※恋のピクチャーのふたりです
無口で不愛想。流川楓の代名詞みたいなものだ。だがべつに、意識的に孤高の存在であろうとしたりとか、能動的に他人を拒絶して生きてきたつもりはない。ないのだが、世間一般の評価は恐らく違うのだろう。
学生時代まで遡って思い返すにつけ、流川の心のど真ん中にはバスケ――と、睡眠――だけがあって、だから同じ部活のチームメイトやライバル校の選手たちのことは流川なりに気にかけていたつもりだった。
けれどそこには、コートの中では、という枕詞がつく。
コートの外となると、例えば休日に連れ立って遊びへ出かけたりだとか、買い物に付き合ったり、家を訪ねたり訪ねられたり、そういういかにも学生らしい友達付き合いとは最後まで無縁のまま、日本での高校生活を終えた。バスケ部以外のクラスメイトに至っては顔も名前もおぼろげにすら思い出せないほどだ。
アメリカへ渡ってからも似たようなもので、欧米特有のパーティー文化やカップル文化には真っ向から喧嘩を売り続けた。はじめは当然変人扱いされたし、ゲイ疑惑を囁かれたこともあるが、コートの中で結果を出せるようになると、次第に誰からも何も言われなくなった。それどころか、流川のそういった姿勢をジャパニーズサムライスピリッツ的な何かに結び付けて評価する向きまであった。
ようは、ずっとそうやって力尽くでねじ伏せてきたのだ。
日常の対人関係でどんな謗りを受けようとも、コートの中では誰も流川を無視できない。邪魔できない。他人からチヤホヤされたいがためにバスケをしているわけではなかったから、プレーの邪魔さえされなければそれで十分だった。
けれど相手が異性となると、やや話が変わってくる。
相手が同じバスケットマンならば、コートの中でねじ伏せればいい。けれどコートの外から一方的に向けられる憧憬や恋心は、いつだって流川を煩わせるだけの雑音に過ぎなかった。一方的で、盲目的で、流川君のことが好きだと言いながら、流川本人の気持ちや都合は置いてけぼり。ちょっと言い返すだけでいちいち感情的に泣いたり怒ったりされるのも鬱陶しくて、女って面倒、そんな偏見にも似た辟易とした思いが、恋愛というものから流川をずっと遠ざけてきた。
だがさしもの流川少年といえど、恋愛という概念それそのものを理解していなかったわけではない。
例えば湘北高校バスケ部の一つ上の先輩である宮城リョータと、敏腕マネージャーの彩子のことであるとか。どあほうこと桜木花道と、赤木妹のことであるとか。懲りねーな、とか、よくやる、とか、流川はどちらかというと呆れ半分に眺めていたものだが、一年二年と共に過ごすうち、彼らは彼らなりに本気で彼女達を大切に思っているのだと理解できるようになった。それを恋とか愛と呼ぶのなら、自分が数多の少女達から向けられているものとの違いは一体何なのだろう、とも、ほんの少しだけ考えるようになった。だが、ほんの少しだ。
そのうち流川も大人になって、紆余曲折のすえ日本へ戻り、さらなる紆余曲折のすえ湘北高校時代の先輩である三井寿と付き合うことになった。
紆余曲折とはいっても、そこに燃え上がるような激しい恋情のぶつけあいや、涙なくして語れないような波乱があったわけではない。高校時代の宮城や桜木のように、一目惚れだなんだと大騒ぎし、傍目には馬鹿馬鹿しく見えるほどの熱烈なアピールを繰り返してやっと振り向いてもらった、というのでもない。顔やスタイルがとにかく好みで、というのでも、もちろんない。何のドラマもない日々を共に過ごすうち、いつの間にか三井が他の人間よりほんの少しだけとくべつになっていて、そのほんの少しが何日もかけて幾重にも積み重なっていって、ある日突然、これが人を好きになるということなのだと気付いた。そういう緩やかで穏やかな「好き」もあるのだということを、流川は三十路近くになってようやく知った。
