若葉のころ

 天気の良い、ある日の昼下がり。例によって例のごとく流川が屋上で転寝をしていると、急に扉が開いて、騒がしい気配がひとつ飛び込んできた。風に煽られた扉がばたんと大きな音を立てて閉まり、それからばたばたと忙しない足音が近づいてきたかと思えば、足元に寝転がっている流川に気付いてはたと動きが止まる。
「――おっ、と」
 聞き覚えのあるその声に薄目を開けると、二年上の先輩である三井寿の細長いシルエットが、流川のちょうど真横に聳え立っていた。衣替えをしたばかりの半袖の開襟シャツが、風を含んでぱたぱたとはためいている。
 夢うつつの狭間でまどろんでいた流川は、急にもたらされた覚醒にむっつりと顔を顰めながら腕枕を解いて上半身を起こし、眩しい日差しに目を細めながら傍らに立つ三井を見上げた。三井は手で首元を仰ぎながら「よう」とぶっきらぼうに片手をあげる。
「昼寝か?」
「うす」
「邪魔したな」
「べつに」
 流川もぶっきらぼうに答えながら、くわ、と大きな欠伸をこぼした。そんな流川を、三井が苦笑まじりに見下ろしている。
「いつ見ても眠そうだな、お前」
「いつもじゃねー」
「バスケん時は起きてんな。それ以外は寝てんだろ?」
「まあ、だいたい」
「授業中もか」
「とーぜん」
「堂々と言うことじゃねーだろ」
 三井は流川の返答にぷっと吹き出しながらしゃがみ込んで、それから「はあ」と短いため息をついた。畳んだ膝の上に頬杖をつき、すっかりここへ長居をする腹積もりのようだ。頬杖のうえに顎を乗せた三井が、横目でちらりと流川を見る。
「お前、なんの種目出んの?」
 だしぬけにそう尋ねられ、流川はぱちくりと目を瞬いた。怪訝そうに首を捻った流川を見て、三井が呆れたように言う。
「体育祭だよ、体育祭」
 体育祭。
 オウム返しに呟いてから、記憶を辿る。
「知らん」
 流川は首を捻ったままそう答えた。言われてみれば、リレーのメンバーがどうのとかユニフォームがどうのとか、いつかのホームルームの時間にそんな話が出たような気もしないではないが、クラスメイトの石井にすべて丸投げして机に突っ伏し、それっきりだったような記憶だけが薄っすらとある。
「……だと思った」
 三井ががっくりと肩を落とす。引き続き首を捻ったままそんな三井を眺めていると、先程三井が入ってきた扉が再び勢いよく開いて、今度は聞き慣れない甲高い声が屋上中に響き渡った。
「――あっ、ちょっと三井!」
 探したんだけど、と険のある高い声が言って、三井が「げっ」と気まずそうに顔を顰める。さすがの流川も何事かと声のほうを振り返ると、扉のところにひとりの女子生徒が立っているのが見えた。
「知り合い?」
 三井のほうへ向き直ってそう尋ねる。三井は苦いものを噛んだような顔で「同じクラスの女子」と手短に答えた。
「はあ」
 曖昧に頷き返しながらもう一度扉のほうへ振り返って、真っ先に目についたのは異様に切り詰められたスカートの丈だった。そこから伸びるすらりとした長い生足と、あきらかに校則違反だろうルーズソックス。額の真ん中で左右に分けられた長い黒髪はくるくると綺麗に巻かれており、化粧のせいだろうか、顔のパーツのひとつひとつが遠目にもやけに際立って見えた。いわゆるギャルと呼ばれるような、流川の周りにはあまり寄ってこないタイプの女子だ。
「ねえ、三井ってばっ。聞こえてんでしょ!?」
 扉の前で仁王立ちしていた女子生徒は、ちょっとハスキーな感じの声でそう怒鳴ると、ぱたぱたと上履きを鳴らしながらふたりの元へ駆け寄ってきた。足の動きにあわせて短いスカートの裾が無邪気にひらめき、こと女性関係についてはやれ無神経だの朴念仁だのと散々に言われる流川でさえ、ちょっと目のやり場に困る。
「聞いてる聞いてる。つーかお前、いちいち声でけえんだよ!」
 三井も負けじと怒鳴り返して、しっし、と犬を追い払うように右手を振った。女へ向けるにしてはあまりに乱暴な仕草と口調である。流川は思わずぎょっと面食らって、隣の三井をまじまじと見た。
