※モブ姦描写あり
カウンターへ少ないチップを置き、そろそろ席を立とうと腰を浮かせたところだった。
「ここ、いい?」
ブルネットは好みだ。すらりと高い背丈も、瞳の大きな美人も。けれど、男に酒を奢る趣味はない。
「悪いけど――もう帰るところなんだ」
クリスが言うと、男は特徴的な唇をにんまりと曲げて笑った。タイトなシャツにスラックス、靴とタイに至るまでブラックで統一されているのに、唇だけがおそろしく赤い。その唇を左側だけゆったりとつり上げ、挑発的な眼差しでクリスを見下ろしている。自分の魅力を完璧に理解している仕草だった。きっと、毎晩鏡の前で念入りに練習しているに違いない。
「そう? ぜんぜん飲んでないみたいだったけど……」
そっけなくあしらわれてもなお食い下がる男に、クリスは鼻で笑って返した。
「見てたのか? ――ピアノを弾きながら?」
先程までホールの真ん中でピアノを弾いていたはずの男は軽く肩を竦め、「見てたよ。君が派手なブロンドをすげなく追い払うところもね」と事もなげに言った。
「……酒は静かに飲みたいタイプでね」
暗に放っておいてくれと言ったつもりだったが、どうやら伝わらなかったようだ。隣のスツールに腰を据えられ、横からじっと覗きこまれる。男のそれにしては大きすぎるブルーの瞳が、日に焼けた髭面の気難しそうな男をうつした。
「彼女はタイプじゃない?」
「そうだな……。こう見えて、ああいう積極的なのは好みじゃない。人見知りするんだ」
「へえ、意外」
「よく言われるよ」
だからさっさと立ち去ってくれ、と思いながら、カウンターの中の旧友を見る。薄情な彼は、クリスの視線にこめられた意図をまったく汲んではくれなかった。
「いいじゃねえか、一杯くらい付き合ってやれよ」
「アンソニー!」
やや声を荒げたクリスを宥めるように上等なスコッチをダブルでそそがれ、クリスはついに席を立つ口実すら失ってしまう。
「アンソニー、君ってほんと最高!」
「おいおい、ピアノはどうした?」
「さっきのが今日のラストステージ。……一杯だけでいいから、ね?」
プリーズ、とねだるように囁かれ、目の前にはスコッチで満たされたグラス。こうなってはクリスが折れるほかなかった。仕方なしにグラスを傾けると、華やかでいて深みのある香りがすっと鼻を抜ける。グレンモーレンジの18年、彼女に罪はない。
「……で、一体なんのつもりだ? 偏見はないが、俺はストレートだ」
刺々しいクリスの問いに、男が仰々しく眉を上げる。「まさか! 俺もだよ」――そのくせ、耳元へ吐息を感じるほどの距離まで顔を寄せてから、甘ったるい声でそっと囁くように言った。「……ちょっと参ったことになっててさ」
「参ったこと?」
大げさに体を引いて眉をひそめたクリスを、困り顔の男があわてて追う。強引に肩を組まれ、二人の距離が一息に縮まった。
「しつこく口説かれてるんだ。――男に」
「それ、俺のことか?」
「茶化さないで。マジで困ってるんだ」
すぐそばにある男の瞳が、クリスの背後をそわそわと伺う。真偽を確かめるためにその視線を追うと、剣呑な顔をしたブロンドの男がマティーニを呷っているのが確かに見えた。敵意のこもった眼差しで睨まれ、なるほどな、とクリスも思う。これは間違いなく面倒な男だ。
「君の言っていることはわかった。……で、どうして俺なんだ」
「君が一番ハンサムだったから」
「そいつはどうも」
厄介ごとの気配を感じながら、クリスはひとつ大きなため息をこぼした。数少ない馴染みの店を失う可能性と、今日あったばかりの男の命運を天秤にかける。
「……ほんとうに君の奢りなんだろうな?」
お人好しめ、と笑うアンソニーの声が聞こえ、クリスは腹のなかでありったけの悪態をついた。そんなこと、自分が一番よくわかっている。
■
初対面の最悪な印象に反して話は思いの外弾み、気付けばクリスはすっかりと警戒をほどいていた。
「――へえ、じゃあニューヨークは久しぶりなんだ」
「ああ。一年ぶりかな」
いいなあ、と男が笑う。ジャズバーの雇われピアニストのほうがよほど人生を謳歌しているように思えるのだが、男はクリスの生活をひどく羨ましがった。
「海で泳いだりした?」
「当たり前だろ。フロリダだぞ?」
