元々記念日なんて祝いあう間柄じゃなかったから、流川と自分が付き合いはじめて、いまが一体何年目の何か月目なのかさえよく分からなかった。
そもそもが流川の熱意に絆されてなし崩し的にはじまった関係だから、いつ、どのタイミングで自分たちがいわゆる恋人同士の関係になったのかも分からない。分からないことだらけだ。
これはなにも流川だけが悪いのではなくて、傷つくことを恐れてふたりの関係を明確なものにしようとせず、すべてを曖昧にしておくために別れ話を切り出さなかった自分のほうにより重い責任がある。流川がその夢を叶えるためにアメリカへ旅立ってもう三年の月日が経つが、別れ話をするならば間違いなく彼の旅立ちの時がそのタイミングで、切り出すべきは年上の自分のほうだった。
「ただいま……っと」
暗い部屋からは返事もねぎらいの言葉も返ってこず、三井はネクタイを緩めながらおざなりに革靴を脱ぎ、キッチンにある電子レンジへ買ったばかりのコンビニ弁当を突っこんだ。そのままリビングへのろのろと向かい、脱いだ服が折り重なったソファのうえに仰向けで倒れ込む。
バスケットは三井も続けていたが、膝の古傷はだんだんと誤魔化しがきかなくなってきていて、もうそろそろ潮時だなという薄っすらとした覚悟も決まりはじめていた。だからこうしてスーツを纏い、なんの見込みもないまま企業説明会に顔を出してみるなどして、平凡な人生へのレールを順調に歩み出している。
最近では、流川と連絡を取り合うこともほとんどしなくなった。
ひとがひとを忘れる時、まっさきに思い出せなくなるのは声だと聞いたことがある。三井が流川を思い出すとき、はっきりと脳裏に思い描けるのは、もうあの真っ赤なユニフォームを着た後ろ姿だけだ。声も、顔も、匂いも、そのくっきりとした輪郭を失ってしまって久しい。
けれどそう思えば、かえって元気が出てくるような気さえしていた。
あの声を忘れてしまえば、ひとりぼっちの静かな部屋で心をすり減らすこともなくなる。あの顔を忘れてしまえば、買うつもりのないプレゼントを選びながら見るあてのない笑顔を思い浮かべることもなくなる。あの匂いを忘れてしまえば、洗濯洗剤も柔軟剤もその時々の特売品を買えば済むようになる。
電子レンジから軽快なメロディが流れ出したので、重い腰をあげてキッチンへ戻った。電子レンジの扉をあけた瞬間、今度は来客を告げるチャイムが響く。
「……ったく、なんなんだよ」
そう悪態をつきながら、不用心にチェーンを外して玄関扉をあけた。訪問販売でも宗教の勧誘でも、いまのこのささくれだった気分ならば十分に追い払えそうな気がしていたからだ。
けれどそこにいたのは、思ってもみない人物だった。
「……うす」
「る、かわ……?」
ぼやけていたはずの輪郭が、鮮明にその形を取り戻してゆく。
「お前、なんで」
「なんでって」
先輩のこと、忘れたくなかったから。
そう静かに言って、流川はふっと笑った。
「俺、まだ先輩の恋人っスよね?」
真っ赤なユニフォームを着た後ろ姿が、いま目の前にいる流川によって上書きされてゆく。ぼさぼさの寝ぐせ頭に、やや精悍さを増した、けれどどこか寝ぼけたふうな顔つき。完璧なルックスを相殺するよれたジャージ姿に、履き古したシャワーサンダル。昔と同じ汗の匂い。
「ふざけんなよ……っ!」
なんだか可笑しくなってきて、込みあげてくるままに笑った。
「……当たり前だろ、バーカ」
そう言って、目の前の胸板を拳で叩く。
いまだって恋人なんかじゃないとひと言告げてやれればよかったのに、できなかった。きっと、一生できそうにない。
それもこれも、忘れた頃にやってくる年下の恋人のせいだ。これからもこうして忘れた頃にやってきては、三井の中の思い出を塗り替えて去っていくに違いない。
記念日じゃなくても、なにかの節目じゃなくても、きっと流川は会いにくる。お互いがお互いのことを忘れた頃に、きっと。
2020.08.26