閉門時刻ぎりぎりの駐輪場には、運動部の生徒たちが賑々しくひしめきあっていた。ひとりふたりと減っていく野球部の坊主頭を数えながら、隣でごそごそとスポーツバッグの底を浚う横顔を盗み見る。
あの女子生徒は、今頃どうしているだろうか。この場所で流川にラブレターを差し出し、すげなくあしらわれた彼女だ。
ほんの数週間前の話なのに、もうずいぶんと前の出来事のようにも思えた。失恋の傷は癒えただろうか。それとも、前にもましてその思いを募らせているのだろうか。
あのときは、この後輩はどこまで筋金入りの朴念仁なのだと、驚きを通り越していっそ心配にすらなったものだ。いつかよからぬ女に騙されて痛い目を見るのではないかといらぬ気まで揉んだ。
「あった」
スポーツバッグから顔をあげた流川が、鍵を片手に三井を見た。キーホルダーもなにも付いていない、いかにも流川らしい素っ気のない鍵だ。
「遅えよ。……ったく、いっそ首にでもかけといたらどうだ?」
どことなく落ち着かない気分を誤魔化すように言うと、流川はすこし考えるそぶりを見せたあと「確かに」とちいさく頷いた。
「確かにじゃねーよ。小学生じゃねーんだから」
「うす」
「なにがうすだよ。ほら、さっさとチャリ取って来いって」
三井が急かすと、流川はまた「うす」と頷いて駐輪場へ走った。ほどなくして、あちこちへこんだぼろぼろのママチャリが野球部の人波をかき分けながら戻ってくる。そのママチャリを挟むように隣へ立って、ふたり、徒歩で帰路へとついた。
校門を出てしばらく歩き、ラーメン屋へ続く海沿いの道へ出る。夕陽が差す季節外れの砂浜に、男女入り混じった高校生の集団が見えた。
「げ、この時期に花火かよ」
馬鹿じゃねーの、と笑った三井を、流川が不思議そうに見る。
「なんで」
「なんでって、花火は夏にするもんだろ」
「ふうん」
残暑はきついが、暦のうえではもう秋である。最近では海風もずいぶんと冷たくなってきた。
無駄に費やした二年間のせいで、春も夏も、味わう余裕すらないうちに過ぎ去ってしまった。がむしゃらにただバスケだけをして、夢の舞台に立って、勝って、負けて、振り返ればほんとうに目まぐるしい半年だった。
後悔することはいくらでもある。自分が無駄にしてきたもののおおきさと重さを思って泣きたい気分になることだっていまだにあるし、なんのてらいもなく青春を謳歌する同級生たちがひどく眩しく見えるときもあった。
どれもきっと、隣を歩く流川が一生知ることのない感情だ。そうに違いないと思うし、そうであればいいと心から願っている。
そんな感傷に浸りながら歩いていると、ふいに流川が三井のシャツの袖を引いた。なんだと隣を見れば、流川の指と視線が意味深に砂浜を示している。
「ああ?」
視線の先では、相変わらず先ほどの集団が楽しげにたむろしていた。ぐるぐると手持ち花火を振り回す集団の中心で、一組の男女が大胆に抱き合っている。そして、おもむろに顔を寄せ合うと――。
「……おお、青春だなあ」
これぞまさしく青春の一ページ、というような光景だ。流川もこくりと頷き、ふとその仏頂面を緩めて笑った。
その顔に、今日何度目かわからない息苦しさが襲ってくる。
「……あのさ」
苦しさに歪んだ唇を一度噛みしめ、意を決して流川の顔を見据えた。
「なんで俺なわけ」
たかだか好みのタイプというだけで、同性の先輩に恋愛感情を持つわけがない。まさかこの流川に限って一目惚れなどということもないだろうし、だからといってなにか特別彼に惚れられるような振る舞いをした記憶もなかった。
だからこそ、恐ろしい。
