実用性はないが芸術性の高い写真集とか、古い白黒映画とか、母親の本棚にある古い少女漫画とか、そういう感じの絵面だった。そんな絵面が、西日も差さぬ薄暗い体育館裏の杉の木の下に、なんの飾り気もなく広がっていた。
流川が花を吐いている。
これは比喩でもなんでもなく、文字通り、額面通りの意味だ。流川楓が、口から花を吐いていたのである。
流川は制服姿のまま地面に両膝をついて、木の幹に片腕で凭れ、ぽとぽとと花を吐いていた。大ぶりの、白い花だ。花弁が分厚く、全体的にどっしりとしていて、ずいぶん吐きづらそうな花だった。そんな花が丸ごと、流川のちいさな唇がらぽとぽとと吐き出されてゆく。吐き出された花は折られた膝のうえに積もり、そのうち自重に負けて、ぽとぽとと苔むした土のうえに転がってゆく。
そんな光景を偶然目撃してしまった三井は、驚き以上に、場違いな感動さえ覚えてその場に立ち尽くした。
目を奪われた、というやつだ。
しんと静まった日陰で、制服姿の美しい少年が、ぽとぽとと花を吐いている。芸術の心得も文学的な素養もない三井でさえ、その耽美さに一瞬息を飲むような光景だった。季節は秋、制服はもう冬服に切り替わっていて、白い花と黒い学ランの対比がいっそう目の前の景色の耽美さを際立てている。
言葉を失ったまま立ち尽くす三井の視線の先で、その光景が作られた芸術や文学の類いでないと主張するように、流川が嘔吐いた。
「――おいっ、大丈夫か!?」
きゅうに背中を丸めて激しく咳き込みだした流川の姿に、ようやく声を取り戻したような心地で怒鳴りながら駆け寄る。
「……っ、セン、パイ」
「喋んな馬鹿」
地面に転がる花を蹴り避けながら身をかがめた三井を、流川の真っ白な顔が見返す。その瞬間、またぽとりと白い花が落ちた。色白を通り越して蒼白になった顔のなかの、そこだけ嫌に真っ赤な色をしたちいさな唇を割って、分厚い花弁の大ぶりな花首がぬらりと現れ、ぽとりと落ちる。
――花吐き病だ。
正確には、嘔吐中枢花被性疾患と呼ばれる感染症である。三井もその病名くらいは聞いたことがあった。患者の心理状態に感応して発症する珍しい病気で、そのトリガーは「片思い」だという。しかもその治療法は、花を吐くほど思いを寄せる相手と「両想い」になること。病気というよりは、恋に恋する乙女達が作り上げた都市伝説かなにかのような話である。
とはいえ、現に流川は花を吐いている。
どれだけ信じがたくとも、花吐き病が実際に存在する病であることは三井だって理解していた。流川以外の発症者も、以前に見たことがある。かつて三井が現実逃避のために彷徨っていた夜の街には、叶わぬ恋に溺れて喘ぐ男女が溢れていた。ほんとうならただ美しいばかりのはずの花々が繁華街の薄汚い路地裏に吐かれ、踏まれ、汚されてゆく様には、なんの驚きも感動もなかった。ただ、漠然としたもやのような不快感があるだけだ。
けれど流川の吐くそれは、あの夜の日々に見た薄汚い花達とはまったく違って見える。
「お前、これ……」
いつから、と三井が切れ切れに尋ねると、流川は目尻に滲んだ生理的な涙を乱暴に拭いながら「ほっとけ」とぶっきらぼうに言った。
「ほっとけって……。お前なあ、こんなとこでゲーゲー花吐いてる奴ほっとけるかよ」
「……うるせー」
流川は苦しげに顔を歪めながら、けれど気丈に体を起こして三井の手を振り払った。冷や汗の滲んだその手の冷たさに、怒りよりも心配が勝る。
「水、持ってくるか?」
「大丈夫っす」
「そう見えねーから言ってんだが……」
感染症などの症状を伴わない嘔吐でも、回数を重ねれば体力を消耗するし、胃酸によって喉や食道が傷つくこともある。いまだに体力不足による酸欠や貧血で吐くことがある三井だからこそ、大丈夫と言われてはいそうですかと額面通りに受け取ることはできなかった。
「とりあえず、深呼吸だ。そんでとにかく吐けるだけ吐いちまえ」
そう語りかけながら、嘔吐を促すように背中を擦ってやる。流川は一瞬鬱陶しげに顔を顰めてみせたものの、結局は三井の手当を受け入れ、唇を震わせながらゆっくりと深呼吸をはじめた。時折ひきつけを起こしたように呼吸が止まり、喘ぐように喉が震え、花が落ちる。
五分ほどそうしていると、流川が吐き出す花の量も次第に落ち着いてきた。一番大きなサイズの買い物袋に収まるかどうかといった量の花が、無造作に土のうえへ広がっている。三井は身の振り方を少し迷ったが、結局「まあいいか」と呟いて足元の花に手を伸ばした。
「――っ、やめろっ!」
流川が鋭く怒鳴り、三井の手首をきつく掴む。
「……なんだよ。とりあえずここ片付けねえと、カギ閉めらんねえだろ」
三井はとりあえず知らん顔で肩を竦め、そう答えた。
流川の不在に気付いたのは、居残り練習を終え、部室で帰り支度をしていたときのことだ。はじめはトイレにでも行ったものだと思っていたが、十分以上待っても帰ってこないので、不審に思って探しにきたのだった。今日の居残り組は三井と流川だけで、部室にはまだ流川の荷物がまるまる残されている。
「知らねえんすか。うつるっすよ、コレ」
三井の手首を掴んだまま、流川が怪訝そうに視線を尖らせて言った。
「知ってるよ」
「じゃあなんで……」
「そりゃあ、まあ、あれだ。……グレてた頃に何回か触っちまったことあんだよ。だからヘーキ」
三井の返答に、流川がはっと息を飲んだ。
花吐き病は感染症だ。患者が吐いた花に触れるとほぼ百パーセントに近い確率で伝染し、発症するまで嘔吐中枢に潜伏し続けるという。一度伝染してしまえば治療の方法はなく、発症するかどうかも「片思い」というかなり観念的な要素に左右される。三井の場合、感染していることに間違いはないだろうが、片思いの経験がないためか、花を吐く症状自体を発症したことはなかった。
「ろくでもねえ話だけど、酔っ払って不良仲間んちで寝てたら、起きたときには床じゅう花まみれでさ。まさかそんなことになってるとはおもわねえで、思いっきり裸足で踏んじまって……」