 普段から不良軍団だとか問題児軍団だとか散々に称され、レギュラーメンバーは特に揃いも揃って柄が悪く喧嘩っ早いことに定評のある湘北高校バスケ部ではあるのだが、あれで案外女には弱い連中が多く、マネージャーの彩子や赤木晴子などはつねに下にも置かぬ扱いをうけている。
 とはいえ三井は下心丸出しの宮城や桜木と比べればそれほど露骨な振る舞いをするほうではなく、だからといって彼女らをぞんざいに扱っている姿も――某襲撃事件の際の振る舞いを除けば――見たことがなかった。それでなんとなく、女にはあまりきつく当たらないタイプなのだと思っていたのだが。
 こんなひとだったっけ、と無言で首を捻るが、答えは出ない。他人への興味関心が人一倍薄い流川である。数少ない記憶の中から答えを導き出せるはずもなかった。
 ひとり無言で首を捻っている流川をよそに、怒鳴り返された女子生徒は怯みもめげもせず三井の横へ立つと、きれいに整えられた眉をきっと吊り上げ、ピンク色の唇をむっ尖らせながら言った。
「だって、三井が無視するからでしょ。ずっと探してたのに」
 咎めているような甘えているような、どちらともつかない声音だった。聞き慣れた彩子や晴子のそれとは違う、いかにも科を作ったような声だ。三井は露骨にうんざりした顔でため息をつくと、首の後ろを擦りながら素っ気なく答える。
「はあ? してねーって」
「したじゃん!」
「だから、してねーって。つか、何の用だよ」
 三井の素っ気ないにもほどがある態度に、けれど女子生徒はやはり怯みもめげもしなかった。しゃがんだままの三井の右腕を両手で掴み、掴んだ腕をぶらぶらと揺らしながらぶうぶうと唇を尖らせている。
「一緒にクラT買い出し行こうって、リエずっと言ってたじゃん。んで昼休みにカタログとか見よって。なんで来ないわけ?」
「それは断っただろ。しかもなんでリエじゃなくてお前が来るわけ?」
「エミも一緒に行くって言った! あ、ミサキとアキコも行きたいって」
 呆気にとられながらふたりの会話を聞いていた流川の頭の中に、いくつもの名前が浮かんでは消える。この女子生徒はリエかと思いきやエミで、リエは三井と一緒にどこかへ行きたがっていて、エミとミサキとアキコもそこへ付いて行きたがっている。男が一人に女が三人。どうも、一般的なデートの類いではなさそうである。
「いや俺聞いてねえし。つか行かねえって、部活あんだよ」
 三井は腕をぶらぶらと揺らされながら、心底どうでもよさそうに言った。女子生徒――推定エミはスカートの裾を舞い上がらせながら三井の隣へしゃがみこむと、唇を尖らせたまま上目遣いに三井の横顔を見上げた。両手はまだ三井の右腕に添えられていて、薄ピンク色に染められた指先が控えめにシャツの袖をつまんでいる。
「えーっ、したらアタシもリエも行かないよ?」
「いやお前、んなこと言ったらタナカが可哀想だろうが」
 三井は困ったように後頭部をかきながら、先程よりはいくらか優しい声で諭すように言った。ここにきて、また新たな登場人物である。流川は黙ってふたりの話に耳を傾けながら、頭の中にあるぼんやりとした人物相関図にぼんやりとした追記を加えた。
「だって三井が来るかもって言うから立候補したんだよ、リエ。三井来ないなら行く意味ないじゃん」
 どうも、このリエというのがかなり三井にご執心のようである。けれど三井はちっとも嬉しそうではなく、隣の流川へ己の女子人気を自慢するふうでもない。
「じゃあタナカひとりで買い出し行かせんのか?」
「べつに大丈夫じゃん? それでも」
 エミの返答は冷ややかだ。一人だけ名字で呼ばれているところから察するに、タナカというのは恐らく男だろう。三井が同情たっぷりに「つめてーの」とこぼす。
「じゃあ三井が来ればいいじゃん」
「だから、放課後は部活があんだって」
「今日の六限ホームルームでしょ? ウチらだけちょっと抜けさせてもらえるようにセンセーに頼んどくからさ」