「――なあ、近くねえ?」
ずっと黙ってテレビを観ていた三井が、不意に言った。
「重いすか」
流川が顔を上げてそう尋ね返すと、三井は口元をまごつかせながら「いや」と首を振る。
「そういうんじゃねえけど……」
じゃあいいか、と流川は三井の肩へ再び頭をもたれかけ、手元の雑誌に目を落とした。ふたり揃ってオフの午後、流川の家のリビングで三人掛けのおおきなソファに並んで座り、三井はネット配信サービスにあるテレビドラマを観ていて、流川は毎月購読しているバスケ雑誌を読んでいる。
三井が観ているのは、流川が丁度NBAににいた頃にアメリカで流行っていたSFアクションもののドラマだ。当時現地で何度も飽きるほどプロモーションを見たし、プライベートで観戦に来ていた主演俳優を見かけたこともあるのだが、そもそもドラマや映画の類いにそこまで興味のない流川は、あいにく肝心の本編を一度も観たことがない。いまも三井の隣に座っているが内容はほとんど頭に入ってこず、けれど退屈だとはちっとも思わないのだから不思議だった。
こめかみの辺りを三井の肩に擦りつけながら、ぼんやりとした温もりを頬に感じる。たったそれだけのことでも、人間の肩ってけっこう硬いんだな、とか、そういえば最近香水変えたって言ってたな、とか、このセーターおろしたてだな、とか、そういう些細な発見が泡のようにぽこぽことわきあがってきて、それがなんでだか無性に面白かった。
けれど三井のほうは、そんな流川の様子を横目で怪訝そうに伺っている。
「……あのさあ」
「なんすか」
「お前、退屈じゃねえの?」
流川は再び顔をあげて「べつに」と首を振った。三井はなおも怪訝そうな顔をしている。
「ドラマ、興味ねえんだろ」
「まあ、それは」
「試合の録画とかあんならそっち観てもいいけど」
「だから、べつにいーっす。このままで」
流川が重ねてそう返すと、三井はなんとも形容しがたい複雑な顔をして言った。
「……あのさあ」
「なんすか」
そこで一度会話が途切れ、室内には画面の中の主演俳優が銃声をバックに下品極まりないジョークを飛ばす声だけが響いた。彼は当時流川が所属していたチームの熱狂的なファンで、確か流川も一度サインとセルフィ―を乞われたことがある。
それはともかくとして、三井の顔は真剣そのものだった。真剣というのか、深刻というのか。どちらにせよあまり軽い話題ではないようで、流川も膝の上の雑誌を閉じて姿勢を正した。
「……お前さ」
「だから、なんすか」
「……いや、そのさ」
三井はそれだけ言うと、真剣というより煮え切らないといったほうが適切な顔をして再び黙りこくってしまう。流川はじっと言葉の続きを待った。
「……俺たちってさ」
「はい」
「付き合ってる、んだよな?」
思っても見ないコースから飛んできた質問に、流川はきょとんと目を瞬いた。
「そのつもり……っすけど」
「だよな」
「はい」
「そうだよな」
「うす」
探り合うようなぎこちない応酬を経て、室内に不穏な空気が漂いはじめた。
流川と三井が付き合いはじめたのは、いまからちょうど一年ほど前にあたる、昨年の年末だ。三井のほうからそれとなく切り出され、流川はそこでやっと自分の気持ちを自覚して、自覚した思いをその場でその通り三井へ伝えた。あとから考えれば、微妙に情けないというのか、締まりがないというのか、とにもかくにも恋愛ドラマに描かれるような理想的な告白のシチュエーションでなかったことだけは確かである。
だが、好きだ、という思いを伝えあったことに間違いはないはずだ。
「そうだよな……」