その時の感触を薄ぼんやりと思い出し、顔を顰めながら首を振る。確か薔薇のような赤い花だったと思うのだが、あまり気持ちのいい感触でなかったことは確かだ。犯人は当時よくつるんでいた友人が遊び相手にしていた女で、遊び相手から本命への昇格を望んでいたのだろう。その後どうなったのかまでは定かでない。あれ以降も何度か不意打ちで花弁を踏んづけた記憶があるから、きっと成就はしていないだろう。
三井の爛れた思い出話を聞いた流川は、呆れ半分安堵半分の顔で深々とため息をついた。
「……心配して損した」
そんな憎まれ口に、歯を見せて笑い返す。
「ま、気持ちだけありがたく受け取っとくよ。お前から俺にうつるってことはねーから、安心しろ」
「……うす」
「ほら、分かったらさっさと片付けんぞ」
そう言って急かすように背中を叩くと、ずっと広く逞しいと思っていた背中から思いがけず頼りない感触が返ってきて、背筋にひやりと冷たいものが落ちた。
■
あっ、と思わず叫んでしまったのは、その晩、大丈夫だと頑なに突っ張る流川を駅まで送り届けてから帰宅し、夕飯を終えて風呂に入っていた時のことだ。流川に、肝心な片思いの相手を聞くのをすっかり失念していたことを思いだした。聞いたところで教えてもらえたかは怪しいところだが、まあ、それはそれだ。
「あー……ったく、俺としたことが」
そう独り言ちながら湯舟のふちに組んだ足を引っかけ、風呂の天井を見上げながら流川の想い人に思いを馳せる。あの朴念仁にそんなものがいるとは心底から青天の霹靂で、誰に心当たりを尋ねても同じ答えが返ってくることだろう。
知らない。
まさか。
ありえない。
三井だって、実際にこの目で流川が花を吐くところを見ていなければ間違いなくそう思ったはずだ。だが三井は確かにこの目で彼があの白い花々を吐くところを見た。つまり、事実として流川は花を吐くほどの片思いをしている。
身近なところで心当たりを探るならば、一番怪しいのはマネージャーの彩子だ。
問題児だらけの湘北高校バスケ部をまとめる敏腕マネージャーの彩子は、流川とまともに双方向のコミュニケーションをとることができる数少ない人間のひとりだった。その時点で、自称親衛隊の少女達からは一歩どころか百歩はリードがある。
そのうえ流川とは中学時代からの付き合いらしく、女嫌いの流川も彼女にだけは心を開いている風だった。少なくとも、邪険にはしていない。しかし彩子のほうが流川を男として見ている雰囲気は全くなく、傍目にはどう見てもしっかり者の姉と手のかかる弟、という構図である。本人たちがどういうつもりでいるかはさておき、少なくとも、三井の目にはそう見えた。
そのうえ湘北高校バスケ部には、彩子のことを好きだと公言して憚らない男――宮城リョータがいる。彩子のほうはあまり相手にしていない様子なのだが、かと言ってはっきりと拒絶するでもなく、結局はお互い憎からず思いあっているんじゃないかと、三井も最近では結構微笑ましい気持ちで見守っていた。多分だが、他の部員達も同じ気持ちなのではないだろうか。
湯舟に口元を沈め、ぶくぶくと泡を立てながら唸る。
宮城の手前、流川の恋ばかりを応援してやることも出来ないのが辛いところだった。宮城とて、可愛げはないが可愛い後輩であることに違いはない。そして宮城の手前以前に、一番大事なのは彩子本人の気持ちだった。どちらも選ばない、という選択だって十二分にあり得る話で、三井の知らない第三者がすでにその心を射止めている可能性すらある。
「なんでよりにもよってアイツがああなるかなー、しかし」
濡れた顔を拭いながら天井を仰げば、詮無い独り言が次から次へとこぼれだした。
表向きは俺がエースだなどと言って流川と張り合っている三井も、実のところ、選手としての流川には一目置いているのだ。尊敬しているといっても過言ではない。
バスケの実力は言わずもがなだが、あんな顔に生まれついたら、普通、もう少しその美貌を鼻にかけてみせたり、色気のある遊びに興味を引かれるものだろう。だというのに、流川にはそういう浮ついたところが一切なかった。かつての三井のように、取り巻きや子分を引き連れて悦に入ったりする様子もない。特技バスケ、趣味バスケ、将来はきっと職業バスケだ。まっすぐにバスケだけを愛し、故にバスケからも愛されている。そんなふうに見える。
可愛くはないが、悪い奴ではないのだ。
そんな男が叶わぬ恋に身を焦がして苦しそうに花を吐いている姿というのは、まさかあいつに限って、という驚きとともに、さしもの三井でもちょっとばかり胸にくるものがあった。
「ままならねえなあ……」
天井を睨みつけながら、しみじみと呟く。
溜まった湿気が水滴となって湯舟に落ち、ぽちゃんと小さな音を立てた。その音を聞いて、ふと、アイツでも泣いたりするんだろうかと、くだらない想像が頭を巡る。片思いの相手を想って、夜中にひとり、さめざめと。あの流川が。あの流川に限って。背中を丸めて、ぽとぽとと白い花を吐きながら。
三井は突然弾かれたように立ちあがって、湯が溢れるのも構わず勢いよく湯舟から出た。脳裏に浮かんだ映像を振り払うように濡れた頭を振り、やめやめ、と小声で呟く。
悪い予感、というのとは、また違うのだが。
なぜだか、これ以上深く考えたらいけないような気がしたのだった。
■
三井には、自分があまり面倒見がよいほうではないという自覚があった。バスケ部へ復帰してからは特に自分のことで手一杯だったし、復帰するにあたってしでかしたことを考えれば、赤木や木暮のようないかにもらしい先輩面をして自分からコミュニケーションをとりにゆくのは流石に憚られる。
それでもプレーの質に関わる事となればもちろん口は出したし、流川を含むレギュラー陣には遠慮も容赦もすぐにしなくなったが、しかし、プライベートな、それも男女の恋愛沙汰についてとなるとやはり話は別だ。軽いヤンチャでは済まないレベルの爛れた青春時代を送った三井にまともなアドバイスがでてくるような引き出しはなく、もとより、他人の色恋話自体にさしたる興味もない。
そういう訳で、翌日体育館で流川と会っても、特別昨日見た光景については触れなかった。
「……元気そう、には見えねえがな」
コート脇で汗を拭いながら独り言ちる。コートの中では、今しがた三井と同じチームで紅白戦を戦い終えたばかりの流川が、ひとり黙々とゴールへ向かって個人練習に励んでいた。
