだ。
丁度視線の先にあった唇が、ゆっくりと開く。
「まだ、っす……」
流川がひび割れた声で言った。
「口開けろ」
「なんで」
「いいから。ほら」
急かすようにそう続け、流川の白い首筋に両腕を回す。
「……ちょっとだけ舌出して、目は閉じてろよ。苦しくなったら鼻で息すんだ」
わかったな、と居丈高に言い、流川の尖った顎先を指で掬った。そのまま顔を寄せ、薄い下唇をそっと食む。流川の肩が驚きに跳ね、長い睫毛がせわしなく瞬く気配を感じた。
対面で渡されたラブレターにさえ眉ひとつ動かさなかった男のその初心な姿に、三井の身体もじわじわと熱を帯びてゆく。その熱に突き動かされるまま、よりいっそうつながりを深めようと固まった舌にゆるく歯を立てると、流川はまたびくりと大袈裟に肩を震わせ、尻込みしたように身体ごと後退った。
「こら」
追いかけるように三井も上体を起こし、流川を膝立ちにさせてその腿のうえに跨がる。
「逃げんなって」
「……逃げてねー」
「はは。出たよ、負けず嫌い」
流川の肩に両手を置き、不機嫌そうに歪められた顔を鼻先が触れ合うほどの距離から見下ろす。
「……ほんと、もったいねーの」
眼下にあるうつくしい顔をつくづくと眺めながら、ついそんな言葉がこぼれた。
赤木晴子や、流川楓親衛隊を名乗る有象無象の女子生徒たち。いつか駐輪場で鉢合わせた彼女。憧れの延長線上にあるぼんやりとした恋心でも、彼女たちは彼女たちなりに真剣だったはずだ。
「俺、明日っからひとりで夜道歩けねーな」
「なんで」
「オメーのファンに刺されっかもだろ。後ろからブスッとさ」
「……先輩、喧嘩よえーっすもんね」
ようやく調子を取り戻してきたらしい流川の憎まれ口に「うるせー」と笑いながら返す。それから仕切り直すようにもう一度触れるだけのキスを落として、また笑った。
「どーよ、ファーストキスの味は」
三井の問いに、流川がちいさく首を横に振る。
「わかんねー」
「なんだよ。レモン味とか言うだろ」
場違いな軽口に、流川の首がまた横に振られた。そして「だって」という拗ねたような呟きが続く。
「……まだ、聞いてねーし」
「なにを」
「答え」
保留のまんまだ、と流川が焦れたように言った。
その苦しげな表情が、合宿の夜に見たあの子供のような顔と重なる。
三井だって、さんざん考えた。おかげで昨晩はほとんど一睡もできず、死ぬほど退屈なはずの授業中にさえ目が冴えて船も漕げない始末だった。さんざん考えに考え抜いて、それでもあの晩に見た流川の姿を思い出すと、途端にあらゆる決心が揺らいでしまう。
どう考えても断るべきだし、なんなら、二度と変な気を起こさないようにこっぴどく振ってやるくらいするべきだ。男を選ぶにしても、選択肢は他にいくらでもある。三井より、あるいは流川よりもバスケが上手くて、包容力があって、見目のうつくしさに惹きつけられるだけではなく、危ういまでに真っ直ぐな流川の心根のうつくしさにもちゃんと気付くことができて――そして、まかり間違っても自棄を起こして体育館に土足であがりこんだりなどしないような男が、他にいくらでもいるはずなのだ。
それなのに、出る答えは結局ひとつだった。
「いーぜ」
「……いい、って」
「ほんとは、さっきボッコボコに勝って『俺のケツ掘ろうなんて百年はえーよ』って言ってやるつもりだったんだけどな」
「掘、る……?」
「ああ? まさかお前、俺に抱かれてーんか?」
三井が凄むと、流川は驚いたように目を丸めて体を離し、ぶんぶんと勢いよく首を振った。その反応に「だろうな」と頷き、遠ざかった流川の頭を乱暴に撫でながら強引に引き寄せる。
「冗談だっつの」
そう言って笑い、流川の頬に手のひらを添えて、その濡れた唇を親指で優しく揉んだ。
「キスの仕方も知らねーんだもんな、お前」
