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 流川のマンションの近くには、フェンスに区切られたストリートボール用のバスケットコートがある。
 ベッドルームの窓からも見下ろせるそこは、辺りがわりあい古くから拓けていた閑静な住宅街であるせいか騒がしい若者の利用が少なく、周囲の人通りもないので気に入っていた。チームの設備を借りるほどでもない短時間の自主練習や、気紛れにボールを触りたくなったときなどによく使っている。
 今日も例に漏れず、辺りにはひとりの人影もない。
「――いいとこだよな、ここ」
「来たことあるっすか?」
「いいや。お前迎えに来るときとか、車運転しながらよく見てたんだよ」
 地面に座り、辺りを見回しながらストレッチに励む三井は、自他ともに認めるバスケ馬鹿らしく、バッシュもウエアも常に車に積んであるのだそうだ。
「ここあんま人いないんで、穴場っす」
「あー、そんな感じだよな」
 そう言いながら立ちあがった三井は、ぴょんぴょんと軽く跳ねて地面とシューズのフィット感を確認しつつ、ぐぐ、と上に伸び上がった。その動きにあわせて肩周りの筋肉がしなやかに動き、かつての彼にはなかった逞しい隆起を作る。
 高校時代は上背の割に細身な印象が強かった三井だが、高校を卒業してからかなり重点的に筋力トレーニングへ力を入れたらしかった。見た目にもはっきりと分かるほど格段に体幹と下半身が強くなり、得意のアウトサイドだけでなく、インでの勝負も十分に計算できるフィジカルを手に入れている。
 その事実が、まるで自分のことのように嬉しかった。
 ずっと悩んでいたことは知っている。
 流川もずっと悔しかった。
 天性のセンスと過去の遺産と二年間のブランクに由来するフィジカルの弱さ。それら全てをひっくるめて強引に繋ぎ合わせたいびつなプレーが、確かにあの当時の三井の偽らざる実力であり、選手としての魅力でもあった。
 足りないフィジカルを補うように尻上がりに精度を増していく、うつくしいスリーポイントシュート。
 ど素人とはいえ、その日本人離れしたフィジカルと底知れないポテンシャルで並み居る強豪を蹴散らしてきた桜木を、いともたやすく手玉に取ってしまえるクレバーな戦術眼。
 ときにトラッシュトーク紛いのはったりまで駆使して相手の裏をかく狡猾さと柔軟さ。
 そのどれをとっても、あの当時の流川に足りなかったものばかりを、彼は持っていた。
 無駄にした時間はどうしようもない。
 でも、一度でいいからなんの言い訳もきかないほど万全の状態の三井と勝負をしてみたかった。
 そして、倒したかったのだ。
 そんな流川の思いをよそに、三井はあっという間に湘北高校を卒業していった。彼がその才能を完璧に発揮するためのフィジカルを手に入れるより先に、三井は大学へ進み、流川はアメリカへ渡った。
 そのことがなにより悔しかった。
 だから、日本に戻ってきた。
 ひとつやり残したことがあったことを、思い出したから。
 ほんとうはもっとはやく言い出すつもりだったのに、なんとなく決着がつけ難くて、先延ばしにしてきたのだった。思い立ったら即実行の流川にしては、珍しく。
「先輩はスリーなしね」
 流川が言うと、三井はぎょっとしたように目を剥いて返した。
「先輩は……ってお前、なんで俺がハンデ背負わなきゃなんねーんだよ」
「ありにしたら、俺、マンション買わないといけなくなる」
「お前が言い出したんだろーがっ!」
 そう言いながら、三井が駆け寄ってきて手流川の尻をばちんと叩く。そのままの足で地面に転がしていたボールを拾い上げた三井は、軽く流すようにドリブルをして、柔らかなレイアップシュートを一本決めた。そのボールを拾い、また軽くドリブルをして、今度はスリーポイントラインからシュートを放つ。
 何度見ても飽きない、うつくしいフォームだった。
「どっち先攻?」
 シュートの結果も見ずに振り返って、三井が言う。その後ろでネットが小気味よい音を立てて揺れ、ボールが静かに地面を叩いた。
「先輩で」
 そう返しながら、リズミカルに跳ね続けるボールを拾いあげ、三井に向かって投げる。三井の瞳が好戦的に光り、口元から白い人工歯がニッと覗いた。
「吠え面かくなよ」

