4

 三井がはじめて男を好きになったのは、中学二年生の夏のことだった。
 男は皆からコーチと呼ばれていた。卒業生らしく、東京の大学を終わって教員免許を取り、けれど採用試験にはなかなか受からずにいたらしかった。それで、ツテを頼りに母校のバスケットボール部の外部コーチとしていくらかの講師料を貰っていたようだ。
 大学へはバスケで進んだらしく、大きな身体と長い手足に鎧のような筋肉を纏っていた。鼻の低い猫のような顔をしていたが、頭自体がちいさくスタイルが良かったし、なによりバスケが上手かったので、全体的にはなんとなくカッコよく見えた。
 子供やその保護者たちからの人気も高く、教え方も上手かったように思う。三井は彼にシュートフォームを教わったのだ。ならば、事実上手かったのだろう。教え方が上手く理論も確かで、子供のあしらいも上手かった。コートを出れば冗談のわかるいい兄貴分の顔になり、多少の愚痴や辛い練習への文句は笑って聞いてくれた。コーチという呼び名も、敬称と言うよりは半分あだ名のような感じだった。
「ねぇコーチ、まだやんの?」
 その日は他部活との兼ね合いでハーフコートしか取れず、サーキットと筋力トレーニングがメニューの中心だった。ボールがないとつまんない。そんなふうに甘えた声を出せば、わかったよ、と苦笑を浮かべて休憩をくれる。
「……ったく、三井は根性があるんだかネェんだか、分かんねえな」
 教職志望にしてはちょっと乱暴な言葉遣いも、変声期前の子供には魅力的に聞こえた。唸るような低い声で一度甘やかされると、すっかり味を占めてしまう。
「バスケは好きだけど、筋トレは嫌い。ねぇ、ダンク見してよ」 
 三井が言うと、周りの同級生たちも同じようにはしゃぎだした。うるさい三年生は顧問と共に遠征へでかけていて不在だった。三井はその遠征のメンバーから外れていて、それはただ単に、二年生だからだった。
 武石中は強豪とは言い難い公立中学だ。顧問の指導は確かだし熱もあるが、結局は公正な競争が生む切磋琢磨より、厳格な年功序列のもとに生まれる漠然としたまとまりのほうを重んじる風潮があった。それでも重要な公式戦や近場での練習試合ならば大事な局面で三井が途中出場することも多かったが、参加人数を絞らざるを得ない遠征ともなるとやはり三年生が優先的に選ばれる傾向にある。くだらないとは思うが、それでも試合に出られるだけ恵まれているほうだし、どうせ俺がいなきゃ勝てないんだから、という自負心からくる余裕もあった。それに、もうすぐ自分がその三年生になる。あと半年の辛抱だ。
「バカ、後でな」
「ええーっ、つまんねえ」
「ガキは黙って筋トレしてろっての」
 リングの下には、降って湧いた休憩を満喫している下級生たちの姿がある。基礎も無いうちから下手に真似されては困ると、人目の多い時間には見せてくれないのだ。だからよくねだって練習後に自主練習を見てもらったり、シュートフォームの確認に付き合ってもらったりして、そのついでに、中学生では逆立ちしてもできないようなプレイを見せてもらうことがあった。
 片手でボールを掴むことのできる大きな手が、三井のちいさな頭を乱暴に撫でる。
 特別だぞ。
 お前だけだからな。
 二人っきりになると、時々そんなふうに言ってくれることがあった。そんなふうに言われて、三井はすぐに舞い上がった。他の子供たちが恭しく敬語を使う相手にタメ口を利いて、わがままを言って、甘やかされて。バスケのことでは上級生よりずっと厳しくされたが、それだって、自分がとくべつ上手いからだとかえって鼻が高かった。
 それに、カッコよかったから。
 彼はとくべつハンサムな男ではなかったけれど、人より優れた物を持つ大人の男に特有の、匂い立つような色気があった。夕方には顎に髭が浮いて、太い首には尖った喉仏があって、腕も脚もゴツゴツとしていて。腕力があるのに威圧的ではなくて、変に気取ったところも、説教臭いところもなくて。それでいて、傍若無人な三井をただ諾々と甘やかすだけの男でもなかった。バスケのことに関しては、きちんと厳しかった。
 こうなりたい、という漠然とした憧れとも違う。憧れも確かにあったのだろうが、それよりもっと湿っていて、熱っぽくて、後ろめたい気分にさせられるような感情が、毎日のように幼い三井の胸を襲っていた。