本調子には到底見えないが、それでも練習にはしっかり参加するあたりが流石バスケ馬鹿といったところだ。顔色は白いを通り越して青いし、明らかに普段より息があがるのが早く、発汗量も多い。
「――あ、やっぱ三井サンもそう思う?」
横から答えたのは宮城だ。
「まあな」
「動きはキレてっけど、なんか顔白いし。アレに限って寝不足ってことはねーと思うんだけど」
なんか知ってるの、とそれとなく尋ねてくる宮城へ、苦い顔で首を横に振った。
「俺が知るかよ」
「だよねー。聞いたところで正直に白状すっとも思えねえし、どーすっかなあ……」
「おいおい、そこをなんとかすんのがキャプテンの仕事じゃねーのかよ」
「うわ出たよ、そーやって都合のいいときばっか人をキャプテン扱いして」
宮城はぶつくさと三井の文句を言いながら、けれどどこか心配そうに流川の姿を目で追っている。体調不良の原因を知っている手前、その姿に罪悪感のようなものを覚えないではなかったが、事が事だけに口を噤むほかない。
「……まあ、今んところはほっとくしかねーんじゃねえのか。無理に聞き出して喋るような奴じゃねーだろ」
三井がぶっきらぼうに言えば、宮城も苦笑気味に頷いた。
「だよねえ。つーか俺、アイツと二人きりで喋ったこと自体ほとんどねーし、話しかけた時点で怪しまれそう」
「まあ、そうかもな」
三井は宮城の話へ適当な相槌を打ちながら、昨日見た光景をぼんやりと思い返していた。
叶わぬ恋に身を焦がして花を吐く、だなんて、字面だけならなんともロマンティックな行為だが、昨日見た通り、実際は相当な苦しみを伴っているはずだ。寝ている最中に催せば窒息の危険だってあるし、もしかすると今この瞬間にも込み上げてくる嘔吐感と戦っているかも知れないと思うと、なんとなく、三井のほうが居ても立っても居られないような気分になる。
「――ちょっとォ、なにしてんのよ桜木花道!」
知らず知らずのうちにじっと流川の姿を追いかけていた三井は、思いがけぬ声量にぎょっとしながら声の主を見た。犯人は彩子だ。
「ぬぬっ、こ、これは……」
「アンタは大人しく基・礎・練!」
「ぬおーっ!」
リハビリ明けのブランクを取り戻すために課せられた基礎練に、すっかり飽きていたのだろう。ボールを抱えてこっそりコートへ忍び寄っていた大柄な赤坊主を、彩子が問答無用でひっとらえる。そのままずるずるコート脇へ引きずられてゆく桜木の姿を見ながら、宮城が野次を飛ばした。
「コラ花道っ、いちいちアヤちゃんの手を煩わすなってーの!」
「だ、だがリョーちん! この天才桜木が不在では、あの陰険馬鹿キツネもさぞ張り合いがなかろうと、そう思ってだな……」
突然引き合いに出された流川が、鋭い目で桜木を睨んだ。
「……頼んでねー」
「な、なにおう!」
「いまのお前じゃ肩慣らしの相手にもならん」
流川はふんと鼻を鳴らして吐き捨てるように言うと、付き合ってられるか、とばかりに背中を向けて歩き去ってゆく。その様子を見た桜木が、案の定とでも言うべきか怒りをあらわにして地団駄を踏んだ。
「ぐぬぬぬぬ……っ、このぉ、言わせておけば……っ!」
「こらっ、もう、暴れないっ!」
ぎりぎりと歯噛みをする桜木の後ろで、彩子がどこからともなくハリセンを取り出し、躊躇なく赤い坊主頭をひっぱたいた。宮城も三井も、その光景に思わずぷっと笑みをこぼす。
インターハイの山王工業高校戦で背中を負傷し入院していた桜木がやっと退院し、ただでさえ赤木と木暮の引退で寂しくなった体育館へもようやく活気が戻ってきた。
態度こそ素っ気ないが、桜木の復帰を最も喜んでいるのは流川だろう。口ではド素人だの下手くそだのと散々に腐しているが、桜木の持つ底知れない可能性を誰より強く信じているのは他ならぬ流川だ。三井とて常々末恐ろしい奴だと思ってはいたものの、ほんの最近――山王戦のブザービーターを見るまで、桜木をひとりのプレイヤーとして信じ切れずにいた。だが、流川は信じたのだ。
その桜木がやっと復帰したというのに、流川の態度は相変わらずつっけんどんとしたものである。桜木も桜木で、よせばいいのにいちいち因縁をつけて回るものだから始末に負えない。これがいわゆる喧嘩するほど仲がいいというやつなのか、あるいは、好きな子ほどいじめたくなる、というやつなのか。
小学生かよ、と思わず吹き出しそうになった三井の腕を、隣の宮城がちょんと控えめにつついた。
「……ねえ、三井サン」
「あんだよ」
「さっきの話のつづきだけどさ。今日の帰りにでも、ちょっと流川誘ってどっか連れてってやってくんない?」
「はあ? なんで俺が……」
ぎょっとして思わず後退った三井を、宮城が縋るように追いかける。
「だってほら、アンタ、よくアイツと二人でワンオンとか居残り練習とかしてんでしょ。俺よりは適任かなって」
頼むよ最上級生、と両手を合わせて拝むように言う宮城に、三井は呆れまじりのおおきなため息をこぼした。
「……お前の方こそ、都合のいいときばっか俺を三年生扱いしてんじゃねえか」
「タンコブ扱いよりはマシでしょ。ねえ、ほんと、マジで頼みますよ。ただでさえうちは層が薄いってのに、肝心要のエースの調子があがんねーでどうするっつーんすか」
そこまで言われて断れば、こちらのほうが悪者扱いだ。三井は再びおおきなため息をこぼして、後頭部をがしがしと掻きながら言った。
「……しゃーねえな。やるだけやってみっけど、あんま期待すんじゃねーぞ」
「流石、頼れる三年生!」
「だから、お前なあ……!」
「うわっ、喧嘩禁止! 喧嘩禁止だってば!」
小馬鹿にしたような顔で笑いながら逃げる宮城と、肩を怒らせて追いかける三井。湘北高校の体育館ではよく見られるありきたりなその風景に、控えの一年生達からもクスクスと忍び笑いが漏れ聞こえてくる。ありきたりな、気に留めるほどのこともない日常の一ページだ。
だから、その場にたったひとり険しい顔で胸元を抑えている人間がいることも、誰ひとりとして気には留めなかったのだった。
■
しゃがんだ背中へ、なあ、と軽く声をかけると、思いのほか鋭い視線に振り仰がれて、わずかにたじろぐ。
