初めてカセットコンポを手に入れた日のことは、いまだにはっきりと覚えている。近所の年上の友人が、道で拾った廃品同然のそれを修理してくれたのだ。テープにダビングされたボブ・マーリーのアルバムも一緒に貰い、擦り切れるまで何度も聴いた。それしか聴くものがなかったからだ。
初めてCDを買ったのはいつだっただろうか。多分学生の頃だ。とくべつ音楽が好きだったわけではないが、スパイス・ガールズとかブリトニー・スピアーズとか、流行りの曲はたいてい聴いた。
初めてレコードを手に入れたのは、たまたま実家の荷物を整理していたときのことだ。あれはもう軍を辞めて、職も将来もなにもかも失ったと思い込んでいた頃のことだったと思う。独立して久しかったサムの自室は母親の手によってほとんど物置のようにされていて、そこにあったものを拝借したのだ。確か、ダニー・ハサウェイのライブ盤だった。拝借したはいいが、当時はプレイヤーを持っておらず、結局聴かずじまいになっている。
「――レコードなんか、持ってなかったな。俺は」
ジェームズが目を細めて言う。手にしているのはビッグバンドジャズのレコードだった。ずいぶんと流行ったらしいが、サムはその曲を知らない。
近所の教会で開かれていたバザーで、たまたま見つけたレコードだった。一緒に卓上型のプレイヤーも売られていたので、懐かしがったジェームズが言い値で買った。けれどいざ持ち帰ってみれば置き場がなくて、いまのところはダイニングテーブルのうえを占拠している。
「あの頃はプレイヤーが高くってさ。欲しかったんだけど、結局買えなかった」
隣で「へえ」とだけ返したサムを、ジェームズの穏やかな両目が見つめた。こういうとき、何と言ってやるのが正しいのかいまだに測りかねている。サムにとっては教科書の中の一ページに過ぎないほど遠い過去が、ジェームズにとっては今なお鮮やかな青春の思い出なのだ。
美しいだけの思い出は、ときになにより残酷だということを知っている。
例えば、サムがかつての相棒を思うとき。訓練の最中に交わした他愛もない軽口や、休暇中に出かけたパブでしたたかに酔っぱらったことなど、ささやかで楽しかった思い出ばかりが蘇る。そうして、いま彼が隣にいないこと、二度と彼の冗談を聞けないことをはっきりと突きつけられる。それが苦しくてたまらなかったから、彼の痕跡から遠ざかるように軍を辞めた。
ジェームズは、千ドルもしなかったレコードプレイヤーの蓋を慎重な手つきで持ちあげると、同じく慎重に針をあげ、持っていたレコードをそっと置いた。
「この曲、ダンスホールで何回も聴いたなあ」
そう言って笑う横顔を見ながら、二人の間に横たわる年月の隔たりを思う。もしここにいるのがサムではなくスティーブなら、きっと「そうだな」と笑い返し、その裏にある言葉にはしない思いまで共有することができただろう。
けれど、サムにはその手立てがない。レコードは一枚きりしか持っていないし、ジャズなど進んで聴いたこともない。ジェームズはカセットコンポもボブ・マーリーも知らないだろうし、最近主流のアップルミュージックなど、彼にとっては味気がなさすぎるだろう。
悔しいのか、悲しいのか、自分でもよくわからなかった。そう感じる資格があるのかどうかすらわからない。自分の知らないジェームズを知っているスティーブに、一体どんな気持ちを抱けばいいのか。嫉妬、ではない、と思う。そう思いたい。だって、嫉妬をしていいような相手じゃない。
「……なあ、サム」
ジェームズの声はひどく愉快そうだった。そして、めったに見せない年上の男の顔をしている。
「スティーブはダンスホールには行かなかったし、ビッグバンドも聴かなかったよ」
「……だったらなんだよ」
うだうだしい考えをすっかり見抜かれていたらしいことに気づいたサムは、気恥ずかしさを隠すようにむっつりとしてそう返した。ジェームズがまた愉快そうに笑う。そして、触れるだけのキスを頬に寄越した。
「お前、結構可愛いとこあるのな」
「やめろって」
「俺にはお前だけだよ」
「クサいこと言うな」
「ひどいな、ほんとなのに」
「……嘘つけ」
「嘘じゃない」
お前だけだ。
その言葉と重なるように、ひび割れたトランペットの音が響く。年上の男の顔をしたジェームズが、覆いかぶさるようにサムの唇を奪った。
――クサいことを言ったあとは、気障な真似をしやがる。
とてもじゃないがそんな尖ったことを言えるような雰囲気ではなくて、サムは、めずらしいほどおとなしくそのキスを受け入れながら、ほんの少しだけ胸がすくような気分を味わっていた。
白状する。やっぱりあれは嫉妬だったらしい。
初めてレコードプレイヤーを手に入れた日のことを、サムはきっと一生忘れないだろう。ダイニングテーブルの余ったスペースに押し倒されながら、あとでラックを買いに行かなくては、とぼんやり思った。
END