 例えばこれが年上の女教師などだったら。あるいは、男にしても、もっと女性的できらびやかな見目の相手だったら。そうだったなら、いかな中学生と言えどすぐに「ああ、これが性欲ってやつか」と気付くことができたと思う。
 数年の歳月を経てから思い返すにつけ、いまの自分なら、あんなに嬉しかった特別扱いにさえかえって困ってしまうだろうなと思った。早々に一線を引いて、みだりに二人きりになるようなこともしないはずだ。いま思い出しても好みのタイプではあるが、だって、あまりに先のない相手だった。
 傷つくことが分かりきった恋だ。
 終わると決まっている恋をするのは辛い。
 不躾な後輩などはよく三井を移り気で気分屋で自己中心的なわがまま男だと散々に言うが、昔から男のタイプだけはバカみたいに一貫していて、恋愛対象には一途なタチだった。
 年上で、落ち着いていて、尊敬できて、厳しいとこもあるけれど、最後には三井を甘やかしてくれる男。似たような恋と失恋を経験して、ほとんどいないのと同じ父親の幻影を追っているだけなのかもしれないと悩んだこともある。上手くいっていない母親との関係が、自分を女性という存在から遠ざけているのかもしれないと思ったこともあった。けれど、どれだけ悩んだところで三井は女性を好きになれないし、好きになる男はみな決まって同じような男だった。
「ねぇコーチ。じゃあさ、帰りにちょっとフォーム見てよ。俺また背ェ伸びたの。五センチも!」
「見てくださいお願いします、だろ?」
「見てくだサイお願いシマス」
「へーへー」
 やった、と子犬のようにはしゃぐ三井を、苦笑気味に見下ろす年上の男の瞳。そこには重たげな一重まぶたが被さっていて、上にある眉は太くて濃く、やや八の字気味に垂れ下がっていた。ハンサムな男ではない。けれど、三井はこの男が好きだった。三井の家の事情もなんとなく知っていたようだが、そのことについて聞かれたことも、腫れものに触るような態度をとられたこともなかった。そういうところも好きだった。
 好きだったから、その日ふたりきりの体育館で不自然に体を触られても、嫌だとは思わなかった。好きだったから、その手が下着の下に潜り込んできても抵抗しなかった。好きだったから、それからのことはぜんぶ秘密にした。
 恋の終わりはあっけなく訪れた。
 その年の冬、男は武石中のコーチを辞めた。採用試験に合格し、春からは東京の中学校の教員になるということだった。保護者も交えた簡単な送別会をして、三年生がちょっとした色紙と花束なんかを手渡し、三井はただそれを眺めていただけだった。色紙には、当たり障りのないことしか書けなかった。新しい学校でも頑張ってください、ありがとうございました。たったのそれだけ。
 そんなことを、唐突に思い出した。
 三井はいま湘北高校の体育館にいて、つい十分ほど前には桜木が横で基礎練習に励んでいたのだが、いまはすっかり静かなものだ。土曜日の午後、授業を終えて、日暮れまでみっちりと部活があった。湘北高校バスケ部は、インターハイの神奈川県予選、その決勝リーグを戦い抜き、広島行きの切符を手にしたばかりだ。自然練習には熱が入り、三井も、その熱を持て余して居残りの自主練習に励んでいる。
「……あれ、花道は?」
 換気のために開けられた入り口の扉から、温度の低い落ち着いた声が聞こえた。水戸だ。
「桜木なら、彩子と晴子ちゃんにくっついてどっか行っちまったぜ」
 たぶん、衛生用品の買い出しかなにかだろう。男桜木荷物持ちでも日本一をめざぁーす、とかなんとか言いながら、張り切って出かけて行った。宮城も同じく彩子目当てで荷物持ちに立候補したクチで、赤木と木暮は練習メニューの打ち合わせのために定刻で帰り、流川もめずらしくさっさと帰ったが、あのバスケ馬鹿のことだから、まさか遊んでいるということもあるまい。
「そっか。じゃあ今日の居残りはミッチーだけ?」
 ああ、と軽く頷き、手にしていたボールを床へついた。感触を確かめるように何度か繰り返し、そのまま、スリーポイントラインまでドリブルをする。位置について予備動作に入り、息をするのと同じぐらい自然にボールを放った。ナイッシュー、という声と、ひとり分の拍手が広い体育館にこだまする。
「さすがミッチー」
 そのふざけた呼び名に、つい反射的に眉根が寄る。はじめは桜木がそう呼びはじめて、いつのまにかその後ろにくっついている軍団員たちからもそう呼ばれるようになっていた。認めたつもりはないのに、いつのまにか三井まで彼らの軍団の一員にされてしまったような、妙なこそばゆさがある。
