談話室にて

 公共の合宿施設にはたいてい談話室と呼ばれる使途不明の空間があって、ホテルのロビーとも学校の空き教室とも違う、独特の雰囲気がある。
 古いカーペットの埃臭い感じとか、知らない街の知らない祭りのポスターとか、妙に座面の緩いソファとか、品揃えの悪い自動販売機とか、目に刺さる真っ白い蛍光灯の明かりとか。感傷も多分に影響しているのだとは思うが、なんとなく、非日常的な気分がそこにはあるような気がするのだ。
 小学生の時分からそれなりにスポーツをやっていて、そのうち県の選抜メンバーなんかに選ばれるようになると、県内の主要な合宿施設はあっと言う間に網羅してしまう。施設名は覚えていなくとも「体育館にブタの絵が描いてるとこ」とか「布団の畳み方にうるさいとこ」とか、そんなやり取りだけで「ああ、あそこか」と分かってしまうほどだ。
 三井にとって、この合宿施設は「談話室にドカベンが全巻置いてるとこ」だった。初めて来たのは小学生の頃で、近所のミニバスチームへ入って、二度目の夏合宿の時のことだ。
「俺は初めてです、ここ。中学まで東京だったんで」
 隣を歩いていた仙道が言う。風呂上がりだから普段天を衝いている硬そうな髪がぜんぶ顔周りにおろされていて、文字通り、まるで別人みたいだった。シャワーを浴びてみるみるしおれていく姿を目の当たりにしていなかったら、どちらさまですっけ、と尋ねてしまいそうなくらい別人だった。
「へえ。ここ朝飯美味えし、アタリだぜ」
 そう返し、談話室の入り口にある黄ばんだ自販機でポカリの缶を二本買った。
「ほれ、俺のおごり」
「え、いーんすか」
 ぱちぱちと垂れ気味の目を瞬く仙道に「いーよ」と片手をあげ、しっし、と野良犬を追い払うように振る。そのままポカリを投げて渡すと、仙道は鉄仮面の代名詞たる流川ともまた一風異なる緩いポーカーフェイスでぺこんと頭を下げた。
「ありがとうございます」
 湘北ではあまり聞く機会に恵まれないその言葉に「おう」と先輩らしく頷き、タバコ臭いソファへ座る。思い出に違わず、古い漫画が乱雑に詰め込まれたマガジンラックと、骨董品のような灰皿付きテーブルがあった。思い出と異なるのは、自分の体の大きさと、一緒にいる男の存在だ。風呂の時間が重なったのでなんとなく連れ立ってここまで歩いてきたのだが、仙道と三井が二人きりで言葉を交わすのは、思えば今日が初めてだった。
「晩飯も美味かったですもんね」
 ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら、仙道も向かいのソファへ座った。よっこいしょ、とじじむさい声をあげ、長い脚を投げ出すように伸ばしている。
 顔も体格もとにかく見栄えのする男だが、こうしていると思いのほか気取ったところがなく、コート上での超然とした印象からすれば、いっそ拍子抜けの感すらあった。バスケをしているときの彼は、単に大人びているというのとも違う、ちょっと立っているステージが違う感じというか、思考回路の繋がり方がまったく人間らしくないというか、そういう印象だったのだ。いまも年齢相応と言うにはややふてぶてしい感じはあるが、桜木や流川の人間離れしたふてぶてしさに慣れた身では腹も立たない。
 まあ、なんだかんだ言ってもいっこ下なんだもんな、コイツ。
 勝手に納得して、ポカリのブルタブをあげる。
「……しっかし、こちとら神奈川選抜様なんだからよ、ホテルとか旅館とか、もっとゴージャスなとこが良かったよな」
 三井が口を尖らせると、仙道は鷹揚に笑いながら「いいじゃないっすか」と言った。
「こういうの、青春って感じで。大きなお風呂とか、二段ベッドとか」
「そうかあ? あのベッド、お前、脚はみ出んじゃねえの?」
「あはは、まあ、狭いっすね、確かに」
 仙道がまた笑って、三井もつられたように頬を緩めた。
 互いにインターハイ予選で死闘を演じた相手ではあるけれど、なんの因果か、今は急ごしらえのチームメイトである。国体のために集められた神奈川県代表の選抜チームで、湘北からは三井、宮城、流川が参加していた。急ごしらえのチームを全国で勝てるチームにするための、強化合宿。今日はその初日だった。
「狭えしうるせえし、寝れる気がしねえよ」
 首にかけていたタオルで濡れた髪を拭いながら、大きなため息をつく。
 高校の二年間をバスケットから離れて過ごした三井にとって、こうした強化合宿はじつに久しぶりのイベントだった。自校のみでの合宿は一度あったが、他校の生徒も集まるような合宿は、中学三年生の頃、都道府県対抗試合の代表メンバーに選ばれて以来だから、ちょうど三年ぶりだ。