三井がちいさく何度か頷きながら繰り返す。流川は急に不安になって「そうっす」と念を押すように答えた。
三井は案外考え込みやすいタイプで、しかし吹っ切れると途端に極端から極端へ走るところがある。
それは彼が一度バスケを辞めて道を踏み外してしまったエピソードからも伺い知れる部分で、流川にとっては理解の難しい一面でもあった。流川とて、人生それなりに思い悩むことは――内訳はおおむねバスケの上達に関することだが――ある。だが、考えた末に出す結論はたいてい前向きなものであることが多い。三井はその結論のところが流川とは逆で、バスケん時はそんなことねーのに、と首を傾げることしきりである。彼のバスケに懸ける諦めの悪さはいまだ健在だ。
理解が難しいから、なんと言葉を返すのが適切なのかも分からない。ただでさえ数少ない語彙の中から言葉を探しあぐねて不穏な沈黙が漂う室内に、突然ハスキーな女性の声が響いた。
ぎょっとしてテレビ画面を見ると、どうやら主人公とヒロインとが何某かの陰謀かトラブルの果ての大立ち回りを経て感動の再会を果たした場面らしく、きつく体を抱きしめあい、60インチの大画面を目一杯に使って熱烈なキスを繰り広げている。ザ・ハリウッドという感じだ。
ストーリー的には佳境もいいところだろうに、三井は黙ってテーブルのうえのチャンネルへ手を伸ばしてテレビを消すと、再び流川へ向き直った。神妙な面持ちで気まずげに首の後ろを擦っている。
「俺たちさ」
「はい」
「付き合ってる、っつー割にはよ」
「はい」
「なんつーかさ……」
三井は語尾を濁して黙り込んだ。それからややあって、唇をまごつかせながらぼそりと言う。
「……なんもねーよな、って」
流川は眉間に皺を寄せて首を捻った。
「……なんもって?」
「いや、そこは察しろよ……っ!」
顔をさっと赤くした三井が声を抑えて怒鳴る。
「どうやって」
「どうもこうもあるか!」
「はあ」
一応しぶしぶ頷いてはみたものの、流川にしてみればじつに理不尽な叱責だった。
なにしろ流川は、こと対人関係におけるこの「察しろ」というのが、とにかくどうしようもなく苦手なのだ。苦手というか、理解できないというか。言えよ、と思う。高校時代など、自分から呼びとめたくせにもじもじと顔を赤らめるばかりの女子生徒を前にして、何度そう思ったことか。
流川はやると決めたらやるし、言うと決めたら言う。例え悪い結果が返ってきたとしても、それはそれだ。もじもじと他人の助け舟を待っているだけの状況よりはずっといい。そう思うからこそ、察しろとか、空気を読めとか、もうちょっと他に言い方があるだろとか、確かにこれまでの人生で何度も何度も口酸っぱく言われてきたけれど、すべて右から左に聞き流してきたのだ。その結果相手に嫌われたって、バスケの邪魔さえされなければまったく意に介してこなかった。
とはいえしかし、いま流川の目の前にいるのは三井である。流川は意を決して口を開いた。
「……あの、先輩」
「なんだよ」
「俺、なんかわりーことしたっすか」
今度は三井がきょとんとする番だ。
「……はあ?」
「先輩相手にあんま適当なことしたくねーんで。だから、はっきり言ってください」
流川はソファの座面に正座をすると、正面きってじっと三井を見た。その視線の強さに、三井がぐっとたじろいだのが分かる。
「いや、べつに、わりーこと、ってわけじゃねーけど」
「じゃあなんすか」
「なに、って……」
三井は流川の視線から逃れるように俯き、また言葉尻を淀ませた。その煮え切らない態度に苛立ちをまったく覚えないというと嘘になるが、けれど、流川は一度やると決めたことは絶対にやり遂げなければ気が済まない性格だ。三井とは、ずっと一緒にいたい。そのために、これは致し方のない我慢なのだ。