「さすがです三井センパイ、だろーが」
「あれ、結構こだわるタイプ?」
「……にゃろう」
 ああ言えばこう言う、飄々とした態度。ズボンのポケットに両手をつっこみ、やや猫背気味に背中を丸めて立つ力の抜けた姿。体温の低そうな声色と眼差し。そんな冷たい雰囲気を持った男なのに、ふとした拍子に、名状しがたい熱のこもった仕草で三井の心をかき乱してゆくのだ。
「花道が帰ってくるまでここで待っててもいい?」
 そう問われたので、好きにしろとそっけなく答えた。水戸も「了解」とそっけなく返して靴を脱ぎ、静かに扉の前へ座り込む。三井はボールをゴール下のカゴに投げ込み、少し悩んでからあぐらをかいて座り込む水戸の横へ歩み寄った。背中を扉に預け、吹き込む生温い風に眉を顰める。
「……お前、もしかしてほんとに煙草辞めた?」
 練習着の襟で汗を拭いながら、眼下の水戸へ尋ねた。いつもならそばに近付いただけで香ってくる煙草の匂いが、今日はしなかったのだ。
「……ばれたか」
 照れ臭そうにそう言った水戸は、切れ長の目元を柔らかく緩めて笑った。
「ミッチー、約束守ってくれたでしょ。だから俺もちゃんとしねーとと思って」
「約束?」
「インターハイ出場権。お礼にって言ったじゃん」
 まさか忘れたの、と揶揄うように言われ、はっとなる。覚えていた。覚えていたが、水戸も覚えているとは思わなかったのだ。
「忘れるかよ。……にしても、いつからだ?」
 照れ隠しに練習着を鼻の上まで引っ張り上げ、視線だけで足元の真っ黒いリーゼント頭を見た。県予選の最中は、まだ、吸っていたはずだ。いつもの見学中も、水戸は時々ひとりでふらりといなくなることがあった。戻ってくると、その匂いですぐに分かった。グレていた二年の間にすっかり嗅ぎ慣れた匂いだ。匂いだけで銘柄までわかる。セブンスターは、特によく嗅いでいた匂いだったから。
「決勝リーグで、ミッチーがぶっ倒れてから」
「おま……っ、思い出させんなよ、バカ」
「俺、感動したんだよ。もしアンタがグレてた頃に煙草吸ってたら、もっとはやくにぶっ倒れてて、湘北も負けてたかもってマジに思った。フル出場にはあと二分足りなかったけどさ、でも、すごかったよ」
 その言葉に、ぐっと喉の奥が詰まる。自分では、とてもそんなふうには思えなかった。たったの二分だが、バスケではその二分が命運を分けることもある。あのとき、三井の脳裏に過ったのは後悔の二文字だった。未練がましく煙草だけは吸わなかった。けれど、それだけだ。喧嘩以外は運動らしい運動もせず、酒を飲んでは夜通しバカ騒ぎをして、自分を甘やかしてくれる男の部屋で寝起きし、流されるままにどこまでも自堕落な生活をした。
「……その二分がデケーんだよ」
 水戸の頭から目を逸らし、吐き捨てるように言う。誰が慰めてくれようとも、自分だけはあの二年間と、あの二分間を忘れてはいけない。そう思った。二度と甘いだけの言葉に縋ってはいけない。手を伸ばしてはいけない、と。
 そんな三井の心中を知ってか知らずか、水戸の手がするりと三井のそれに絡む。反射的に震えた指先を、温度の低い水戸の指が絡めとった。驚いて眼下の顔を見ると、水戸はニヤリと口角をあげ、この状況の不自然さを一切感じさせない顔をして言った。
「そう思うんなら、サボってないで練習しないとね?」
 その言葉に一瞬唖然として、それからすぐに笑みが込み上げてくる。
「――なんだよ、テメーのせいだろ」
「ほら、さっさとボール持って。シャツもしまって。お腹冷えるよ?」
「ガキ扱いすんな、後輩のクセに」
「アンタがガキくせえから悪いんだろ。腹なんか出して」
 出してねー、と腹の代わりに舌を出して手を振り払い、ゴール下へ走った。急に動いたせいで、心臓のあたりがじくじくと痛む。そう、急に走ったりなどしたせいだ。そう自分に言い聞かせながら、ボールを持った。遠くから桜木の拍子外れの歌声が響いてきて、水戸の「花道」という柔らかな声が鼓膜を震わせる。
 年上で、落ち着いていて、尊敬できて、厳しいとこもあるけれど、最後には三井を甘やかしてくれる男。それが三井の好みのタイプだ。これまで年下の男を好きになったことは一度もない。
 それに、もう傷つくことがわかりきった恋はしないと決めたのだ。黙って見送るのも、見送られるのも、もう二度とごめんだった。

/4/

目次に戻る