「さっき教えてもらった」
「バァカ、あんなもんキスのうちに入んねーよ」
不満げに引き結ばれた流川の唇をふにふにと揉みながら「もっぺん口開けてみ」と促す。すると間髪入れずに柔らかな赤い唇がぱっくりとおおきく上下に開かれ、綺麗に並んだ白い歯列と、その奥にある喉の粘膜の形状までもがはっきりと見えた。
「……あのな、お前、もうちっと色気ってもんをだな」
三井の言いつけどおりにやったつもりらしい流川が、不思議そうに首を傾げる。なんというか、これではまるで巣の中で餌を待つ雛鳥か、歯医者の診察台に乗せられた患者かなにかのようだ。
「まあ、いいわ」
お前に色気を期待した俺がバカだった、と肩を落としてかぶりを振る。
「で、次はどうすんだっけ?」
気を取り直して言うと、流川はまた素直にその赤い舌先を歯のうえに乗せた。行儀よく並んだ白い歯と、毒々しいほどに赤い舌先。それから、三井の唾液で僅かに湿った形の良い唇。
「ほんと、宝の持ち腐れっつーんかね、こういうの……」
そうぼやきながら、目の前の唇にそっと自分のそれを寄せる。緊張に強張る流川の舌が、おずおずと三井の唇に触れた。
「おー、上手上手」
吐息に混ぜて囁くように褒めてやると、流川の白い肌が耳元まで真っ赤に染まる。そして、その真っ赤な頬にはにかんだような笑みが浮かんだ。
流川のプレーは、派手で、力強くて、攻撃的だ。やられたらやりかえさずにはおれない負けん気と、そこをまんまと手玉にとられるような単純さや危うさもある。そのせいか、恋愛に関しても、もっと自分勝手かつ強引に事を運ぶタイプの男なのだろうと勝手に思っていた。
それがどうだ。
これではまるで、三井のほうがなにも知らない幼い少年を誘惑する悪女のたぐいのようではないか。好きだと気持ちをぶつけられ、答えをくれと迫られたのは自分のほうだ。それなのに、いざ関係をはじめようとこちらから仕掛けてみれば、流川の持つ手札は驚くほど乏しかった。その乏しさがそのまま彼の純真さと幼さを表していて、三井は愛おしいやら申し訳ないやら、胸ばかりが詰まってどうしてよいのかわからなくなる。
それに、なんで俺なんだ、という疑問も拭いきれなかった。
頬に添えていた両手を流川の首へ回し、拭いきれない疑問を飲み込むように口付けを深める。そうしているうちに流川も普段のふてぶてしさを取り戻して、大胆に舌を絡めてくるようになった。
流川の手が、三井の腰へぎこちなく添えられる。
おおきな手だ。三井が女だったなら、そのおおきさと力強さにきっと戸惑ったことだろうと思う。恐怖さえ感じたかもしれない。けれど、三井の手も十分におおきいのだ。背丈だって流川のほうが高いけれど、それもほんの僅かばかりのことで、三井が見上げるのに難儀するほどではない。力尽くで乱暴に迫られたところで、やられっぱなしで終わるほどか弱いわけでもない。
だから、これはすべて三井の意思でしていることだ。
こういう気持ちを、背徳感、と呼ぶのだろうか。
「……なんかさ、あれみてえ。筆おろしモノのAV」
体の昂りを誤魔化すように笑いながら言うと、流川が怒ったように三井の下唇へ噛みついてきた。
「いて」
「先輩が、変なこと言うから」
「だってよ、お前があんまり初心だからさ……」
「笑うな」
流川の頬がむっと膨らむ。そのふてくされた顔が可笑しくて、ますます笑いが止まらなくなった。丁度そのタイミングで、下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。
「――あ、ヤベ。鍵返さねえと」
「俺も行く」
「すぐ戻るって」
「ヤダ。一緒に行く」
「あーあー、わかったから」
聞き分けのない子供のように首を左右に振る流川に、また笑いが込み上げてくる。今度は、可笑しみよりもずっと愛おしさのほうが勝った笑みだった。