なるべく誠実に見えるよう姿勢を正し、じっと目を据わらせて「先輩」と促す。すると三井もとうとう観念したのか「うー」と低く唸ってから、ぼそぼそと重い口を開いた。
「……なんもわりーことしてねー、っつーのがわりーっつーか、なんつーか」
「……すんません、意味がわかんねーっす」
なんだそれ、と喧嘩腰に言い返したい気持ちをぐっとこらえ、流川は正直に言った。意味が分からない。悪いことをしていないのが悪い、というと、流川が悪いのか悪くないのか、はたまた三井のほうが悪いのだろうか。さっぱりだ。婉曲的にすぎる。
三井も自分が言ったことのおかしさは分かっているようで「いや、あのな」と慌てたふうに流川の肩を掴んだ。それから一度深呼吸を挟んで、やっと腹が決まったのか、ぐっと眉間に力が籠る。
「流川」
「うす」
「いいか。俺がいまからなにを言っても、笑ったり、茶化したりすんじゃねえぞ」
もとよりそんなつもりはない。流川も力強く頷いた。
「うす」
「いいな」
「うす」
「言うぞ」
「……うす」
分かったからはやく言え、という一言が喉まで出かかる。だが、我慢した。我慢我慢、と頭の中で唱えながら、じっと三井を見る。こういう面倒なところも可愛い。そう思わないでもない。ときどき訳の分からないことをしでかすところが面白い。そう思わないでもない。だから我慢できる。
正座姿の流川に我慢を強いたまま、三井が再び俯いた。それから上目遣いに流川の顔色を窺い、緊張を誤魔化すように唇を舐める。流川は思わずもぞもぞと座りの悪い尻を動かした。
「……先輩」
「わ、分かってる。言う、いま言うから」
三井は今度こそ腹を決めた顔でおおきく息を吸い込むと、いま吸い込んだ息はどこへ行ったんだと問いたくなるような小さな声で言った。
「……お前ってさ、性欲とか、ねえの?」
流川は再びきょとんと目を瞬いた。
「せ、せーよく、っすか」
「……おう」
「せーよく……」
性欲。
素面の状態でそう何度も繰り返して言うような言葉ではない。
「ないってことは、ねーっすけど」
「そうだよな」
「うす」
「そうだよな……」
三井は流川の返答を深く噛みしめるように何度も何度も頷いた。その姿と噛み合わない会話に、言いしれぬ不安が胸を過ぎる。
「あの、ほんと、すんません。先輩、なにが言いてーんすか」
「ここまでまだ言ってわかんねーわけ?」
弱気だった三井の言葉にも、徐々に呆れの色が混じりはじめる。呆れが半分、弱気が四分の一、苛立ちが四分の一といった感じだ。それを聞いて、今度は流川のほうがしおしおと俯いた。
「……うす」
「……俺、お前の好きが分かんなくなってきた」
俯けたばかりの顔を、勢いよくがばりとあげる。三井は途方に暮れたような苦笑を浮かべて肩を落としていた。
「俺、先輩のこと好きっす」
「うん」
「先輩は?」
「……俺も、好きだよ」
「じゃあなにがわかんねーんすか」
流川もとうとう途方に暮れて、顔を歪めながらそう言い募った。苛立ちも僅かにある。不満があるなら言えばいいし、不安なことがあるなら聞けばいい。言いたくないのなら、はじめからなにも言わなければいい。簡単なことだ。
そんな流川の苛立ちを察したらしい。三井はなにかを諦めたようにため息をつくと、これまでの逡巡が嘘のようにするりと答えた。
「一年も付き合ってる恋人がいてよ。そんでまだちゃんと好きだっつーのに、ヤりてーとかヤられてーとか思わねーのはなんでなんかな、って」
「……え?」
三井が発した言葉の意味を理解するまでに、軽く見積もっても三十秒はかかった。そしてやっと理解した瞬間、体温が一度か二度は上がったんじゃないかと思うほど顔が熱を持ち、頬がかっと火照りだす。言葉の意味を理解したのと同時に、三井があれほど発言を躊躇った気持ちもようやく分かった。
