酔うとたいていのことがどうでもよくなる。
未練がましく煙草とクスリはやっていないが、酒はいくらでも飲んだ。いまもつまらない賭けに負けてテキーラのショットを呷っている。
後ろに目一杯反らせた首を横から掴まれ、ぬるい舌が顎先を這った。女の声が笑い混じりに「キス、キス」と囃したてる。薄目を開けて相手の顔を見た。キツネのような顔をした優男だ。三井より頭半分ほど背丈が低く、着ているものは上等だが、似合っているとは言い難い。誰だっけ、と正直に言うと「ひどいなあ」と優男が笑う。
「自己紹介したよね?」
「覚えてねえ」
「竜の友達。ケンタって呼んで」
「ふうん」
ケンタ、と言われたとおりに呼んでやると、ケンタは嬉しそうに笑って三井の唇を自分のそれでふさいだ。周囲で歓声があがる。期待に答えて唇を緩めると、ぬるい舌が容赦なく歯の合わせ目をくぐった。
「わ、マジでやったよ」
女の揶揄混じりの声が近くでして、右腕に柔らかい感触が触れた。はだけたシャツの裾から冷えた女の手のひらが這いのぼってくるのをぼんやりと感じながら、着こなしのセンス同様、あまり上等とは言えないキスを甘受する。
「……ね、三井クン。三人でしようよ」
三井の下唇を食みながら、ケンタが息のあがった声で言った。汗ばんだ手のひらが伸びかけの後ろ髪へ潜り、冷えた指が腹筋のくぼみをなぞる。
「男二人?」
「嫌?」
「だって」
ホモみてえ、と笑って、胸元のちいさな頭を撫でた。派手なミックス巻きにされた長い茶髪が指の間を滑る。よく焼かれた小麦色の肌と、黒目勝ちの瞳が印象的な美人。名前は確か、マキとかユキとか、そんな感じだった。
「あたしはいーよ、何人でも」
「俺はヤダよ。だって、突っ込んでねえとき、すっことねーべ」
「大丈夫、教えてあげるよ」
ね、とケンタが言い、絆すようにまた三井の唇を食んだ。はあ、と気のない返事をして、舌を絡める。キスは嫌いじゃない。セックスも別に嫌いではないけれど、とくべつ変わったプレイに精を出すほど好きでもなかった。
「……そういや、竜どこ行った?」
「さあ。帰ったんじゃない?」
そう言われると、そんな気がしてくる。竜の紹介で入った店だったが、その竜も一夜限りの知り合いの紹介で顔を繋いだのだそうで、馴染みというほど親しんだ店ではないらしかった。酒の誘いに、いつもどおり「鉄男もいるの」と尋ねたとき、妙に言葉尻を濁していたので、怪しいなとは思っていたのだ。どおりで、と思ったのが一時間ほど前。こういう乱痴気騒ぎは鉄男の好みじゃない。
高校生――それも、ついこの間まで中学生だったような子供相手にも平気で酒を出すような店だから、もちろん、まともなところじゃなかった。高校一年生にして180センチ近い長身の三井は、普段から年齢よりも年嵩に見られやすいほうではあるが、それでも、髭の剃り跡もない幼げな顔立ちは誤魔化しようがない。そんな三井を平気でフロアへ通し、酒を出し、常連らしい男女に囲ませている。
まあ、あれだ。罠にかかったあわれなウサギ、ってとこか?
と、その程度の思考は働いて、3Pで済めば御の字だな、と他人事のように思った。ショジョソーシツ。赤飯たかねえと。違うか?