「……なんすか」
流川がしゃがんだまま言った。ずいんぶん棘のある口調である。
宮城が気を利かせたのか、練習後の体育館に三井と流川以外の人影はない。つまり、助けを求める相手もいないということだ。三井は挫けそうになる心を奮い立たせ、探るように言った。
「なに、って……大丈夫なのかよ?」
流川の答えはない。
「今日一日、ずっと顔色悪いぜ。寝てねーんじゃねーの」
「……べつに」
流川はぶっきらぼうにそう言うと、肩で額の汗を拭いながら立ち上がった。そのまま三井に背を向けて歩き出した覇気のない背中に、思わずため息がもれる。
普段ならせっかくの気遣いを無下にされてむっとするところだが、今日ばかりは流川の気持ちも分からないではなかった。弱っているときほど虚勢を張ってしまうのは、自分でも直視できずにいる心の弱い部分へ、不用意に踏み込まれたくないからだろう。
「今日は言わねーのな」
三井はあえて何とは言わずにそう呼びかけた。案の定、しかめっ面の流川が振り返る。
「……なにをっすか」
「ワンオン。前は暇さえありゃあワンオンワンオンってうるさかっただろ、鳴き声みてーに」
最初に挑まれたのは、インターハイの直前だった。コート脇へ置かれたケージからボールをひとつ取り、手慰みにドリブルをしながら当時の気迫みなぎる流川の姿を思い返す。
あのときは三井の大人げない不意打ちに腹を立てていた様子だったから、てっきりもう懲りて声はかけてこないものだと思っていたら、インターハイ後もなにかにつけて三井を練習相手に指名してくるようになった。いまの湘北で流川の練習相手になるメンバーというと、三井か宮城くらいのものだ。三井と宮城を天秤にかけ、慣れないキャプテン業に悪戦苦闘中の宮城ではなく、大学の推薦枠をもぎ取るべく受験勉強そっちのけでバスケに打ち込んでいる三井を選ぶのは自然といえば確かに自然ななりゆきである。
三井とっても、流川ほどの実力者が身近にいるのは心強いことだ。実戦でしか得られない学びというものは間違いなくある。それにくわえて、道を踏み外していた二年間のうちに味わえなかった「先輩」という肩書を、存分に味わえるのも気分がよかった。
「俺が勝ったら、飯いこーぜ」
奢るからよ、と先輩風を吹かせて続けると、流川の顔が怪訝そうに歪む。
「……意味がわかんねー」
「たまにはいいだろ、こういうのも。お前が勝ったら――そうだな、なんか一個なんでも言うこと聞いてやるよ。どうだ?」
三井の提案は、あまりにも流川だけに都合のいいものだ。流川はしばらく探るような顔で三井を睨んでいたが、結局根負けした様子で頷いた。
「……なに企んでんのか知んねーけど、べつに、いーっすよ」
どうせ勝つし、と、こんなときでも憎まれ口を忘れない姿が、今日ばかりはどこかいじらしく思える。
「――おし。じゃあ、決まりだな」
そう笑って頷いた三井を、流川が不審そうに眉をひそめて睨んだ。まあ、そうだろう。普段なら絶対に生意気だのなんだのと言って食ってかかるところだ。三井は己の信用のなさに苦笑しながら、しかし宮城から託された役目は果たせそうだと、心の中でそっと安堵のため息をついた。
■
結果としては、三井が勝った。勝ったのだが、食事はお預けになりそうだった。
「――いいから、ほら。我慢しねーで、全部吐いちまえって」
衝動を抑え込むように丸められた背中を擦りながら、いいから、いいから吐け、と繰り返す。それでもこみ上げる吐き気を堪えようと悔しげに唸る声に胸が痛む。
もう一回、と肩で息をしながら粘る流川をなんとか宥めて、やっと部室まで引き上げたタイミングだった。ロッカーを開け、後ろをついてきていた流川を振り返って「なに食いてえの」と尋ねたその瞬間に、唇からぼろりと花がこぼれた。あの、真っ白い花だ。
綺麗なはずの花が、いまこの瞬間に限っては酷く憎らしく、おぞましいもののように見えた。
流川に限って、まさかこんなことでバスケを諦めるとは思わない。けれど、もし。例えばもし試合中に発作に襲われたら。実際に嘔吐するまでには至らなくとも、重要な場面でもし、万が一と頭に過るだけで心と体は間違いなく消耗する。
「言いたくねえなら、言わなくてもいいけどよ。……誰なんだよ、相手」
冷えた背中を擦りながら、絞り出すように言った。その瞬間、流川の背中が波打つようにしなって、真っ白い花が三つまとめて転がり出る。慌てて「大丈夫か」と声をかけると、流川は苦しげな空咳を繰り返したあと、手の甲で乱暴に口元を拭いながら切れ切れに言った。
「……っ、は、知らね……っ」
そう吐き捨てるように言う横顔に、やはりいじらしいような痛ましいような思いで胸がぐっと締め付けられ、見ているだけの三井のほうが息苦しくなる。切れ長の目じりには薄っすらと涙が滲み、白い肌は一層青ざめて見えた。
「言っとくけど、俺、こう見えて結構口は堅ぇほうだぜ」
空元気を出して笑いながら言えば、流川はわずかに躊躇うように三井を見た後、ゆるゆると力なく首を左右に振った。
「……ちがう、ほんとに知らねー。俺が……俺が、片思いなんて」
そんなの、と流川が続ける。そんなのありえねえ。知らねえ。そう繰り返す不安げな表情に、嘘はなさそうだ。
「自覚がねーってことか?」
そんなことがありえるのか、と疑う気持ちもないではなかった。けれど、相手は流川だ。
これまで人生のほとんどをバスケに捧げてきた少年が自分でも気づかぬうちに恋に落ちて、自覚もないまま勝手に溢れ出した気持ちのなれの果て。それがこの白い花の山だと思うと、やはり三井のほうが胸苦しく、泣き出したいような思いに駆られてしまう。
自分のように、さんざん無責任に遊んできた男がしっぺ返しのように苦しむのならまだ分かる。けれど流川は、誰より真剣にバスケだけに打ち込んできた男だ。まばゆいほどの才能を持ちながら、その才能を錆びつかせないための努力も怠らない、恐ろしいほどのバスケ馬鹿。その流川がなぜ、と、そう思わずにはいられなかった。
「……そうか」