流川が三井と付き合いだしてもう一年になるが、その事実にまず改めて驚いた。年を取ると一年があっという間に感じるようになるというが、まさにその通りだ。
そしてその間に行った恋人らしい行為といったら、軽いキスや互いの家でのささやかなデートくらいのものなのである。
藤真あたりには冗談言うなと鼻で笑われてしまいそうなところだが、これは、驚くべきことに純然たる事実なのだった。ふたりの年齢を鑑みれば、流石にずいぶん清らかに過ぎるお付き合いですねと言わざるを得ないだろう。
小学生や中学生ではないのだから、恋人として付き合うとなったら普通、その先にもっと踏み込んだステップがあって然るべきだ。これまでの人生ろくすっぽ恋愛関係のスキルを磨いてこなかった流川にだって、流石にそれくらいのことは分かる。分かるのに、なぜいまのいままで、それもよりにもよって恋人である三井に直接指摘されるまで気が付かなかったのだろう。
「……へえ、お前でもそんな顔すっことあんだな」
三井が吐息だけで笑いながら感心したように言った。
「へ、へんすか」
「べつに、変じゃねーけどさ。お前いまどういう感情でそーやって顔真っ赤にしてるわけ?」
「どういう、って……」
顔どころか耳や首まで赤くしながら、質問の答えを考える。
「恥ずかしい、んすか、ね?」
「なにが恥ずかしいんだ?」
「う、浮かれてた、っつーか……」
「……浮かれてた?」
三井が怪訝そうに首を捻った。
「わかんねーっすけど、噛みしめてた?」
流川も一緒に首を捻りながらなんとか答えを絞り出したが、三井は呆れたような困ったような、しょうがねえなあ、といったような、そういう顔で腕組みをしている。
「いや、それじゃもっと分かんねーんだけど……」
そう言われても、事実、その通りなのだとしか答えようがなかった。ただでさえ滑りの悪い口元をまごつかせながら、ごにょごにょと弁明を続ける。
「だから、俺もわかんねーっす。……俺んちにふつーに先輩がいるのとか、くっついて座ってんのとか、そーいうのでいちいち浮かれてたっつーか、こう、幸せを噛みしめてた? っつーか」
「一年も?」
「……一年も、っす」
流川が己の不甲斐なさにしょんぼりとしながらそう答えると、三井は「なんだそれ」と吹き出すように笑いながら言った。
「じゃあお前、あれか。要するにお前はこの一年間の俺との関係にはまったく不満も文句もなく、それどころかずっと浮かれ気分のままひとりでささやかな幸せを噛みしめてたってことなんだな?」
「……うす」
「はー、なるほどね……」
三井がしみじみとした様子で頷くのを、流川はますますしょんぼりとしながら俯き加減に盗み見た。その重荷が取れたような表情を見るにつけ、怒っているわけでも、呆れているわけでもなさそうなのが数少ない救いである。
「あのさ」
「うす」
「俺も、勝手にお前んこと分かった気になってたみてーで悪かったけどよ。……なんつーか、ほんとに好きなのな」
俺のこと、と三井がぼそぼそ続ける。
「何度もそー言ってる」
「……じゃあ、いいぜ」
「……なにが?」
「俺が、お前に抱かれてやってもいい」
流川は俯けていた顔をがばっと勢いよくあげて、目の前の三井をまじまじ見た。ちょっと尊大な感じのする言葉のチョイスとは裏腹に、三井の表情は穏やかで、照れや怒りの色もない。
「いっ、いーんすか」
問い返す声が、思わず裏返った。そんな流川の余裕のない様子を笑うことも揶揄うこともなく、三井が穏やかに続ける。
「いいよ」
「ほんとに?」
「ああ」
「……無理とか、してねーっすよね?」