「ね、三井クン。いいっしょ? 奥に部屋あんの。ね、行こうよ」
ケンタに腰をとられ、ぐい、と昂りを押し付けられる。そのころには、もう、なるようになれ、という気分になっていた。
この数か月で色々なものを捨てた。未来とか希望とか、真っ当な人生とか。単位とか松葉杖とかギプスとか。ファーストキスも童貞も、一夜限りの名前も知らない誰かにくれてやった。道を踏み外す前に持っていた物はなるべく全部捨ててしまいたくて、それも、なるべくぞんざいに、ぐちゃぐちゃにしてから捨ててしまいたくて、なら今夜はおあつらえむきだな、なんてことを思う。
うん、いいよ。
そう返事をしたその瞬間に、明後日の方向から力任せに腕を引かれた。この手のひらは知っている。
「……鉄男?」
名前を呼ぶと、ち、と鋭く舌打ちをされた。そのまま固く詰まった筋肉の塊に顔からぶつかり、ごつんと頭頂部に拳骨を落とされる。
「いっ……!」
「お前、外の音、聞こえねえのか」
「はあ?」
「裏から出んぞ」
おう、と返事をする間もなく襟もとを掴まれ、引きずられる。鉄男は勝手知ったる様子でフロアを闊歩し、意味深な扉の並ぶ廊下や店構えのわりに薄汚いレストルームを通り過ぎて、非常口と書かれた扉の前で止まった。好みの店ではないが、知った店ではあったようだ。
「下りられるか?」
「え?」
「階段。落ちんじゃねえぞ」
鉄男がドアノブを捻ると、歪んだ鉄の扉がおおげさな音を立てて軋んだ。けたたましいサイレンの音と外の刺すような冷気がいっぺんに三井を襲う。
「――警察?」
「黙ってろ」
分厚い手のひらでばちんと背中を張られ、その勢いのまま外へまろび出た。咄嗟に手すりへ取りすがって下を見れば、非常用の外階段が、ビルの壁へ張り付くように折返しながらずっと続いているのが見える。
ここは六階だ。
どんどん増えるサイレンの音と鉄男の気配に追い立てられながら、無心で階段を下る。地面が近くなるにつれ、重力が増したように体が重くなった。
左の膝が軋む。
靭帯を痛めて手術までしたのに、ろくにリハビリをしなかったせいだ。分かっている。自分で決めた。リハビリはしない。もうしない。このままでも日常生活には支障がないと医者も言っていた。
でも痛い。
止まりたい。
座りたい。
いっそこのまま、真っ逆さまに落っこちてやろうか。
簡単なことだ。闇雲に走り続けることに比べたら、ずっと。
「……ったく、手のかかる」
鉄男が言った。
圧し掛かるようだった鉄男の気配がふっとちいさくなり、湿ったため息が三井の背中に落ちる。三井もとうとう足を止めた。
赤錆の浮いた手すりにもたれかかりながら、伸び放題の前髪をかきあげる。気付けばひどく息があがっていて、肋骨の下あたりがじくじくと痛んだ。鉄男のため息がもうひとつ。分かってるよ、走りゃいいんだろ、そう噛みつこうとしたけれど、乾いた喉からはかすれた呻き声しか出てこなかった。
三つめのため息に、知らず、頬の内側を噛む。そんな三井の後頭部へ、呆れたようなため息がもうひとつと、おおきな手のひらが降ってきた。
「――おら、舌噛むなよ」
え、と聞き返すより先に、腕をとられて肩へ回される。
「いっぺんパクられりゃ、しまいだぜ」
獣の唸り声のような低音が、耳元で言った。
「落ちんなよ」
コイツ今日はずいぶんとよく喋るな、と思いながら、その低音に聞き入った。なかば引きずられるように階段を下りながら、鉄男の固い筋肉のうごめきを感じながら。
落ちるのと下るのと、何が違うんだろう、と思いながら。
■
ガサ入ったんだとよ、と竜が言うと、三井は「鉄男に聞いたよ」とうんざりした顔で眉をあげた。
「お前、ツイてたな」
「……置いて帰ったくせに、よく言うぜ」
「だって、イイ感じだったじゃねえの」
「馬鹿言え。危うくショジョソーシツするとこだったっつの」