三井はもはやそれしか言えず、床に落ちた花をひとつ摘まみあげて、まじまじと見た。分厚い花弁の、どっしりとした花。花の知識などまったくない三井でも、おおきな幹と太い枝を備えた木にたっぷりと咲いている姿が想像できる、そういう花だ。ただ儚くうつくしいだけでないところがいかにも流川らしい。
こんな花に例えられるような熱量で思われている相手というのは、いったい誰なのだろう。
一番それらしいのは、やはり彩子だ。だが、気付いていないのならばなおさらそう簡単に背中は押せなかった。人並外れて自立心の強い流川が、三井の手助けを求めるとも思えない。
しばらく黙って流川の背中を擦っていた三井だったが、それもすぐに流川の手で振り払われた。
「……なんだよ。もう、いいのか?」
躊躇いがちに尋ねると、流川は険しい顔で三井を振り仰いだ。
「もう、っつーか。……いらねーっす、こういうのは」
流川は絞り出すようにそう言った後、長い睫毛を伏せ、苦し気に眉根を寄せて視線を床へ落とした。その顔がいまにも泣き出しそうに見えたのは、三井の気のせいだろうか。
三井が黙って言葉の続きを待っていると、流川は手の甲で乱暴に目元を拭ってから、ちいさな声でぽつりと言った。
「……宮城キャプテンに、言われたからっすよね」
思いがけない問いに、答えを探しあぐねて顔を歪める。今日自分から流川を誘ったのは、確かに宮城にそう頼まれたからだ。だが、それを責められるような謂れはない。
「そりゃあ、そうだけどよ。俺も宮城も、お前んこと心配してんのは本当だぜ。明らかに顔色悪ィし、放っておけねえだろ」
戸惑いながらそう答えると、流川はひときわ激しく咳き込みだし、ぽとぽとといくつか花を吐いた。三井は振り払われた手を手持ち無沙汰に握り、ただその姿をじっと眺めていることしかできなかった。
■
最後に流川とふたりきりで話してから、一週間と少し経った。
あれから流川の体調が回復した様子はなく、ということはつまり、いまだにこっそり花を吐いているのだろう。最近では部活動の時間帯にもふらりと姿を消すことがあった。
一人で抱え込むには、流川にとっても三井にとっても、あまりにも重すぎる秘密だ。
土曜の夕方、全体練習もひと段落つき、三井はぼんやりと体育館の入り口に腰かけて外を眺めていた。ほかの部員達はどこへ行ったのか、体育館には三井一人きりだ。
少しずつ日が短くなるにつれ、自分が高校生としてバスケをできる時間も残り僅かだと実感する。そんな大事な時間に他人の心配をしている暇などないはずなのに、手持ち無沙汰な時間が出来ると、思い浮かぶのは苦しげに花を吐く流川の顔ばかりだった。
「――あ、三井先輩」
後ろからそう声をかけられ振り返ると、体育館の校舎側の入り口のところへ、両手いっぱいに荷物を抱えた彩子が立っていた。おおきな段ボールを二つ重ねて持っているせいで、三井からは彼女の足しか見えない。
「おいおい、危なっかしいな」
「アハハ、こう見えて結構力持ちなんですよ」
「馬鹿言ってんな」
三井は重い腰をあげて彩子へ駆け寄ると、段ボールを二つまとめて奪い取った。
「あ、ちょっと。私も一個くらい持ちますって」
「いや、いーって。どこ置くんだ?」
「部室です。買い替え頼んでた備品、部室の前に配達してもらうように言っておいたのに、間違って職員室に届いちゃってたみたいで」
「ふうん」
「一年の子に頼もうかと思ったんですけど、今日に限って誰も捕まんなくって」
ああ重かった、と肩を回す彩子に苦笑をこぼし、部室への道のりを歩く。彩子と三井がふたりきりになることなど滅多にないが、彩子の気取らない性格のおかげか、不思議と気まずさはない。
部室に着いても、やはり他の部員達の気配はなかった。荷物はあるから、コンビニへ買い出しにでも行ったのだろうか。誘われなかったことに寂しさはあるが、部に残っているただ一人の三年生として、こういう時にあぶれるような格好になってしまうのも致し方のないところではある。
「なんかすみませんねえ、手伝ってもらうために声かけたみたいになっちゃって」
彩子が申し訳なさそうに言う。
「いいって、別に。……しかし肝心な時にいねーとは宮城の野郎も使えねーなぁ、まったく」
三井がそう憎まれ口を叩くと、彩子はほんの少し困ったように眉をさげた。
「ふふ、まあ、それはそーですけど」
「あんだけアヤちゃんアヤちゃん言っといてよお」
「ね、ほんと。……本気なんだか冗談なんだか、時々わかんなくなっちゃう」
冗談めかしてはいたが、ふっと小さくなった声には切なげな色が滲んでいる。
「……お前ってさ」
「はい」
「やっぱ宮城のこと、好きなん?」
三井が正面から真っ直ぐにそう切り込むと、彩子は驚いたように目を見開き「ちょっとお」と情けない声で叫んだ。
「それ、いきなり聞きますぅ!?」
「べつにいいだろ。俺、もうすぐいなくなんだし」
いひひ、と意地悪く笑いながら言えば、彩子はまた困ったように眉をさげ、泣きそうな顔で笑った。
「……それも、いま言うことじゃないです。絶対」
「そうか?」
「そうですよ。いなくなるとか、そんなこと、まだ言っちゃ駄目です」
「……そっか」
三井がなんとなくむずがゆい気分で頭をかいていると、反対に、彩子はいつもの調子を取り戻してからりと笑った。
「――でも、なんだか意外。先輩って、あんまり人の恋愛とか興味なさそうじゃないですか」
「そりゃねえよ。興味なんかあるわけねえだろ、あんな阿保どもの恋愛事情に」
話が長くなりそうな気配を感じて、万年置きっぱなしのパイプ椅子へどっかり腰かける。彩子も三井に倣って別のパイプ椅子へ腰かけ、腿のうえに頬杖をついて上目遣いに続けた。
「浮いた話も全然聞かないですしねえ。先輩、フツーにしてればモテそうなのに」
フツーに、のところにやや含みを感じたが、身から出た錆であるので口答えはできない。
「逆逆、モテるから興味ねえの。宮城だの桜木だのとは根本的にちげーわけよ、そこが」
照れ隠しもあってわざとらしいほど嫌味っぽくそう答えると、彩子もわざとらしいほど呆れた表情を作って三井から距離を取るように体を引いた。
「……うわあ、仮に事実だったとしても、それ自分で言います?」
彩子は「ヤダヤダ」と呆れたようにけらけら笑い、それからふっと真面目な表情になって「あの子もそんな感じなのかなあ」と続ける。