先週まで働いていたヨットハーバーの強い日差しを思い出しながら、クリスはもう三杯目になるスコッチを呷った。同じ場所に一年と留まらないその日暮らしをはじめて、もう十年近くなる。将来の保証がないかわりに、人付き合いの気苦労や厄介ごととは無縁の気楽な毎日だ。
「君はいつからここに?」
「去年の春からだよ。ちょうど君と入れ違いだね」
「だからか。――前のピアニストは?」
「ちょっと腰を痛めちゃって。俺は彼が帰ってくるまでの繋ぎってとこ」
男はうんざりした顔で肩を竦め、薄いジントニックをちびちびと舐めた。それでも目のふちが赤く上気しはじめているくらいだから、恐らくあまり飲めないほうなのだろう。
「次の店もすぐ見つかるさ」
励ますように肩を叩くクリスを、男のくたびれた瞳が見返した。
「どうだか。ここに拾われたのだってただのラッキーだし」
「へえ。詳しく聞きたいね」
「……あんまり面白い話じゃないよ」
それだけ言って、男は残りのジントニックを勢いよく流し込んだ。あまり聞かれたくない話なのだろう。
「まあ、無理には聞かないさ。……それにしたって、君くらいのハンサムなら仕事には困らないだろうに」
素養のないクリスにピアノの良し悪しはわからないが、すくなくともこの顔だけで雇う価値はあると思わせるほどのハンサムだ。女どころか、男にすらも不自由しないだろう。先程の男は結局アンソニーが上手く言いくるめて追い返したが、それも随分と手慣れた様子だった。
「……それしか取り柄がないから。ピアノと顔、それだけ」
彼はそう言うと、自嘲をたっぷりと込めて笑った。それだけ取り柄があれば充分な気もするが、ものは言い様である。クリス自身が恵まれた環境を捨てて放浪生活を送っている身だからか、彼の心境もすこしは理解できた。
「人の持ち物はよく見えるものさ。得てしてね」
「ああ、そうかもしれないね。……俺、できることなら君みたいな男に産まれたかったもの」
「髭面の無職に?」
「ワイルドなハンサムに。……大抵の女の子はそういう男に弱い」
彼には、馬鹿馬鹿しいことを大真面目な顔で言う妙なくせがあるらしい。クリスは久々に声をあげて笑った。
「結局それかよ、もっと深刻な話かと思ったのに!」
「なんだよ、大事なことだろ」
はじめに見たときは酷薄そうな印象さえあった薄い唇をかぱりと開け、彼もまた愉快そうに笑った。匂い立つようだった色気がすっかりと消えると、どことなく幼いような印象さえ受ける。年下だろうか、そんなふうに思ったところで、クリスはある重大な失態に気付いた。
「――しまった。俺、名乗ってないよな?」
「嘘、いまさら?」
男は目を見開き、もう一度大口を開けて笑う。彼の言うとおりだった。あんな出会いかたをした相手と、まさかこれほど気が合うとは思ってもみなかったのだ。
「クリスだ。クリス・エヴァンス」
右手を差し出してそう名乗ると、男は一瞬驚いたような顔でクリスを見た。そしてなぜだか妙に気まずげな顔で微笑み、クリスの手をしっかりと握り返して言う。
「あー、その、俺も。……クリストファー・スタンだ」
みんなはクリスって呼ぶけど。と彼が付け加える。
「凄い偶然だな。よろしく、クリス」
「ああ、こちらこそ。――よろしく、クリス」
■
クリスの放浪癖はもうほとんど病気といってもよく、あの夜の――もう一人のクリスとの出会いさえなければとっくに新たな住まいを求めて旅立っていたはずだった。
あれからも何度か例のバーを訪れ、演奏を終えたクリスと並んで酒を飲んだ。彼の出身がアメリカではないこと、けれどクリスより長くニューヨークで暮らしていること、母親もピアニストであること――人嫌いの自覚があるクリスにしては珍しく、彼についてのさまざまな話を興味深く聞いた。
「やあ、アンソニー。……彼は取り込み中?」
今日は珍しく荷物があったので、定位置よりも一つ手前の席に腰掛けた。カウンターの端に紙袋を置き、昔馴染みのバーテンダーに声をかける。アンソニーは一瞬焦ったような顔でクリスを見た。
「ああクリス、今日もハンサムだな――ちょっと待っててくれ、今来るはずだ」
「別にいいよ、時間ならあるし」
ピアノの代わりにスピーカーから流れるスタンダード・ジャズはどこか物足りなく、いつものスコッチも味気なく感じる。こんな日もある、そう思ってグラスを傾けていると、ようやく待ち望んだ人影がバックヤードから飛び出してくるのが見えた。