三井は顎のラインまで伸びた長い前髪をうざったそうにかきあげながら、数週間前に誰かが置いていった漫画雑誌をめくっている。お気に入りらしいタートルネックの黒いセーターは、ややサイズが小さいのかぴったりと体に張り付いて、その細身のラインを殊更に強調していた。背丈は鉄男と頭ひとつも変わらないのに、並ぶと一回りか二回りは小さく見える。
ショジョソーシツ。
へえ、と笑ってその尖った肩に顎を乗せた。
「処女なんだ?」
「たいてーの男はそうだろ、フツー」
「まあな」
適当に相槌を打って、すぐ横にある顔を眺めた。
何か月か前、確かあれはまだ夏の入り口がようやく見えたくらいの頃だ。鉄男の舎弟を自称する男のひとりが、すっかり不良の溜まり場になっているスナックの空き店舗へ唐突に連れてきた子供が三井だった。
松葉杖をついたスウェット姿の少年は、家出少年にしては小奇麗な身なりをしていて、まあ、ゆすりたかりのいい餌食だな、というような佇まいに見えた。そのくせ財布も携帯も持っていないらしいと男が言い出すので、じゃあなんで連れてきたと尋ねれば「金になりそうじゃん」と、どちらにせよ無事に帰すつもりはないようで、竜はただそれに「よくやるぜ」と答えたきりだった。
そこで泣きも怯えもしなかったのが、ひとつ、面白いなと思った。
いま思えば、あれは単なる破れかぶれのクソ度胸だったのかもしれない。
よく見れば口の端に血がにじんでいて、滑らかな頬が片方だけ赤く腫れあがっていた。むっつりと寄せられた真っ直ぐな眉が唯一男っぽい気色を出しているが、あとの部分にはまだすっかり男に成りきる前の、あいまいな柔らかさを残している。
そこで、鉄男が唐突に口を挟んだのだった。ガキじゃねえか。と、咥え煙草でビールを開けながら。
捜索願なんか出されちゃたまらねえ、捨ててこい。
まるで、捨て犬か捨て猫を拾ってこられた親のような言い草だった。
それに、三井が答えた。
捜索願なんか出さねえよ、誰も。
嘘をつけ、と思った。どこからどう見ても、丁寧に育てられた箱入りのお坊ちゃんだ。けれど、その真っ黒に淀んだ瞳を見るにつけ、どうも、それは真実のように思われた。
鉄男の周りに集まる不良というのは、たいてい、家族や学校という最低限の括りからも弾きだされた、いよいよどうしようもない連中ばかりだった。ちょっとばかり顔を見ないと思ったら、筋モンの世話になっていたり、事故や喧嘩や薬物中毒で野垂れ死んでいたりする。
人間だって動物だ。寄るべき群れがないと生きていけない。
一度群れからはぐれてしまえば、あとは黙って他の生き物の食いものにされるか、他の生き物の死肉を漁って食つなぐかだ。
落ちる時はあっという間なのに、這いあがるのは難しい。
さてこいつはどうなるかな、と柄にもなく興味が湧いた。
そうして、気がつけば「俺が捨ててくるわ」と口にしていた。三井はちょっと拍子抜けしたような顔をして目を瞬き、鉄男は、咥え煙草のまま「そうしてくれ」と面倒そうにふがふが言った。
松葉杖の歩調にあわせてのんびりとした捨て猫道中、興味本位に「寝るとこあんの」と聞いたら「無いから付いてったのに」とあっさりした声で出し抜けにそう返ってきて、竜は、思わず声をあげて笑った。
そっか、無いのか。
うん。
と、短い会話を交わしながら、結局、二人で来た道を折り返したのだった。
そうして、三井はこの溜まり場に居つくようになった。
季節はもう冬の入り口に差し掛かっているけれど、捜索願は出ていないし、親や教師が探し歩いている気配もない。
「ケンタもパクられたらしーぜ」
竜の言葉に、三井が首を捻る。
「誰だっけ?」
「お前のジョジョ狙ってたヤツ」
「ああ」
あいつかあ、と間延びした声が言った。
「あのダセーキツネ目だろ」
その言葉が可笑しくて、三井の肩の上でけらけらと笑った。竜もあれはひどい成金趣味だと思ってはいたが、三井にかかればダセーのひと言らしい。