「あの子って?」
「流川ですよ、流川」
その名前に、ぎくりと顔が強張る。
「モテるのはいーんですけど、それ相応の躱し方ってのがあるでしょう? いくら興味がないって言っても、あの調子じゃいつか痛い目見るんじゃないかって、時々無性に心配になるんですよ」
そう言っておおきなため息をついた彩子は、まるっきり姉の顔をしていた。流川へ群がる少女達への嫉妬心や焦りなどは微塵も感じられない。
言うべきか、言わざるべきか。三井はしばらく悩んで、重い口を開いた。
「……なあ」
「なんです?」
「お前さ、もしアイツが誰かに片思いしてるって聞いたら――」
どう思う、と、絞り出した声が僅かに震えた。彩子がびっくりした様子で目を瞬いている。
「どう、って……。青天の霹靂って感じですね、正直」
「だよなあ……」
「先輩、あの子と何かあったんですか?」
彩子は怪訝そうに眉を顰めると、声を落として言った。一瞬「なにもない」と咄嗟に否定しそうになった三井だったが、しかし、このままでは三井と流川、二人揃って袋小路に追い詰められるだけだ。淀んだ水溜まりに石を投げ込むような気持で、手のひらに滲んだ汗をそっと拭う。
「誰にも言うなよ」
「もちろん」
「……ちょっと前によ、アイツ、体育館の裏で花吐いててさ」
三井の告白に、彩子が弾かれたように立ちあがった。
「花……っ、て、まさか――」
「ありゃあ多分……いや、間違いなく花吐き病だ」
しばらく黙って立ち尽くしていた彩子だったが、すとんと気が抜けたように座りなおすと、呆然とした顔で口を開いた。
「……確かに最近、ずっと調子が悪そうでしたけど」
「ああ」
「部活中にもふらっといなくなるし、どうしたのって聞いても何も言わないし」
「だろうな」
「相手は誰なんです?」
その問いに、三井は力なく首を左右に振った。
「知らねーってさ」
「……は? 知らない?」
「そう。言いたくねーんじゃなくて、知らねえんだと」
彩子がおおきなため息をこぼす。
「それはそれであの子らしいっていうか、なんていうか……」
「俺はてっきり、お前かと思ってた」
三井の言葉に、彩子は「まさかぁ」と笑い、顔の前で両手を振った。
「よしてくださいよ、もう。中学時代から何回も言われてきたんで、先輩の言いたいことは分かりますけど。……でも、それはないと思います」
「どうして」
戸惑う三井へ、彩子が苦笑交じりに笑い返す。
「考えてもみてくださいよ。あの常軌を逸した負けず嫌いがですよ、自覚がないからってこんなに身近にいる相手にモーションのひとつもかけず、そのうえさらに強力――かどうかは怪しいところですけど、ライバルが現れたっていうのに、ただ黙って見てるだけなんてこと、あり得ると思いますか?」
「……でもよ、相手は宮城だぜ?」
「だからこそ、でしょ。大体にして、先輩だからって気遣って譲ったり譲られたりなんて、そんなの、リョータのほうも気に入らないと思いますよ」
言われてみれば、確かに、流川がそんな気の回し方をする男とは思えない。宮城だって、勝負もせずに勝ちを譲られてラッキーだと思うような気概のない男ではないはずだ。
そう考えると不思議とほっとして、三井は知らず知らずのうちに詰めていた息をゆっくり吐いた。
「そういうもん、か……」
「そういうもんじゃないんですか。男心なんて、私、物理の公式よりわかりませんけど」
「嘘つけよ。……お前、やっぱまじでいい女だな」
三井が感心したようにそう言うと、彩子は大口を開けてけらけらと笑ってみせる。
「もうっ、気付くのが遅い!」
■
抱えていた秘密を彩子に打ち明けたお陰で、どこか憑き物の落ちたような気分だった。
届いた荷物のチェックをしなければならないという彩子を置いて部室を出ると、廊下の向こうから宮城が駆け寄ってくるのが見える。
「おい宮城、テメエどこ行ってやがったんだよ」
三井が軽く凄むと、宮城は「こっちの台詞」と苛立った様子で答えた。
「はあ?」
「ねえ三井サン、流川見なかった?」
「……いや、見てねえけど」
「マジ?」
宮城は焦りの滲んだ声を裏返し、汗の滲んだ額を手の甲で乱暴に拭った。
「っかしーな……チャリはあんのに」
「保健室は?」
三井の問いに、宮城は長い溜息をつきながら首を振った。
「さっき見たけど、いなかった。部室にもいないんでしょ?」
「ああ」
「うーん、そっか。……てっきりアンタとワンオンでもしてっかと思ったんだけど」
「……こっちこそ、俺を巻いてメシでも食いに行ったんかと思ってたんだが?」
三井が少しばかり恨めしい気持ちを込めてそう言うと、宮城は気まずげに目を瞬き、うーんと唸りながらそのよく回る口をまごつかせた。明らかに心当たりと罪悪感のある顔だ。
「……いや、巻いたのは確かに巻いたんだけど」
「ああ!?」
不機嫌丸出しで凄んだ三井を、宮城がどうどうと窘める。
「いやいや、あのね、違うんだって!」
「なにがちげーんだよ」
「……あー、まあ今ここでしゃべっちゃっても別にいいんだけどさ」
宮城は不本意そうな顔で鼻の頭を掻いている。言いたくない、と思い切り顔に書いてあった。だが三井が「言え」とばかりに顎をしゃくると、渋々の体でやっと口を開く。
「俺がしゃべったっての、内緒っすよ。特に花道には」
「おう」
「……アンタの引退記念品」
買いに行ってたの、と、ぽつり。
思いがけないその告白に目を瞬く三井と、照れ臭そうに唇を尖らせる宮城。ややあって、ぶつぶつと宮城が言い訳をはじめる。
「ほら、ダンナ達の追い出しんときはアヤちゃんと晴子ちゃんに任せっきりにしちまったでしょ。……だからアンタんときは俺たち全員でなんかくだんねーもん選んで笑かしてやろうって、花道が張り切ってさ」
追い出し、という言葉に、数か月前の記憶が呼び起こされる。
一般受験での大学進学を目指す赤木と木暮は、インターハイを区切りに部活動を引退した。一時は廃部寸前の弱小クラブだった湘北高校バスケ部を守り抜いた立役者二人の追い出し――送別会は、とにかく盛大で、賑やかで、一生分の赤木の怒声をまとめて聞いたような、そういう会だった。思い返せば会の最後に宮城が花束と記念品と、それから、まるで小学生の落書き帳のような様相を呈した寄せ書き色紙を手渡していた記憶がある。