身に覚えのない懸賞にでも当たったような気分だった。身に覚えがないのだから、いつ取りあげられても文句は言えないだろう。なにかの間違いでした、と、お前には分不相応だ、と後から急に取りあげられても、三井には怒ったり悲しんだりする資格すらないのではないか。そんな気がして、恐ろしかった。
三井の問いに、流川が黙って首を傾げる。そして、途方に暮れたような顔でぽつりと言った。
「……わかんねー。こっちが聞きてー」
ふたり揃って立ち止まり、お互いに顔を見合わせて目を瞬く。その後ろでロケット花火の甲高い破裂音が響き、遅れて女子生徒の楽しげな悲鳴があがった。
「……わかんねーのかよ」
意表を突かれた三井が脱力しながら言うと、流川も「そっちこそ」と心細げに返す。
「なんでいいって言ったの」
「それは……」
「……難しいことはわかんねーっすけど、俺はこのままずっと先輩とバスケがしてー」
その言葉に、また胸がきつく締め付けられた。
三井が流川のチームメイトとして同じコートに立てる機会は、もう数えるほどしかない。秋季国体に、ウィンターカップ。それが終われば三井は否が応でも引退しなければならないし、流川はいずれ夢を追ってアメリカへと旅立ってしまう。
「ワンオンでは勝てるけど、外のシュートはまだ先輩のほうがうめーし。……もしアンタがグレねーでバスケやってたらって思うと、ワンオンだってわかんねーし。だからなんか、まだ全然勝った気がしねーっていうか」
抑えていた堰が切れたのか、流川はいつになく饒舌だった。
「……なのに、先輩は全然俺のこと見てくんねーし。いつもどあほうとか、宮城キャプテンとか、ほかの奴らのことばっか見て」
その口調も、次第に怒ったような、拗ねたような、感情的な色合いを帯びてくる。三井はその感情の奔流を、ただ呆気にとられるまま聞いた。
「だから、あの日俺だけにラーメン奢ってくれたの、すげー嬉しかった。……ひとになんかしてもらってあんなに嬉しいの、はじめてだった」
流川が噛みしめるように言う。
「……たかが、ラーメンじゃねーか」
三井も、最後の悪あがきとばかりに掠れた声を絞り出した。
たかがラーメン。その通りだ。赤木だって木暮だって、宮城や彩子だって、流川がねだればラーメンくらい奢ってやるだろう。三井だって、なにか特別な考えがあって奢ってやったわけじゃない。
そんな三井の言い訳めいた考えを見透かしたように、流川は続けた。
「ラーメンだけじゃねー。先輩がどあほうの世話焼いてんの見るとムカつく。宮城キャプテンとふたりでしゃべってるとこ見んのも嫌だ。仙道と女の好みがどーとか言ってんのも嫌だった。全部俺だけにしてほしいって思った」
流川の澄んだ瞳が、三井の情けなく歪んだ顔を映す。
「それって、俺がアンタのこと好きってことでしょ」
違うんすか、と畳みかけられ、言葉に詰まった。
それは誰が聞いても間違いなく、恋心だろう。そう確信してしまったからだ。
「……なんなんだよ、お前」
意味わかんねーよ、と、間の抜けた涙声が出る。
流川を甘く見ていた。流川はやはりどこまでいっても流川で、こんなときでも真正面から堂々と勝負を挑んでくる。小狡い不意打ちで主導権を握ろうとした三井の思惑など蹴散らし、真っ向勝負で勝ちをもぎ取りにくる。
降参だ、と呟き、空を仰いだ。
「俺の負けだよ」
「……なにが」
「敵わねーわ。もう、絶対勝てねー」
「勝ち負けの問題なんすか、これ」
流川が戸惑ったように言う。三井はそんな流川を置いてひとり歩き出すと、三メートルほど離れたところで急に立ち止まり、そして、前を見据えたまま大声で叫んだ。
「俺も好きだぜ!」