三井はいつも質のよい服を着ていて、箱入りのお坊っちゃんという竜の第一印象に間違いはないらしかった。すらりとした長身に、誰もが知っているようなブランドものの服をセンスよく身に着けている。そして、飽きたとかサイズアウトしたとか適当な理由をつけて、すぐ二束三文でそのへんの不良連中に売っぱらうのだ。しかも面白いことに、買ったのに一度も袖を通していないという新品の服より、気に入って何度も着たらしい古着のほうが飛ぶように売れる。
三井クンが着てたから。
三井クンが使ってたから。
まるでブルセラだ。
「ケンタのやつ、クスリ回してたんだと」
そう言いながら、漫画雑誌のページをめくる長い指を眺めた。
「へえ」
「危なかったな、お前」
「だから、テメーが置いてったんだろ」
と、三井がため息混じりに言う。
「馬ァ鹿。あんな店で酔うほど飲むほうがワリーんだべ」
「あんな店って?」
「いかにもヤバそーだったろ」
「あーね」
分かっているのかいないのか、気のない返事だ。
三井はどんなところへ連れて行っても物怖じをせず、へんに堂々としているところがあった。そのうえ気が強くて喧嘩っ早く、危険な場所や人間を嗅ぎ分けるつもりもハナっからないらしい。
ここへはじめて連れてこられたときもそうだった。捨て犬だろうと捨て猫だろうと、懐く相手くらい選ぶものなのに、このお坊っちゃんときたらまるでその辺の嗅覚が麻痺しているみたいだった。
あるいは人生を賭けたチキンレースの真っ最中なのかもしれないが、それにしたってよくやるぜ、と呆れ半分に思う。そして、自分はさしずめ、その賭けレースの観客とでもいったところだろうか。無責任に挑戦を煽りたてながら、自分は挑戦者が車ごと真っ逆さまに崖の下へ落ちてゆくのを期待して眺めているだけの、卑怯な観客。
「なあ、三井。お前さ、マジでアイツに掘らせる気だったん?」
興味本位にそう尋ねると、三井はケロリとした顔で「マジマジ」と笑った。
「どーせならもっとイイ男がよかったな、とは思ったけど」
「イイ男って?」
「金持っててぇ、背ェ高くてぇ、トーキョーの大学とか行っててぇ……」
「アホくせー。ダルい女みてぇなこと言うなよ」
「いいだろ、ショジョなんだから」
ショジョねえ、と繰り返す。
「三井さ、ショジョソーシツって漢字で書けっか?」
そう聞くと、三井は考えるそぶりもなく大きな口を開けて笑った。
「書けねえ」
■
溜まり場の古めかしく重いばかりの扉を押すなり、異様な熱気と太い歓声に出迎えられた。
鉄男自身には特段彼らを率いている、というような意識はないのだが、鉄男が顔を出すなり、皆揃って頭を下げる。例外は竜と三井くらいのもので、竜のほうは一番の古馴染みだからだし、三井のほうは彼自身の気質によるものだろう。
「なんの騒ぎだ?」
風に乱れさた髪をざっと後ろに撫でつけながら、カウンターに腰掛ける竜へ尋ねた。
「一対一の賭けダーツ。お前もどうだ?」
「金か?」
「金でもいいし、煙草でも酒でも、何でも構わねえよ」
へえ、とはっきり返事はせず、座面の破れたスツールへ腰を下ろす。フロアではちょうどダーツの勝負がついたところらしく、雄叫びをあげてガッツポーズをする三井の後ろ姿が見えた。
「あーっ、また三井かよォ!」
「悪ィな」
そう言って、似合いもしないニヒルな笑みを唇に浮かべた三井は、戦利品らしい瓶ビールを手に取ってひといきに傾けると、飲み口を咥えたまま千鳥足で振り返った。
「おっ、鉄男じゃん!」
跳ねるような声と、ニイ、と覗く形のよい前歯。
細身のダメージジーンズにオーバーサイズの白いセーターを合せたそのナリはすらりとした長身によく映え、黙っていれば高校一年生だとは思えないほど大人びて見える。けれど、顔じゅうの筋肉を目一杯につかって笑うその表情は、年齢相応よりずっと幼く見えた。
「おう」
自分へ向けられた満面の笑みに、軽く右手をあげて応える。
三井はすでにかなり飲んでいるらしく、こちらへ寄ってくるその足取りはかなり怪しかった。酒に弱い訳ではないようなのだが、飲み方がいっこう上手くならないのだ。飲みはじめれば潰れるまで飲み、吐くか落ちかするまでやめようともしない。