 学生時代からの癖や、性格まで熟知し合っている相手とのプレーは楽しい。
「……ちっ」
 インサイドでのプレーを意識しすぎて、ミドルへの注意が薄れていたところを上手く突かれた。
 右へのフェイクのあと、左に強く踏み込み、もう一度右にくると思ったところで、体を上手く反転される。そのままミドルレンジから高い打点のジャンプシュート。反射的に手を伸ばしたが、軌道を上手く逸らされた。
「ナイッシュー!」
 と、ネットが揺れるよりさきに宣言され、つい笑みがこぼれる。
「やられた」
「はは、見たか俺様の実力!」
「見た見た。絶対中で仕掛けてくると思ったのに」
「お前相手にんな馬鹿な勝負はしねーよ」
 一見誰より熱くなりやすいように見えて、どこまでも冷静にゲームを運べるのが三井だ。流川との実力差は事実として認め、自分の得意なフィールドで上手く勝負を仕掛けてくる。
「どこのマンション買ってもらおっかなあ」
「まだ決まってねー」
「やっぱ車かなあ。野球選手が乗ってるみてーなデケー車がいいなあ」
「うるせー、まだはえー」
 繰り返される挑発めいたおねだりに噛みつきながら、ボールを拾いに走る。まんまとしてやられたのに、流川の顔には不思議と笑みが浮かんでいた。
 単純な実力ならば、もちろん、NBAで対戦してきた選手たちのほうが上だ。フィジカルもテクニックも、文字通り化け物じみた連中と何度もマッチアップしてきた。そういう連中と出会うたび、血肉が沸き立つような興奮を覚えた。全身に武者震いが走るほどに闘争心が煽られた。ぜってー倒す、と何度も繰り返し呟いた。
 満ち足りた日々だったと思う。
 日本でずっと感じていた飢えや渇きのようなものを、アメリカでの生活が癒してくれた。貪欲に欲望を満たし、脇目も振らずに高みを目指した。
 満ち足りてはいた。
 楽しかったかどうかは、正直、わからない。
 流川は、もとからバスケに楽しさを求めるタイプではない。
 どんな些細なプレーにも、勝敗をつけなければ気が済まなかった。優れたプレイヤーと出会えば、喜びよりもさきに闘争心が煽られた。流川が勝ったと思うまでは、どんなに息が上がっても、相手がもうやめようと言っても食らいついた。
 バスケをはじめた頃は、たぶん、勝ったら嬉しかったし、楽しかった。
 いつからだろう。苦しくはないけれど、楽しくもなくなった。
 名状しがたいどろどろとした熱量に焼かれながら、ただ、急き立てられるようにバスケをしていた。
 飢えや渇きを満たすために。
 目指す高みへ上り詰めるために。
「次は俺の番」
 そう宣言して、すぐシュートの構えに移った。
「――あっ、このっ!」
 三井の怒鳴り声を聞きながらほくそ笑み、ボールをリリースする。スリーポイントラインから、やや低めの強い弾道。咄嗟に駆け出そうと前のめりになった三井は、左足を強く踏み出したまま、仰ぎ見るように流川と流川の放ったボールを見た。
「卑怯者!」
「うるせー」
 そう返しながら、ゴールに向かって走る。バックボードに跳ね返ったボールを目がけて飛び上がり、唖然とした顔で固まっている三井を振り返って、背面のままボールをリングへ叩き込んだ。
「……見たか俺様の実力」
「――クッソ! この、てめーっ!」
 やりやがったな、と叫びながらも、三井の顔は笑っている。まるで、スーパースターを目の前にした子供のような顔だ。
「レブロン気取りか!?」
「これで同点」
「うるせー、まだはえーっつの!」
 三井はそう言って流川に人差し指を突きつけ「まだ同点!」と叫んだ。さすが諦めの悪い男だ。
 そうやって噛みつきあい、ときには二人で腹を抱えて笑いながら、取ったり取られたりを繰り返す。一本一点の五点先取ではじめた試合は、結局、流川が五点、三井が四点という僅差の好勝負に終わった。
「……くっそー、俺のマンション」
 膝に両手をつき、肩で息をしながら三井が悔しそうに言う。
「俺の朝メシ」
「なに食いてーんだよ」
「和食。みそ汁と焼き鮭と卵焼き」
「めんどくせー」
 そう言いながら、たぶん、ちゃんと作ってくれるのだろう。妙なところで律儀なのが三井だ。ねぎらい代わりにコートサイドに置いていたスポーツドリンクとタオルを取って投げ渡してから、相変わらずぴろぴろとうるさいスマートフォンを確認する。
「まだ鳴ってる」
 舌打ち交じりに言うと、ボールを小脇に抱えた三井が近寄ってきて、画面を覗きこんだ。
「お前が全然更新しねーから、みんな珍しがってんだよ」
「やりかたわかんねー」
「ほら、ここ押して、これが写真。こっちが動画」
「動画も撮れんの?」
「撮れるぜ。なに、興味あんの」
「……ちょっと気になっただけ」
 そう言いながら、じっと三井の指先を見る。不意に頭へ浮かんだ、ちょっとした思い付きがあったのだ。ここを押して、ここを押して、こう。懇切丁寧な説明を、一字一句漏らさないように頭へ叩き込む。
「ね、先輩。次はスリーポイント対決しよう」
「はあ? まだやんのかよ……」
「先輩が勝ったら、ちゃんとプレゼント買うから」
「マンション?」
「……十万以内で」
 流川の言葉に「乗った」と現金な宣言をした三井が、さっそく抱えていたボールを手にスリーポイントラインへ走った。自分が負けたときの条件を一切聞いてこないのは、彼の自信の表れだろう。流川のほうもスリーポイント対決で三井に勝てるとは思っていなかったので、なにも言わなかった。流川が負ければ、先程のワン・オン・ワンとあわせて、トータルでは引き分けだ。
 三井がゴールの正面に立ち、一度だけふっと息を吐いて、ボールを放る。振り返って人差し指を立て、天を指す。そのままその指で流川を指し「見たか」と白い歯を剥いて笑う。
 ネットが揺れ、ボールが地面を打つ。
 その完璧すぎるほど完璧な動きを、スマートフォンの画面越しに観た。
「……ラリー・バード気取り」
「うるせー、つかなに撮ってんだよ!」
 そう言いながら走ってくる三井をかわし、急いで投稿ボタンを押した。キャプションにはたったの一文字、咄嗟に思いついた赤い絵文字を付ける。
 慣れない操作に手間取ったけれど、成果は上々だ。
 すぐにうるさく鳴き出したスマートフォンを握りしめ、掴みかかってくる三井を抑え込むように抱き締める。
 日本に戻ってきてよかった。
 勝敗なんか別につかなくてもいい。
 なんとなく、引き分けのまま、ずっとこうやって笑いながらバスケができれば、それで。
 幸せだな、と、流川は思った。

2020.05.29

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