結局のところ、流川にできるのははっきりと言葉に換えて気持ちを伝えることだけだった。自分が譲らなければしょうがないから、と、変な気を回して無理をすることだけはしてほしくない。
だが三井は、吹っ切れたような明るい顔でからりと笑って言った。
「してねーよ。そりゃあどうしてもお前に抱かれたくてたまんねーとまでは思ってねーけど、どっちかっつったらそっちがいいかな、ってのはなんとなくあったし、ずっと」
「そーなんすか?」
流川が言外に「なぜもっとはやく伝えてくれなかったのか」という非難の色を滲ませて言うと、三井は僅かに頬を上気させ、照れ臭そうに視線を逸らしながら答えた。
「……んなもん、言えるわけねーって。こっちから誘って断られでもしたら、それこそ俺だけが勘違いして浮かれてるみてーで恥ずかしいだろ」
それによ、と三井が声を落として続ける。
「こいつ遊び慣れてんなって変な誤解されんのも、なんか嫌だろ。……まあ、それに関しちゃそう思われても仕方ねえ人生送ってきた俺が全面的に悪いんだがよ」
その言葉の裏側には、そこはかとない自嘲の色があった。流川の眉間にぐっと深い皺が寄る。
「いちいち思わねー、そんなこと」
三井は照れ臭そうに苦笑いを浮かべて言った。
「そういうやつだよな、お前は」
「そういうやつっす」
「……言っとくけど、信じてなかったわけじゃねーから」
流川はぱちぱちと目を瞬いた。
「べつに、疑ってはねーっすけど。そこは」
今度は三井が意外そうに目を瞬く。流川は正座のまま三井のほうへすこしだけにじり寄って、三井が着ているセーターの肘のあたりをちょんちょんと引っ張りながら言った。
「疑ってねーっつーか、アンタがややこしいひとだってことはガキの頃から知ってるし。俺も、言葉が足りてねー自覚はあるんで」
三井のセーターを引っ張りながら、ぼそぼそと続ける。
「コートの外だと、俺、アンタが何考えてんのかちっとも分かんねー。……分かんねーけど、でも、だから好きになったんだと思う」
思い返せば、その出会いの経緯からしてちっとも訳の分からないひとだった。
流川にしてみれば、顔も名前も知らない赤の他人が突然複数人の不良を連れて体育館へカチコミをキメてきて、その音頭をとっていたのが三井だった、というのが彼との初対面である。当時不良でもないのに人一倍血の気が多く喧嘩っ早かった流川は、名も知らぬ不良に頭をモップでかち割られて流血沙汰にまでなった。
そんな不良がじつは元バスケ部員だったと聞いても、流川の頭へ浮かぶのは疑問符ばかりである。
高校一年生という多感な時期に二度も膝を痛めてしまっては、先を悲観して自暴自棄になる気持ちも分からないではない。だがそれで道を踏み外すにしたって、どうやったらあそこまで派手に踏み外せるんだと、もうちょっとマイルドな踏み外し方があったんじゃねーのと、正直、いま考えてもそう思ってしまう流川である。
流川がもし当時の三井と同じ歳の頃に同じ境遇に陥ったとして、一度目の怪我のあと、復帰を焦って状況を悪化させてしまうところまでは共感の範囲内だ。いよいよ絶望的な状況に陥ったあと、リハビリをやめて部屋に引きこもったり、学校へ行かなくなったりする気持ちも、なんとなくは想像できる。だからといってじゃあ夜の街へ繰り出して不良の仲間入りをしますかと問われれば、どう考えても答えはノーだ。他人がどうかは知らないが、流川にとっては理解に苦しむ展開である。
流川にとっての三井は、結局のところ、根本的にまったく分かりあえない相手なのだ。けれどそんな三井のプレーは、そんな三井のプレーだからこそ魅力的で、刺激的で、ときに思いもよらぬ隠し玉として敵味方の両方を驚かせた。