「クリス! ――ああ、ごめん。待たせちゃったね」
乱れたブルネットを撫で付けながら現れた待ち人は、どこか落ち着かない様子でしきりに服装を気にしている。襟を整え、スーツの裾を引っ張り、ネクタイを絞め直して、それからようやくクリスのほうを向いた。
「――ハイ、クリス。着替えでもしてた?」
そう珍しくない名前だから、こういうシチュエーションは少なくない。同じ名前で互いを呼びあい、不便だなと笑いあって、遠からずニックネームについての話し合いを持つ。きっと彼もこれまで何度もこうした場面に出くわしてきたに違いないのだけど、不思議なことにこのクリスは、何度その名を呼んでもそのたび困ったように眉尻を下げ、照れたように笑うのだった。
「ううん、ちょっとね」
体調が悪いのか、声がわずかに掠れている。クリスは自分の手元にあったチェイサーを彼に手渡し、気遣うようにその顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? 顔色が……」
彼は一瞬だけ驚いたように体をこわばらせ、すぐにいつも通りの笑顔でクリスを見た。
「大丈夫、大丈夫だ。ありがとう、クリス」
「ほんとうか?」
「ほんと。……アンソニー、彼と同じのちょうだい」
カウンターの内側で、アンソニーが意味深に眉を吊り上げる。
「ウィスキーのダブル? お前が?」
「一杯だけ」
プリーズ、とねだるように高い声を出したもう一人のクリスに、アンソニーが呆れ顔でため息をついた。「一杯だけな」
「サンキュー。……そうだ、クリス。例のあれ、持ってきてくれた?」
「――ああ、危ない。忘れるところだった」
カウンターに置いたきりだった紙袋をあわてて開く。そこには何枚かのレコードと、大量のCDが入っていた。ジャンルはまちまちで、有名なジャズやクラシック、聞いたこともないような名前のロックバンドのものまで、様々だ。
「とりあえず、見た感じ綺麗なやつだけ持ってきたんだけど」
「ワオ、なかなかのコレクションだ。ほんとにいいの?」
「勿論さ。むしろ、引き取ってくれて助かるよ」
大げさなほど明るく笑ったクリスは、その裏で越してきた当初の部屋のひどいありさまを思い出していた。家賃の安さと「家具・家電付き」という文句に惹かれて入居したはいいが、おそらく、以前の入居者に逃げられたのだろう。単身者用の狭苦しい部屋に、家具どころか下着や歯ブラシまでもが一式、ずいぶんと使用感のある状態でついてきたのだった。このレコードやCDもその一部だったのだが、目の前の嬉しそうな横顔を眺めるにつけ、案外いい拾い物だったかな、などとすら思い始めていた。
「仕事も仕事だし、俺も昔は結構持ってたんだけど、ほとんど売っちゃってさ」
「へえ、どうして?」
「……だいたい見当がついてると思うけど、金に困って」
「だと思った」
クリスにつられて笑い出した彼の肩を、見知らぬバーテンダーが叩く。どうやら、演奏の時間が来たようだった。
「今夜の演奏は何時まで?」
「日付が変わるくらいまでかな。変なリクエストがなければだけど」
オッケー、と右手を上げ、気乗りしない様子の彼を苦笑気味に見送った。ホールの中央へ置かれたグランドピアノには、まるでそこだけを丸く切り取るようにスポットライトがあてられている。憂鬱そうな顔をしたクリスがそこへ腰かけると、いかにもあつらえたように完璧で、すべてがどこか幻想的にも見えた。
大きなブルーグレーの光彩が、いたずらっぽくクリスを見る。この男と出会えただけでも、ニューヨークへ来た甲斐は十分にあった。そう思いながら、いつもより旨く感じるウィスキーをそっと舐めた。
■
その晩クリスが再び例のバーを訪れたのは、単なる偶然だった。
ほどよい酩酊感とともに自宅のベッドルームへ転がり込んだクリスは、たまたまこれまで開けたことのなかったチェストの引き出しを開け、そこにまだ何枚ものCDが収められていたことに気がついた。そのまま視線を上の置時計に移すと、現在の時刻は午後十一時三十分。そこで不意に、演奏前のクリスの言葉を思い出した。今家を出れば、ちょうど彼のステージが終わる頃に店へと顔を出すことができるだろう。