 ね、おねがい。エミがぱちんと手を合わせて首を傾げると、艶のある長い髪がするすると肩の上から滑り落ちた。三井は一段と大きなため息をつくと、十秒ほど低い声で唸り、鬱憤を晴らすようにがしがしと頭をかいた。
「……寄り道はぜってーしねえからな」
「やった!」
 エミは両手でちいさなガッツポーズを作ると、三井の肩へ大胆にしな垂れかかった。けれど三井は動揺する様子も赤面する様子もなく、淡々としている。
「勘違いすんなよ。リエのためじゃなくてタナカのために行くんだ、俺は」
「えー、そんなこと言ったらリエがかわいそーじゃん。三井んことちょーマジなのに」
「はあ? アイツ、つい先週までサトタケと付き合ってたじゃねーか」
 よく言うぜ、と三井が短く鼻を鳴らした。リエというのは、どうもかなりの恋多き女らしい。
「まあまあ。それはそれ、これはこれじゃん?」
 エミが茶目っ気たっぷりに笑う。三井はまた一段と大きなため息をついてから、疲れたようにぐったりと首を項垂れさせた。その拍子に流川の視界もぱっと開け、三井の向こう側にいたエミと偶然に視線がぶつかる。
「――あれ?」
 出し抜けに、エミが高い声を出した。これまでずっと沈黙を貫いていた流川の存在を、いまになってやっと認識したらしい。扇状に広がる長い睫毛がぱたぱたと上下し、アイラインに縁どられた大きな瞳がきょとんと流川を映した。ややあって「あっ」とエミが声をあげる。
「え、これってもしかして、ルカワカエデ?」
 まるで商品名か種族名かなにかのように名前を呼ばれ、流川はむっと眉間へ皺を刻んだ。けれどエミは流川の眼光にも怯まず――三井の怒鳴り声に怯まないのだから当然といえば当然だが――三井の肩をばしばしと叩きながらはしゃいでいる。
「うっそー、え、ねえねえ三井、一年のルカワカエデって、あのバスケで有名な子でしょ? 起きてるとこはじめて見たんだけど!」
 ウケるー、と終いには指まで差され、流川の眉間の皺はますます深くなった。物陰から遠巻きにきゃあきゃあと騒がれるのは日常茶飯事だが、まるで動物園の珍獣のように、真正面から指差されて笑われたのは初めてだ。
「……何コイツ」
 むっとしながらぼそりと呟いた流川の肩を、三井が窘めるようにぽんぽんと叩いた。なんで止める、と三井の横顔を睨めば、困ったヤツだな、と言わんばかりの苦笑が返ってきて、つい気勢が削がれる。そんなふたりのやり取りをみたエミが、また「ウケるー」と間延びした声で言った。それからちょっと小首を傾げ、不思議そうに続ける。
「つか三井、ルカワカエデと超仲良しじゃん。なんで?」
 エミの素朴な疑問に、三井が「はあ?」と凄んだ。
「仲良くねーわ。ただの部活の後輩!」
「え? ――あ、そっか。そういや三井、バスケ部戻ったんだっけ」
 忘れてたわ、とエミがけらけら笑いながら言う。三井はほとほとくたびれたような顔でため息まじりに答えた。
「だから何べんも言ってんだろ。部活がある、って……」
「あはは、ゴメンゴメン」
「ゴメンじゃねえよ、ったく」
 三井はすっかり呆れ返っている様子だが、エミとの間に険悪な空気はない。それが流川には不思議でならず、無言で首を捻った。
 考えてみれば、三井は宮城や桜木ともこんな風だ。大声で怒鳴りあっていたかと思えば、次の瞬間には笑いながらふざけあっていたり。赤木ともよく怒鳴りあっているが、コートの中へ遺恨が持ち込まれることはない。
 男の友情、とか。喧嘩するほど仲がいい、とか。馴れ合いを好まない流川にしてみればよく分からない文化だが、多分彼らは、エミが言うところの「超仲良し」なのだろう。だとすると、三井が流川との仲を問われ「仲良くねーわ」と答えたのも頷ける。
 頷けるし、だからなんだ、という話ではある。
 あるのだが、流川はちょっとばかり面白くない気分で眉間へ皺を刻んだ。丁度そのタイミングで昼休みの終了を報せる予鈴が鳴り、エミが慌てて立ちあがる。
「――あ、ヤバ。アタシそろそろ行くわ」