高校時代は、そんな三井を替えの利かない戦力として、あるいはひとりのチームメイトとして信頼していた。大人になってから、ようやくそこに「人間として」という言葉が付け加えられた。ひとりのバスケットボール選手としてのみならず、ひとりの人間として彼を信頼するようになった。そしてその信頼が、いつしか恋愛感情に変わっていた。
なぜ、とか、どこが、とか、いつから、とか、そういう核心めいたことはいまだによく分からないでいる。だが、コートの外でこうやって自分の気持ちを理解しようとしたり、他人との関り方について頭を悩ませたりすること自体、流川にとってはなにもかもがはじめてで、特別な行為なのは間違いない。
「全部はじめてっす。ひとに嫌われたくねーとか、バスケ以外のことでうだうだ悩んだりすんのもはじめてだし。そーやって悩んでんのをうっとーしいとかめんどくせーとか思わねーのも、先輩がはじめてで」
だからもしかすると、永遠に分からないままでいいのかもしれなかった。永遠に分からないままにしておけば、流川はずっと三井のことで頭を悩ませていられる。
「先輩は、たぶんそーいうのはじめてじゃねーんだろうけど、俺は、はじめてだから。……だから、いちいち教えてもらわなきゃ、なんも分かんねーっす」
三井の肩にごつんと額をぶつけて、子供の駄々のような言い訳をこねた。視界の外で、三井の手が乱暴に流川の頭を撫でる。
「……お前がバスケ以外のことはてんでからっきしの朴念仁だって、俺もガキん頃からよーく知ってたわ、そういや」
「……あってるけど」
ひでえ、と流川が拗ねたように言えば、三井が喉を鳴らして笑う。
「拗ねんなって」
「拗ねてねーっす」
「嘘つけ」
「嘘じゃねー」
実際、ちっとも拗ねてはいなかった。子供のように頭を撫でられながら三井の笑い声を聞いているのが心地よいだけだ。その心地よさをもっと深く味わうために、肩へ寄せていた額を首筋に埋め、そっと背中へ腕を回す。
「……前はさ、こういうのも嫌なんだと思ってた」
流川にゆっくりと抱き寄せられながら、三井がぽつりと言った。
「こういうのって?」
「他人にベタベタ触られたり、体くっつけたりすんの。試合中はともかく、普段は肩組むのすら嫌がったろ」
あらためて指摘されると、過去の己のなんと取扱い難いことか。ひとつ弁解するならば、接触を嫌がったのは生理的嫌悪からではない。単に当時の三井が吹かせてくる先輩風や、桜木と宮城の馬鹿騒ぎに付き合わされるのを面倒がっていただけだ。
「……確かに、ガキの頃はそうだったすけど」
「だろ? だからさ、いまのお前って……」
三井がまた喉を鳴らしてくすくすと笑う。
「なに」
「――いや、ほら、なんつーんだっけこういうの。ギャップ萌え?」
「萌え」
「俺もあんま意味よく分かってねーけど」
「……嫌われてねーならなんでもいいっす」
流川はすっかり開き直って、三井の頬にぐりぐりと頭を擦り付けた。こういうときは、なんでも前向きに捉えるに限る。三井は「くすぐってえ」と笑いながら、じゃれついてくる流川の勢いに逆らわずソファへ倒れ込んだ。そのまま自然に唇をあわせて、息が続かなくなるまで互いを味わう。
三井といると、毎日新しい発見がある。
昔は、唇と唇をくっつけあわせるだけの行為の何がそんなにすばらしいんだと思っていた。けれどまさにたったいま、その考えを真っ向から改められている。彼の素肌に触れたなら、きっともっとたくさんの考えを改めることになるだろう。そんなふうに自分の考えを簡単に改めて白旗をあげることだって、流川にとってははじめての出来事だ。
でも、だ。
これがいわゆる初恋ってやつなのだから、と。だから全部がはじめてだって、それは当然しかたのないことだろう、と、流川は心の中で誰にともなく開き直ってみせたのだった。
2023.05.17