「今日は便所で吐けよ」
「まだヘーキ」
「嘘つけ」
危うく手から滑り落ちるところだった瓶をさらい、取り返されるまえに呷る。
「あっ、返せよ」
不満げに唇を尖らせた三井が、ほとんど鉄男へ寄りかかるようにすぐ隣のスツールへ座った。その薄い肩を竜が景気付けるように叩く。
「いまので十五連勝だぜ」
「マジ?」
「おうよ。もうひと勝負いくか?」
いく、と三井が答えて立ち上がると、遠巻きにしていた男たちから熱のこもった歓喜の声があがった。
「おいおい、真っ直ぐ立てよ」
後ろからそう茶化してやると、三井は長い黒髪を気怠くかきあげながら、下手なウィンクなぞをしてみせる。
「馬ァ鹿、出来てねえっての」
笑ってそう混ぜ返せば、今度は投げキッスまで寄越す始末だ。追い払うようにしっしと手を振り、尻のポケットから煙草を出して一本咥える。お前の相手はこれで終い、という暗黙の合図だ。
鉄男にフラれた三井は、ふん、とひとつつまらなそうに鼻を鳴らすと、ぶすくれたまま「トイレ」と吐き捨て、そのまま奥へと消えていった。
それから、ゆうに二十分は経つ。
「……長ェな。クソか?」
そう言いながら、まさかほんとうに吐いてるんじゃないだろうな、といういらぬ心配が頭を過った。竜が「見に行ってこいよ」などというのを黙殺し、にわかに火の消えたようになったフロアを眺める。
三井は、良くも悪くも人目を惹く子供だった。
騒がしくて図々しくて、馬鹿で甘ったれで、喧嘩も弱い。けれど、ただぽつねんと立っているだけで妙に絵面がいい。そんなちぐはぐなところが不思議と年上の女にウケて、三井がいれば女に困らないと内輪ですぐ評判になった。いわば、女寄せのための置物だ。そんな利点でもなければ、三井のような甘ったれのお坊ちゃんがすんなりと受け入れられるような場所ではない。
それがどういうわけか、いまではすっかり自分自身が主役とばかりに振舞っている。周りも周りで、最近ではそんな三井におもねり、ちやほやと祭りあげる連中まで現れはじめている始末だった。
まったく、不思議なもんだ。
と、内心で首を捻りながら、咥え煙草に火を着ける。
「――おっ、主役のお戻りだぜ」
竜が言った。
ようやく戻ってきた三井は、まるでそうするのが己に課せられた義務なのだとばかりに、自分へ向けられる歓声の中心へ歩いてゆく。
「三井クン、次、俺とね」
「ああ、うん……」
三井は駆け寄ってきた男へ気怠げに応えると、長い前髪をかきあげてよろめくように的の前へ立った。
ダートを取り、位置へ着く。
軽く一呼吸して、足幅をわずかに広げ、肩の力を抜く。
長い前腕を無造作に振り抜き、骨ばった手首を鋭く撓らせる。
言葉にすればたったそれだけの動きだった。それだけ、というのがかえってすごい。正しいフォームなど知らないし、知りようもないが、けれど、きっとそうなのだろうというような説得力のあるうつくしさだった。
数瞬遅れて、ダートの行方を見た。
命中。それも、ど真ん中。ブルズアイだ。
「……上手いもんだな」
思わず溢れた言葉に、竜が喉を鳴らして笑う。
「お陰様で、今夜はボロ儲けさ」
「程々にしろよ」
三井の稼いだ掛け金をハネているらしいあくどい胴元は、ああ、と肩を竦めると、ポケットから出した千円札の束をぱちぱちとめくりながら言った。
「ま、確かにそろそろ潮時だろうな。……見ろよ、あの馬鹿、そろそろおネムの時間だぜ」
言うや否やで、三井のちいさな頭ががくんと項垂れた。それでも声をかけられれば顔をあげ、煽られるままダートを投げる。
構えて、狙いを定め、腕を振り抜く。薄い手のひらがひらめく。
三井は指が長い。まだ成長期が終わらないものらしく、どこもひょろひょろと長くて、骨ばっていて、薄っぺらい。襟元からのぞいた生白い首の付け根に、いまにも肌を突き破ってしまいそうな背骨の尖りがあった。