「でも、俺たちの部屋はアタリでしょ」
 うんざり顔で天井を仰いだ三井に対し、仙道がのんびりと言った。俺、三井さん、牧さん、清田。と指折り数え、ほら、アタリだ、と笑う。交流を深めるためか、なるべく学校も学年も違う物同士で同室になるよう部屋割が組まれているらしかった。
「どこがアタリだよ。野猿がいんじゃねえか。ハズレだよ、大ハズレ」
「野猿? ――ああ、清田か」
 大仰に顔を顰める三井に、仙道は一瞬きょとんと目を瞬かせて、けれど、すぐに意を得たように口角があがる。
「じゃあ牧さんは、問題児部屋のお目付け役ってことだ」
「……問題児?」
 言われ慣れた単語を聞き慣れない声が言ったので、思わずそう聞き返した。仙道はにっこりと笑んだまま、自分と三井を順番に指差して、いたずらに目を輝かせている。そして、
「俺、三井さん、野猿。問題児軍団」
 ね、と首を傾げて可笑しそうに言った。
「馬鹿、てめー、言いやがったな」
 コンニャロ、と身を乗り出して掴みかかると、キャア、怖いっ、とわざとらしい叫び声があがる。その人を食ったような反応に、三井の眉がきっと吊り上がった。
「降参、降参です」
「……フン」
 わかりゃあいいんだよ、と鼻を鳴らし、どかりと座りなおす。そして、ふと訪れた静寂を埋めるように足を組み替えた。つま先に引っ掛けたスリッパをぱたぱたとゆらし、肘掛けに頬杖をついてあたりを見回す。
 埃臭いカーペット、知らない街の子供会のポスター、沈みすぎるソファ。よくわからないメーカーの自動販売機と、今にも切れそうな蛍光灯。思わず感傷的になってしまうのは、これも一度失った日常のひとつだからだろう。たったの二年間、されど、二度とは取り戻せぬ二年間だ。
 不意に、ずっと昔、ここで演じた大立ち回りのことを思い出した。県内のミニバスチームの合同練習に参加した時のことで、あれは三井がまだ小学校の五年生だった頃の話だ。
「考えごとですか?」
 思いがけず長くなった静寂に、仙道がそっと助け舟を出す。親しくもない他校の先輩相手に気まずげなふうもなく、どこまでも自然体だ。そのスマートな気遣いがこそばゆくて、三井は困ったように眉を下げて笑った。
「ああ、えっと……ちょっとな。ガキの頃のことを思い出してた」
「へえ、聞きたいな。笑える系ですか?」
 いかにも興味津々という様子で仙道が身を乗り出す。先ほどまでの落ち着いた様子とは打って変わって、好奇心にかられた子供の顔だ。つられるように三井もにやりと口角を上げた。
「笑えるかは分かんねーけど、小五のときにさ、藤真とここで取っ組み合いの大喧嘩したんだよ」
「えっ、取っ組み合い!?」
 それはまた、と大袈裟に驚く仙道が可笑しくて、喉の奥でくつくつと笑う。
「そー、取っ組み合い。原因は忘れっちまったんだけどさ、最後には二人とも大泣きしながら監督にぶん殴られて、そこの自販機の横で正座させられたっつーわけ」
 言ってしまってから急に恥ずかしくなって、隠れるように首のタオルを頭に被った。
 藤真、だなんて旧知の友人のような馴れ馴れしさを込めて呼んでしまったけれど、向こうはとっくに忘れているかもしれない昔話だった。青痣ができるほどの大喧嘩も、並んで正座したことも、そのあと結局誰より仲良くなって、合宿のあいだじゅうくっついて離れなかったことも。
 彼とは中学時代もなにくれとなく連絡を取り合っていたが、高校に上がってからはまったくの没交渉だった。だから怪我をしたことは言わなかったし、一度バスケを辞めたことだって、もちろん、言わなかった。
 あの合宿には、確か牧と、それから花形もいたはずだった。もし参加者名簿なんかがあれば、知った名前がほかにもいくつか載っているかもしれない。牧は昔からあの通りの学級委員長タイプで、花形は信じられないことに三井や藤真よりも華奢で小柄な、少女のように可愛らしい子供だった。藤真と一緒に、花子ちゃん花子ちゃんとからかったものだ。
 そんなこと、あっちはこれっぽっちも覚えていないだろうけど。
 顔を伏せた三井の耳に、不意に懐かしい声が聞こえた。
「――バーカ」
 誰が馬鹿だ、と振り返るよりさきに、頭をタオルごともみくちゃにされる。突然の狼藉に、ギャッと間抜けな悲鳴が飛び出た。
「俺ァぜんぶ覚えてるぞ! あれはお前が悪いんだ。俺が買ったポカリが最後の一本だったんで、それ寄越せってお前が横からつっかかってきやがったんだよ」
 ――藤真だった。
 藤真の大きくて薄い手のひらが、乱暴な手付きで三井の頭を揺らす。アイドル然としたお綺麗なツラに似合わぬ大きな手と、がさつな仕草。ちょっと荒っぽい言葉遣い。ああ、そうだ。こいつは昔っからこういうやつだった。