――そうか、次は俺か。そりゃそうだよな。
頭では他人事のようにそう思ったけれど、心はまだ納得しきれず、ぐっと息が詰まる。
「引退、って……まだ先だろーが、そんなの」
動揺を誤魔化すように下を向いてぼそぼそ言えば、宮城も気まずそうに視線を逸らした。
「そうだけどさ。でも、先延ばしにしてっとあっという間だろ、こういうのって」
「……まあ、そうだけどよ」
三井が部へ復帰してからインターハイまでの時間が、まずあっという間だった。ならば今日この日からウィンターカップまでの時間だって、きっとあっという間だ。時間の流れというのは残酷で、楽しく充実した時間ほど、惜しむ間もなくあっという間に過ぎてしまう。
「石井がなんとか説得して流川も連れてったんだけど、アイツ、途中でどっか行っちまってさ」
「ああ、それで」
三井は半分うわの空のまま、ぎこちなく頷いた。
「そう。元々あんまり乗り気じゃなさそうだったから、はじめはてっきり勝手に帰ったんかと思って、気にしてなかったんだよ。でも帰ってきたら体育館にゃ誰もいねーし……」
そこまで言って、宮城が一度言葉を切る。視線を感じて顔をあげると、宮城は思った以上に深刻そうな顔をして三井を見ていた。
「最近、アイツずっと具合悪そうだったでしょ?」
「……ああ」
「それ思い出したら、なんか、急に不安になっちまってさ。あのクソ馬鹿に頑丈な流川に限って、どっかで倒れてるなんてことはねーと思うんだけど……」
倒れてる、のひと言に、三井の肩がぴくりと震えた。
花吐き病は、単に花を吐くだけの病気だったはずだ。花を吐くだけの、字面だけを見ればじつに耽美で長閑とすら言える病気。だが治療法はたったひとつ、片思いの成就だ。それ以外に有効な治療法はなく、対症療法の治療薬さえない。患者は片思いが叶うまで、ただ吐いて吐いて、吐き続ける。
「……俺も手伝うわ、探すの」
言い様のない焦燥に駆られ、思わずそう呟いていた。宮城がほっと安堵の息をもらす。
「頼んます。……よく分かんねーけど、アンタが見つけたほうがいいと思う、多分」
■
あちこち探しまわって、最後にたどり着いたのが屋上だった。
外はすっかり日暮れていたが、校庭には吹奏楽部の奏でるてんでバラバラな旋律と、ランニング中の野球部の野太い掛け声が思い思いに響いている。
「――流川」
そっと声をかけると、フェンスに掴まってしゃがみ込んでいた大きな背中がびくりと震えた。
「さみーだろ、こんなとこ」
三井がそう言って歩み寄っても、流川は振り向こうともしない。それがなぜだか無性に悔しくて、三井はこっそり下唇を噛んだ。
流川が求めているのは、自分じゃない。
それが分かっていても、見放すことはできなかった。流川の足元に積もった白い花が、彼の苦しみをまざまざと突きつけてくる。
「俺の追い出し会の記念品、買いに行ってたんだって?」
つとめて軽くそう言えば、流川の肩がぎくりと強張ったのがわかった。その反応を無視して隣にしゃがみ込むと、三井の足も真っ白な花の山に埋もれてしまう。
「何買ったんだよ?」
三井の問いかけに、流川がちいさく首を振った。
「……知らねー」
「なんでだよ。一緒に行ったんだろ?」
ふっと笑いながらもう一度尋ねると、流川は膝の間に顔を埋め、子供のように嫌々と頭を振って黙り込んだ。言いたくない、知らない。頼むからこちらへ踏み込んでくるなと、全身がそう語っていた。その姿に、ぎゅっと胸が苦しくなる。
こんなにも思いつめて、それでも手を伸ばせない相手とは、一体誰なのだろう。
よく見れば、流川の体はなにかに怯えるように小刻みに震えていた。そっと手を伸ばして背中へ触れると、流川はびくりと大きく体を揺らし、三井を拒むように体を捩る。その姿にまたいっそうきつく胸が痛んだ。
流川が求めているのは、やっぱり自分じゃない。
そんな当たり前の事実が、ナイフのように胸に刺さる。
「っ……!」
三井は思わず息を詰め、着ていた練習着の胸元をぐっと握りこんだ。
比喩なんかではなく、胸が痛い。苦しい。息ができない。握りこんだ右手に冷や汗が滲み、酸素を求めて喉が引き攣る。どくどくと血管が脈打つ音が耳の奥でけたたましく響く。
――嫌だ、違う。違うんだ。
無意識にそんな言葉が頭へ浮かんだが、反射的な体の動きは制御できなかった。
「――う、っ、おぇ、……っ」
咄嗟に両手で口元を覆い、流川から顔を背ける。口の中に酸っぱいものが込み上げ、次いで、場違いな香りが口一杯に満ちた。
「……先輩?」
流川が怪訝そうに呼びかけてきたが、答える余裕はなかった。打ちっ放しの冷たいコンクリートに両膝をついて、おおきく咳き込む。すると、菊に似た小ぶりな黄色の花が、次から次へと地面に転がり落ちた。ひとつひとつの花は小さいが、その分数が多く、吐いても吐いても止まる気配がない。
嘘だろ、と、三井の頭に浮かんだのはそれだけだった。
誰がどう考えても万に一つも叶う宛のない、手を伸ばす気にもなれないような片思いだ。自覚した瞬間に、打ちのめされるような絶望感が全身を満たす。違う、そういうんじゃない。頭の中でどれだけ言葉を重ねても、吐いた花が容赦なく現実を突きつけてくる。
「――花?」
三井の後ろで、流川が呆然と言った。
見るな、と咄嗟に右腕を後ろへ伸ばし、左腕で地面に転がる花々を掻き抱く。しかし流川は伸ばされた右腕を掴むと、制止を無視し、三井の体を地面からはぎ取るように抱え起こした。
流川の切れ長の目が、なにかひとかたならぬ熱量を湛えて三井を射貫く。
「――先輩、なんで……っ、その花……っ!」
三井は抱え起こされた格好のまま、込み上げてくる嘔吐感に胸を喘がせていた。我慢できずにえづくと、生理的な涙がこめかみを伝い、口の端からぽろりと花がこぼれ落ちる。流川はじっと目を見開いたまま、重力に従って落ちてゆく花を睨みつけていた。
――ああ、参った。ミイラ取りがミイラになるってのはこのことか。
すぐ近くにある端正な顔を眺めながら、三井はぼんやりとそんなことを思った。