そう思って家を出てきたはいいけれど、表から入ったのではまた何杯か覚悟しなければならない。懐の具合もあるし、なにより、これ以上はちょっと飲みすぎだ。そう思って、従業員用の裏口に回った。昔一度、アンソニーに連れられて裏口から入ったことがある。見覚えのある汚れたゴミ箱と、切れかかった白熱灯。タバコの脂で黄色くくすんだサッシ。しばらく入りあぐねてうろうろとしたあと、不意に、その横にある小さな窓が十センチほど開いているのに気付いた。
「……ヘイ、誰かいないか?」
やや離れたところから呼びかけてみたものの、これといった反応はない。すこし迷って、中を覗こうと窓の近くへ寄った。そして、すぐに違和感に気付く。どうも、まったくの無人というわけではないらしいのだ。外の喧騒に紛れて、男同士の言い争う声が途切れがちに聞こえてくる。その声の片方に聞き覚えのあったクリスは、すぐに慌てて裏口のサッシを引いた。
「クリス!」
揉み合っていた二つの人影が、ぴたりとその動きを止める。揉み合っていた、というのは正確ではない。調理用の作業台へ突っ伏したクリスの上に、身なりのよい中年男が覆い被さっていたのだ。これがただの喧嘩ではないことは、誰の目から見ても明らかだった――なぜなら、クリスの下半身はほとんど裸だったのだから。
「一体、何を……」
「……邪魔が入ったな」
男が唸るように言い、呆然と立ち尽くすクリスを刺すように睨む。けれど、その威勢は長くは続かなかった。突然、彼が組み敷いていたほうのクリスが身を捩って暴れだしたからだ。驚いてよろけた男の胸元を、クリスの白い腕が力一杯に押す。
「クソッ! この馬鹿っ、大人しく……っ!」
口汚く罵られても、クリスは抵抗を止めなかった。ただ見ていることしか出来ずにいたクリスも、我に返って二人の間へと無理矢理体を割り込ませる。その拍子に大きくバランスを崩した男が、後ろにあったガス台に頭から倒れこんだ。台の角に後頭部を打ち付け、そのまま床に崩れ落ちる。足だけが何度か痙攣し、そして、男はぴくりとも動かなくなった。
二人のクリスは、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
「ク、リス、俺、俺……」
裸の両足を心許なげに擦り合わせながら、クリスが震える声で言う。すがるように名前を呼ばれた瞬間、クリスの頭が急激に明晰さを取り戻した。
「彼は誰だ?」
焦点のあわない大きな瞳がうろうろと床を這う。安心させるように向かい合い、冷えきった両肩を強く掴んだ。真っ青な唇が酸素を求めてはくはくと動く。そのまま何度か上腕を擦ってやると、クリスはようやく我に返ったように口を開いた。
「……ここの、オーナー」
言い切る前に語尾が震えはじめ、ブルーの両目からぼろぼろと涙が溢れ出す。それを拭ってやりながら、クリスの頭は不思議と冴え、目まぐるしく動いていた。
「クリス、よく聞くんだ。……やったのは、俺だ。いいな?」
クリスの肩が大きく震え、ただでさえ大きな瞳が驚愕に見開かれる。クリスは構わずに続けた。
「やったのは俺だ。君じゃない」
弱々しく首を横に振ったクリスが、怯えるように後退りながら「俺のせいだ」とうわ言のように繰り返す。それを強く否定し、突き動かされるように言葉を重ねた。
「違う、俺がやったんだ。だから、逃げる。――君はどうする?」
じつに悪魔じみた問いかけだった。ブルーの瞳が動揺に揺らめく。そのままじっと見つめ続けていると、目の前の瞳が次第にクリスの顔へと焦点を結び、突然、腹をくくったように正気の色を取り戻した。
「待って」
そう言うとクリスは唐突に男へ近より、体の横に屈みこんだ。乱暴にスーツの懐を探り、財布を開く。紙幣を何枚か自分の胸ポケットへねじ込んだあと、今度はスラックスのポケットを探りだした。すぐに目的のものを見つけたらしいクリスが、意を決した様子でクリスの前に立つ。
「……車。すぐそこに停まってる」
ピアニストの滑らかな指が、クリスの眼前に古びたキーケースをぶら下げた。クリスの心が、場違いな高揚に奮い立つ。答えが欲しかった。促すように潤んだブルーの瞳を見つめ、再び「君はどうするんだ」と問いかける。すると、つい先ほどまで死にそうな顔で震えていたはずのクリスが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていてもなお美しい顔で不意に微笑み、はっきりとした声で言った。
「俺も行く。……俺と逃げてよ、クリス」
■
未完