「あれ、藤真さんこれからお風呂ですか」
「おう。多分、牧もすぐ来るぜ」
 言いながら、許可も得ずにどっかりと三井の隣へ腰をおろす。そして、やはりひと言の断りもなく三井のポカリへ手を伸ばすと、当然のようにぐぐっと半分ほど飲んでから、またなんの断りもなく三井の前へと戻した。
 その光景に、そうだ、と膝を打つ。こいつは昔っからこういうやつなのだ。
「――思い出したっ! ありゃあそもそもオメーが先に横入りして来やがったんだろ!?」
「ああ? そうだっけ?」
 そうなのだった。
「都合の悪ィとこだけ忘れてんじゃねーよっ!」
「あっはっは、おっかしい! 藤真さん、ひでー」
 ずっと黙って成り行きを見守っていた仙道が、とうとう声をあげて笑った。
「俺じゃないったら。三井が俺のポカリを横取りしたんだってば」
 と、いまさら可愛らしく頬を膨らませた藤真のうえに、大きな影が差す。
「おいおい、また二人並んで正座したいのか?」
 懐かしい顔がまたひとり増えた。
「――牧」
「遅かったな、牧」
「おう、食堂で監督に捕まっちまってな」
 悪い、と片手をあげて藤真に答える、大人びた笑顔。綺麗に焼けた浅黒い肌と分厚い体躯は、小学生の彼にはなかったものだ。
「随分懐かしい話をしてんな。あれはなんの合宿だったか」
「……小五ん時の夏合宿だろ、合同の」
 照れ隠しに唇を尖らせた三井を、牧の穏やかな瞳が見る。
「ああ、そうだ。確か、帰りにみんなで海に行ったよな?」
「あったなぁ、そんなこと。みんな面倒くさくてショーパンのまんま泳ぐから、柄パンが透けちまってさ。ひでえんだ」
 牧の言葉に、藤真が頷く。
 件の夏合宿は県内の子供たちを集めた校外学習のような側面が強く、バスケットの強化合宿というより、いずれどこかでチームメイトになるかもしれない少年たちの交流会のような場だったのだ。昼間はみっちりとバスケットに励むものの、夜はバーベキューや花火、キャンプファイヤーや肝試しなどの催しがあった年もある。帰りには毎年海へ寄り、皆で海水浴を楽しむのが恒例だった。
「……よくそんなの覚えてんな、オメーら」
 自分もはっきり同じ光景を思い出せるくせに、三井はやはり唇を尖らせてそう憎まれ口を叩いた。小学五年生の牧少年と藤真少年が履いていた、ド派手なトランクスの柄まで思い出せるくせに、だ。牧のはいかにもサーファーっぽいピンクのハイビスカス柄で、藤真のは可愛らしい赤のギンガムチェックだった。
 そんな三井のふてくされた表情を見た牧と藤真が、したり顔で互いの顔を見合わせる。それから二人揃って三井を見ると、藤真だけが意味深に唇を曲げ、ふふんと鼻を鳴らして笑った。
「ああ、ちゃーんと全部覚えてるぜ。寝ぼけたお前が女バスんコーチに向かって『おかーさん、みそ汁おかわり』つったのもな」
「ばっ……! そりゃあオメー、俺じゃなくて谷岡だろうがっ! あのモップみてーな頭の! 富中行った!」
「おーおー、よぉーく覚えてらこと」
 あっ、と思わず声が出た。
 藤真がしてやったりの顔でけらけらと笑う。牧も牧で「素直になれよ」と慈愛の微笑みだ。ああクソ、と悪態をついて顔を擦る。指の間からそっと正面をうかがえば、当時を知らないはずの仙道までニヤニヤと笑っていて、三井の複雑な男心をますます痛めつけた。
「あーあ、三井さん。墓穴ほっちまって」
「コイツ、マジで馬鹿だからさ。ちょろいもんよ」
 満面の笑顔を浮かべた藤間が、三井の肩を力強く叩いた。つくづくポイントガードには嫌な奴ばかりが集まっている。ありゃあ根性曲がりにしか務まらねえポジションなんだ、と、偏見と怨念に満ちた目をした三井に、神奈川代表のポイントガードでは唯一の良心と言ってもいいだろう牧が微笑みかけた。
「……悪いな。俺も藤真も、お前とまたバスケができるってんで、はしゃいでんだ。大目に見ろよ」
 なあ、三井。
 と、良心的な牧の言葉さえも、まあ、三井にとってはほとんど介錯に等しかった。追撃とばかりに藤真の腕がしっかりと肩に回され、仙道はなにか微笑ましいものを見たなという感じの、段ボール箱の中でじゃれあう生まれたての子猫でも見るような顔で笑っている。いよいよ進退窮まって、けれどここで「ありがとう。俺も嬉しいよ、二人とも」などという素直な心持ちは死んでも口にできないのが、三井の三井たる所以である。
「――もう寝るっ……!」
 ぎりぎり、なんとか絞り出すようにそう言ったその顔は、見る方が気の毒になるほど真っ赤に染まっていた。

2020.06.27

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