不意にその生白い首が傾ぎ、伸びた黒髪が頬のうえを滑る。
三井が振り返った。
湿った睫毛が気怠げに瞬く。
「鉄男」
歯並びのよい口元。つんと膨らんだ唇。
似合いもしないニヒルな笑み。
「お前も投げろよ」
「はあ?」
「一発勝負。いいだろ?」
な、と傾げられた首に、知らない男の腕が馴れ馴れしく巻きつく。三井はその重みによろけて何度か足踏みをしたが、男には目線もくれず、もう一度「鉄男」と呼んだ。
「なあ」
酔っ払いの手からダートが投げ渡され、竜の押し殺した笑い声が耳に障る。
「……投げりゃあいいんだろ」
掛け金の代わりに、角が潰れたマルボロの箱をカウンターへ投げた。残った本数からして、百円の価値があるかも怪しい品だ。そもそも三井は煙草を吸わないのだし、負けたところで、どうせまた鉄男の手元へ返ってくるに違いなかった。
半ば自棄のような気分で立ちあがり、位置にもつかずダートを投げた。
三井のようにうつくしくは投げられない。力任せに振りかぶって、叩きつけるように投げた。びぃん、と耳障りな音が鳴る。
的には当たった。
けれど、それだけだった。
「……おい、投げたぞ」
三井。おい、三井。
何度呼んでも返事がない。当然だった。左の膝だけ不格好に伸ばして床に胡坐をかく薄い背中。深く項垂れた首。後ろの竜が声をあげて笑った。
「あーあ。こりゃあ、鉄男の不戦勝だな」
■
鉄男のアパートには物が多い。
そのほとんどがどこかから拾ってきたものだという。テレビも、コンポも、積み上げられたCDの山も、色褪せた古い音楽雑誌も、ソファも、ベッドも、そのうえにかかっているピンク色の毛布さえ拾い物らしい。
鉄男が拾ったということは、誰かが捨てたということだ。
「……起きたか」
かさついた低い声が言った。
しょぼつく目を何度か瞬き、手の甲で擦る。剥き出しの蛍光灯の明かりがどうようもなく目に染みた。窓の外はまだ暗い。
どうも、コートを着たままソファのうえに寝かされていたらしかった。起き抜けに腰が痛むのですぐわかる。失われた座面のかわりに色の合わない座布団が何枚も重ねてあって、おそろしく硬いうえにひどく埃っぽかった。
「俺、吐いた?」
「いいや」
短い否定の言葉とともに、ミネラルウォーターのボトルを投げ渡される。マルボロの煙が鼻先を擽り、顔をあげれば咥え煙草のまま缶ビールのプルタブをあげる横顔があった。
「……それ、俺んじゃねーの」
「覚えてたのか」
「ああ」
グレーの折り畳みテーブルのうえに、マルボロの箱がある。中身はほとんど入っていないようで、横に置かれたアルミの灰皿に、真新しい吸い殻が何本かねじ込まれていた。
灰皿は誰の物ともしれない吸い殻で溢れていた。見るからに銘柄の違うもの。赤い口紅のあとがついたもの。まだたっぷりと吸えそうな長さのもの。逆に、意地汚くフィルターぎりぎりまで燃やされたもの。鉄男の吸い殻はすぐに分かる。フィルターがきつく噛みつぶされて、平たくひしゃげているものだ。
「……不戦勝だと」
「はあ?」
「俺が勝ったんだよ。お前、投げる前に寝ちまっただろ」
鉄男が笑う。
ああそうだっけと頭を掻きながら、歪に膨れたコートのポケットへ手を突っこんだ。ぐしゃぐしゃになった千円札の束と、セブンスターのソフトパック、傷だらけのジッポ、ロレックスのパチモン、板ガム、栓抜き。見事にゴミだらけだ。
「ゴミじゃねーか」
鉄男も同じことを思ったらしい。それがなんだか可笑しくて、栓抜きを明かりにかざしながらふつふつと笑った。
「やるよ、これ」
「いらねーよ。持って帰れ」
「やだ、鉄男が持ってて」
「……まだ酔ってんな」
呆れたようなその声に「酔ってねー」と強がる。鉄男はまた笑って、フレームの上に敷布団を二枚敷いただけのベッドへ腰掛けた。ささくれのひどい人差し指と、真っ直ぐ伸びきらないのだという中指に吸いさしの煙草を挟み、反対の手で缶ビールを傾けている。