はじめは、単なる同情だったはずだ。首を突っ込むつもりはなかったし、一度は差し伸べた手を拒まれもした。けれど、どうしても気になって仕方がなくて。彩子にあれこれと込み入ったことを聞いてしまったのも、今思えばらしくなかった。
「なんでだろうな……」
わかんねえよ、とぼんやり答えた三井の頬に、一滴、二滴と生温い水滴が落ちる。堰を切ったように降り注ぐ生温い雫を受け止めながら、泣いてんのか、と、三井は奇妙なほど冷静にそう思った。
どんな顔で泣くんだろう、と、興味本位で想像してみたことがある。
実際目の当たりにしてみて、こんな顔だったか、と、そんなつまらない感想だけが頭へ浮かんだ。子供みたいに顔を赤くしてしゃくりあげながら、流川は次から次へと大粒の涙をぼとぼとこぼしている。声を殺すためにきつく噛み締められた薄い唇が気の毒で、三井はそっと流川の頬に手を添えると、親指で下唇のあたりをさすってやった。
「噛むなって」
苦笑交じりにそう言ってやれば、流川が唇を噛んだままぐずっと鼻を鳴らす。その仕草があまりに子供っぽくて、三井は思わず吹き出すように笑った。
「ひでえ顔だぜ。ガキみてー」
「……せんぱい」
「あんだよ」
流川がぐずぐず鼻を鳴らす。
「……やめないで。そつぎょうしねーで」
おねがいだから、と、気の毒なほどの涙声が縋るように続けた。発言の真意を理解するよりさきにどうしようもなく胸が締め付けられ、口の端からまた花がこぼれる。卒業しない。部活もやめない。そう言ってやれればどれだけいいか。
「だれ、だれなんすか。……センパイの、す、好きなひとって」
えぐえぐとしゃくりあげながら、流川が言った。三井の口は花で満たされ、なにか言葉を発しようとするたび、ちいさな花がころんころんと顔の横を転がり落ちてゆく。抑えようと思えば思うほど花は溢れ、三井が花を吐けば吐くほど流川の顔がくしゃくしゃに歪んでゆく。
おもむろに、流川の手が三井の頬をやさしく包んだ。そのまま捧げ持つように顔を持ちあげられ、同時にゆっくりと流川の顔が近付いてくる。
自分の身に起きていることが信じられなくて、頭の中が真っ白になった。
「――は」
涙に濡れた流川の唇が、ほんの僅か、ほんの一瞬だけ、三井のそれにそっと重なる。目を閉じる暇もなくて、雫を纏った長い睫毛が間近でぱたぱたとはためくのを、三井はただ呆然と眺めていた。
しかし呆然としていたのも束の間、突然胸の奥から突き上げるような嘔吐感が込み上げてくる。
「――っげほっ、ごほっ、ぅえ……っ!」
なりふり構わず四つん這いになって咳き込んでいると、流川も似たような格好で苦し気に咳き込んでいるのが横目に見えた。大丈夫か、そう声をかけようとした瞬間、喉の奥からエイリアンじみた生き物でもせりあがってくるような、強烈な嘔吐感に襲われる。
「おえっ……」
いよいよ我慢できず、ひと際おおきく嘔吐いた瞬間だった。いままでにないおおきさの花が一輪、地面についた両手の間へぼとりと落ちる。
「な、んだ、これ……。百合?」
嘔吐による疲労感に肩を上下させながら、いましがた吐いたばかりの花を手に取った。花には詳しくない三井だが、さすがに冠婚葬祭で目にする機会の多い百合の花くらいは分かる。
その百合は白というよりは銀に近いような不思議な色合いで、自分の口から出てきたのが信じられないほど大きな花弁を持つ、うつくしい花だった。夜に差しかかった紫色の夕焼けにかざしてみると、花弁のふちが西日を纏ってきらきらと光り、どこか幻想的だ。
「先輩」
流川の声に呼ばれて振り返ると、彼の手の中でも同じ花がきらきらときらめいている。
「なあ、これってさ……」
「白銀の百合。――両想いの証、だって」
三井の問いに、流川がどこか呆然としたような声で、けれどはっきりとそう答えた。
「病院で言われた。治ったときに吐くって」
片手に銀色のユリを持ったまま、流川がゆっくりと近付いてくる。いまだに理解が追い付かないでいる三井は、されるがままに流川の腕の中へと収まり、きつい抱擁を受け入れた。
「治っ――……え?」
「治ったと思う、多分。先輩にキスしたら、治ったみてーっす」
「じゃあお前……」
言いかけて口を噤んだ三井の肩口で、流川のちいさな頭が何度も縦に揺れる。
「先輩だったみたい。……俺の、片思いの相手」
「……うっそだろぉ、おい」
「俺も、びっくりした」
「そりゃするわ、俺もびっくりしてる……」
三井は驚きのあまりほとんど放心状態だった。なにもかもがあまりに怒涛で、突拍子がなくて、現実味もない。
流川の花吐き病が治ったということは、三井の花吐き病も、発症とほぼ同時に治ったということになる。変な気を回してあれこれ思い悩む前に、冗談でもさっさとキスをしておけばよかったわけだ。そう考えるとなんだか気が抜けて、三井は力なく「はは」と笑った。
「……なに笑ってる」
流川がむっとしたように言う。三井は流川の体を抱き締め返し、機嫌を取るように背中をぽんぽんと叩きながら答えた。
「いや、なんつーか……俺の苦悩を返してくれっつー感じで……」
「くのう?」
まるっきり平仮名丸出しで尋ね返され、苦笑がこぼれる。
「あのなあ。俺、これでもけっこー悩んでたんだぜ。もしお前の片思いが成就しねーで、バスケも続けらんねえなんてことになったらって。そう考えたら、見て見ぬふりもできねえだろ」
腕の中で流川の体がびくり震えたのを感じ、三井はぐっと両腕に力を込めて言葉を重ねた。バスケが続けられなくなるかもしれない、という恐怖は、流川も感じていたのだろう。
「それなのにお前は俺んこと邪険にするし。片思いの相手は分かんねーっつうし。打つ手なしだっつーのにお前は日に日に具合悪そうになってくし」
「……すんません」
「ほんとだぜ。そうやって毎日お前のこと考えてるうちに、いつの間にか俺までおかしくなっちまってたってわけ」
責任取れよ、と三井が笑うと、流川は答えの代わりにぐりぐりと頭を擦りつけてきた。ずいぶんと動物じみた愛着の示し方だ。
「……好きっす」
ややあって、流川がぼそっと言う。
「……俺も」
いまにも消え入りそうな小さな声で、三井も答えた。
2023.05.17