三井の後ろで、ぎっ、と耳障りなブレーキ音が鳴る。砂浜では打ち上げ花火の準備をしているものらしく、五、四、とカウントダウンをする笑み混じりの合唱が聞こえた。
「いま惚れた! ――俺、お前のこと好きだわ!」
今度は振り返って叫ぶ。
好きだ。流川のことが――どうしようもなく、好きだ。そう思った。
自転車を支えたまま立ち尽くす流川の両目が、見たこともないほどおおきく見開かれた。火薬の爆ぜる音が砂浜に響き、視界の端でちいさな火花の輪が弾ける。
三井があの合宿の晩の告白を拒まなかった時点で、とっくに勝敗は決していたのだ。ブザーが鳴っていなかっただけで、点差はもう逆転が不可能なほどに開いていた。
「……先輩が、俺のこと、好き?」
「いまそう言っただろ!」
呆然と呟いた流川に「聞いてなかったのか?」と怒鳴り返す。がしゃんとひしゃげた音を立てて自転車が倒れ、次の瞬間には全身の自由を奪われていた。
「――はは、なんだこれ。めちゃくちゃ青春じゃねーか」
絞め殺されるんじゃないか、というほどの強烈な抱擁を受けとめながら、照れ隠しの軽口を叩く。流川の熱い息が首筋にかかり、くすぐったさに思わず身を捩った。
「馬鹿、苦しいっつの」
「……うれしい」
「おー、よかったな」
「うす」
三井の首筋に顔を埋めたまま小刻みに頷く流川の頭を、苦笑混じりに撫でる。
「ほら、さっさとラーメン屋行くぞ。炒飯とギョーザもつけてやっからよ」
「デザート……」
「いーよ、アイスでもなんでも」
「こないだのヤツ、旨かったっす」
「自販機のか?」
「うん」
きつい抱擁からなんとか逃れ、潤んだ目元をシャツの袖でごしごしと拭ってやる。流川はすっかりされるがままで、ただ嬉しそうにじっと三井を見つめていた。
夜の香りをまとった冷たい海風が、ふたりの間を容赦なく吹き抜けてゆく。
季節は秋だ。三井の高校生活はあといくらも残っていないし、流川はいずれ夢を追いかけてアメリカへ旅立ってゆく。
砂浜で、またちいさな打ち上げ花火があがった。
まるでこれからのふたりの関係を暗示しているみたいだな、とぼんやり思う。綺麗なのはほんの一瞬で、あとに残るのは物寂しい燃えカスだけ。
けれど、それでもいいと思える相手だ。
「いつかお前はアメリカ行って、スゲー選手になんだろ。……あっちでもちゃんと思い出せよ、今日のこと」
流川から離れ、無造作に倒された自転車へ歩み寄りながら、ぽつりと言った。
「でさ、たまにはラーメン食いに帰ってこいよ。奢ってやるから」
流川も三井の隣へ寄ってきて、ぱちぱちと目を瞬きながら話の続きを待っている。その顔を見あげながら自転車を起こし、ゆっくりと歩き出した。
「俺の前でスターぶれると思うなよ。お前がどんだけ金持ちの大スターになっても、お前にラーメン奢んのは俺の役目だから」
「なにそれ」
流川が笑う。ハンドルを握っていた三井の手に流川のそれが重なり、アスファルトに奇妙な形の影ができた。
「チヤホヤなんか一生してやんねーってこと。お前は死ぬまで俺に頭あがんねーし、俺は死ぬまでずっとお前にラーメン奢らされんだ」
「……死ぬまで?」
「おー。まあ、言うだけタダってやつだな」
「うん、死ぬまで。――約束」
「おうよ」
ふたり並んで自転車を押しながら、ままごとのような永遠の誓いを交わす。互いを縛る確かな契約があるわけでも、証人がいるわけでもない。ここは教会じゃないし、神父や牧師のたぐいがいるわけでもいない。ほんとうに、ただのままごとだった。
けれど、それでいいのだ。
奇妙な形の影が重なり合い、溶けあって、ひとつになる。
それは、これぞまさしく青春の一ページ、というような光景だった。
2020.10.16