ふらつく体を無理矢理起こして、鉄男の前に立った。
タンクトップからのぞく太い二の腕に指を這わせる。部屋は肌寒いくらいなのに、その肌はしっとりと熱を持っていた。
「おい、三井……」
制止の声を聞く前に、その唇を自分のそれで塞いだ。手のひらと同じ、分厚くて、かさついていて、硬い唇だった。鉄男の無精髭が口元の薄い肌にあたり、ひりつくような痛みにかわる。
舌を入れたら噛まれかねないと思ったので、唇だけを懸命に愛撫した。つまらないキスだ。鉄男は黙って座ったまま、手だけを伸ばして煙草をもみ消した。
「三井」
キスの合間に落ちたその声が存外に穏やかだったので、促されるままにそっと唇を離す。
「鉄男」
名前を呼び返すと、深い眼窩にある淡い色の瞳に戸惑いの色が滲んだ。
「――なあ、鉄男。さっき俺がなに賭けてたか、知ってる?」
いいや、と馬鹿正直に否定を返す姿に笑みが漏れる。そのたてがみのような硬い癖毛に指を通し、歪なかたちの頭蓋骨を手のひらで包んだ。
「ショジョ」
「……はあ?」
「俺のショジョ賭けてたの」
そう告げて、鉄男が座る万年床のうえに左膝をついた。安物のベッドフレームが軋んだ音を立てる。そもそもが見るからに安物なのに、それをわざわざ拾ってきて、もう三年も使っているのだという。
鉄男のアパートには物が多い。
そのほとんどがどこかから拾ってきたものだ。ゴミ同然のガラクタが、ゴミ箱のような部屋に雑然と並んでいる。
けれど、鉄男がそれらをいちいち修理して使っていることも知っている。
黒々と油の染みた古い工具で、折れたところを継ぎ、緩んだところを締めて、足りない部分は適当に補いながら、不格好でも使うには困らないよう修理して、時々は口汚く文句を言いながら、使っている。
新しいものを買えばいいのに、と思う。誰かが捨てた古臭い粗大ゴミなんか拾わずに、最新式の真新しいものを買えばいいのに。
だって、いらないから捨てたのだ。
そんなものには価値がないのだから。
「お前……馬鹿だ馬鹿だとは思ってたが、ここまでとはな」
鉄男が唖然とした表情で言う。けれど、そこにあからさまな嫌悪や拒絶の色は無かった。それに身勝手な安堵を覚えながら、破れかぶれに言葉を繋ぐ。
「俺さ、何もかも捨てっちまいてーの」
「……で、童貞の次は処女を、ってか?」
「そう。だって、ンなモン持ってたってしょうがねェだろ?」
「そういうもんかね……」
そう言ってため息をついた唇に、もう一度キスを仕掛けた。硬く分厚い唇を食みながら、重いコートを脱ぎ落とす。手持無沙汰にぶらさがったままの歪な手に自分のそれを重ね、導くようにセーターの裾をくぐらせた。
唇を離すと、鉄男の煙草臭い息が鼻先で香る。
「やり方、知ってんのか」
「竜に聞いた。準備もしてある……途中で、トイレ行ったとき、した」
「……ったく、あの馬鹿」
そう言いながら、かさついた手のひらが胸までのぼってくる。反射的に息を詰めると、鉄男が可笑しそうに鼻を鳴らした。
緊張してるな、と揶揄うように言われ、実際ものすごく緊張していたのだけれど、素直に認めるのは癪だから、わざと厭味ったらしく口角をあげながら「誰が」と返した。その勢いのままインナーごとセーターを脱ぎ捨て、鉄男の太腿へ尻を乗せる。
窓の外を通りがかったトラックが、無神経なクラクションの音をぶわんと轟かせた。
鉄男はもう口を挟まず、三井の好きにさせるつもりのようだった。ならば、と彼のタンクトップへ手を伸ばし、ごつごつとした岩山のような筋肉の隆起に直接触れる。熱かった。筋肉質な鉄男の体はどこも熱くて、硬く、三井がなにをしようとひとつも揺らがないように見えた。
事実、揺らがないのだろう。
だから、こんなガラクタに囲まれながら暮らしていられるんだ。
加速度的に現実感を失っていく頭の片隅で、俺はあとなにをどれだけ捨てたらいいんだろう、と、そんなことをぼんやりと思った。
2020.06.26