「おう」
「買い出し、忘れないでよね。リエ、ちょー楽しみにしてんだから」
「分かった分かった」
 約束だからね、と去っていくちいさな後ろ姿に、三井がしっしと手を振った。それから大きな声で「パンツ見えてんぞ!」とも。
「バカ三井! これはあ・え・て! 見せてんだよ!」
 入口の扉のところで、エミが笑いながら怒鳴った。笑ったり怒鳴ったり、笑いながら怒鳴ったり。世の中の人間はみんな器用だ。
 ばたんと勢いよく扉が閉まり、昼下がりの屋上に静寂が戻ってくる。残された流川と三井は、どちらともなくふっと肩を落としてから顔を見合わせた。
「……悪かったな、昼寝の邪魔して」
 三井が気まずそうに言う。流川は小さく首を振って「べつに」と短く答えた。
「聞いてたと思うけど、もしかしたら俺、今日の部活遅刻すっかもしんねーから」
「……はあ」
「まあ、もちろん間に合うようには戻ってくるつもりだけどよ」
 しつけーからな、アイツら。今日一番のため息をこぼしながら、三井がぶつぶつと言う。流川はまた「はあ」と曖昧な相槌を返し、ゆっくりと瞬きをした。視線の先では三井が左腕の腕時計に目を落としている。
「俺もそろそろ行くわ。――あ」
 三井はふと何かを思い出したように勢いよく顔をあげた。あー、と歯切れ悪く首の後ろを撫でながら、頬には苦笑が浮かんでいる。流川はまたゆっくりと瞬きをしながら話の続きを待った。
「なあ。いま見たこと、他の奴らには黙っといてくんねえか?」
 人差し指を立て、しーっ、と子供っぽい擬音付きで三井が言う。
「……それは、いーっすけど」
「おう、助かるわ。特に宮城のバカと桜木のバカには絶対言うなよ。……アイツら、女が絡むといつも以上にうるせえからな」
 今度はにかっと歯を剥いて、悪戯小僧のような笑顔。三井の言うことは尤もで、例えばもし今日この場にいたのが流川でなく桜木や宮城だったなら、先程のエミはもちろんこの場にいないリエのことまで根掘り葉掘り問いただした挙句、向こう一か月はこのネタで三井をねちねちといびりぬいただろう。徒党を組んで練習の合間にぎゃあぎゃあと騒いでは、赤木にげんこつを落とされ、彩子にハリセンでひっ叩かれ。流川はそんな三人を見てただ眉をひそめるか、ぜいぜい桜木相手に嫌味のひとつやふたつを言うくらいのものだ。間違っても自分から渦中へ飛び込んだり、先輩相手に不必要な喧嘩を吹っかけたりはしない。
 しない、のだが。
「……先輩、意外とモテるんすね」
 流川がぼそりと呟くと、三井は「ああ?」と柄悪く凄み「よせよお前まで」と流川の肩に肘打ちをひとつ。それから再び頬へ苦笑を浮かべると、で流川の頭を乱暴に撫でまわした。
「ちょ……っ」
「意外は余計だ、意外は」
「やめろ、って、この……っ!」
 頭をぐらぐらと揺さぶられながら必死に抵抗する流川を、三井はやはり苦笑まじりに見つめている。まるで、出来の悪い生徒を前にした教師のような顔だ。それを認識した瞬間、流川の白い頬がかっと熱を持つ。
 けれど三井はそんな流川の様子には一切触れず、最後にぽんぽんと軽く流川の頭を叩いてから立ちあがった。半袖のシャツがぱたぱたと風にはためき、香水か制汗剤か、爽やかな柑橘系の香りが流川の鼻先をくすぐる。
「――体育祭、ちゃんと出とけよ。青春しろ、青春」
 そっと落とされたその言葉に、流川は俯きながら「うす」とだけ答えた。初夏の風が熱を持ったままの頬を心地よく撫でる。
 三井の足音が遠ざかって、屋上の扉がきいと軋んだ。ややあって、流川の元へ本当の静寂が訪れる。午後の授業のはじまりを告げるチャイムが鳴って、けれど流川は結局、ごろりとコンクリートのうえへ寝転がった。
 目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。
 ――青春しろ、青春。
「……どうやるんだ、青春って」
 思いがけずこぼれ落ちた流川の独り言は、初夏の青空へ吸い込まれて溶けた。
 
2023.06.13