アパート/鉄三

 その日は台風一過というやつで、前日の大雨から一転、空の青さが目に沁みるほどの快晴だった。
 昼間は死んだように静かなスナック街を抜ければ、時代に取り残されたような古いアパートが立ち並ぶ住宅街がある。それぞれのアパートごとにきちんとなんとか荘という仰々しい名前がついていて、もうすこし気取った名前のついた分譲マンションで育った三井にはなぜだかそれが妙に面白く感じられ、つい無暗にきょろきょろと首を巡らせてしまう。
 そうやって狂ったようなセミの鳴き声を聞きながら細い裏道を歩いていると、近所の小学生が数人、小さな自転車を勢いよく飛ばしてすれ違っていった。その姿を横目で見ながら、道端の野良猫がふてぶてしい大欠伸をかいている。
 そんな光景を眺めながら五分ほど歩いて、やっと目的地へたどり着く。
 三井は道路に垂直になるようにして建てられた木造二階建てのアパートの、二階のベランダからたなびく薄い煙に向かって「おーい」と声をかけた。物干し竿には白いTシャツとタンクトップが群れをなしてぶら下がっていて、その間から、煙の主がぬっと頭を出す。
「……おう」
 人差し指と中指のあいだに煙草を挟んだ分厚い手のひらが、顔の横でちょんと動いた。三井も同じように片手をあげて「鉄男」と煙の主の名前を呼ぶ。
 鉄男の住むアパートは、いまどき全室畳張りの、いかにもらしいぼろアパートだ。行儀よく立ち並んだ玄関扉の郵便受けからは新聞や宅配ピザのチラシ、ガスの検針票や宅急便の不在票なんかが溢れんばかりに顔を出していて、なんとなく、住んでいる人間達のキャラクターが垣間見えるようだった。
 ぎいぎいとうるさく軋む外階段を駆けあがり、宅配ピザのチラシを踏んづけながら短い廊下を進んで突き当り、一番奥にある部屋の扉を、三井はチャイムも押さず我が物顔で開けた。
 鉄男の部屋はいつ訪れても思いのほか片付いていて、いまは家主がベランダに続く窓を開け放っているおかげか、あるいは劣悪な日当たりのせいか、クーラーがない割にはずいぶんと涼しかった。その代わり、相変わらず狂ったように泣き叫ぶセミの声が遮るものもなく部屋中に響いている。
 三井は猫の額ほどの玄関に踵の潰れたスニーカーを脱ぎ捨てると、玄関のすぐ脇にある冷蔵庫からコーラの缶を一本取り、壁際の万年床へ胡坐をかいた。その姿をベランダから見ていた鉄男が、無言で片方の眉をあげる。
 風向きが変わったのか、鉄男の吸っているセブンスターの煙が室内へ流れ込んだ。
 それを「鉄男の匂いだなあ」と思いながら、缶コーラのプルタブをあげる。そのままひと息に半分ほど飲み干せば、外を歩きてきたせいで火照った体が細胞から生き返るようだった。
「明日もあちーんだっけ?」
 三井が尋ねると、鉄男は「さあな」とのんびり言った。灰皿代わりのビール缶に短くなったセブンスターをねじ込みながら、ぐわっと大きな口を開けて欠伸をこぼしている。その眠たげな顔は、まるでさっき見かけた道端の野良猫のようだった。地域の野良猫連中を束ねる、百戦錬磨のボス猫だ。
「なあ、テレビ付けていい?」
「好きにしな」
 鉄男の唸るような低い声がぶっきらぼうに答える。
「あいよ」
 三井はさっそく色褪せたぼろぼろの畳のうえへ四つん這いになって、ちいさな座卓の下に放り出されているリモコンを手繰り寄せた。電源ボタンを押すと、拾い物らしい古びたブラウン管テレビからぶうんと小さな羽音が鳴る。
 ややあって、スピーカーからわあっとおおきな歓声があがった。
「――お、甲子園」
 もうそんな時期か、と三井が呟くと、鉄男もベランダからひょいっと顔を覗かせ「何回だ」と尋ねてくる。
「八回裏、ツーアウトランナー二・三塁」
「何対何」
「五対二」
 そんなやり取りをしているうちに、鉄男も三井の右隣へ腰をおろしていた。タンクトップからのぞく太い二の腕が三井の肩へ触れ、セブンスターの残り香が鼻先をくすぐる。三井も寄りかかるように鉄男へ体を寄せ、調子はずれのサウスポーを聞きながら眠たげな顔を見上げて尋ねた。
「今年ってどこが強えの?」
「さあな」
「いま勝ってる方ってあれだよな、去年優勝したとこだよな」
「かもな」
「負けてる方はわかんねえな。ガッコー名、読めねえし」
「そうだな」
 間の抜けたふたりの会話を切り裂くように、きぃんと甲高い打球音が鳴る。実況のアナウンサーが興奮した様子で「このランナーが返れば一点差です!」と捲し立て、二塁ベース上では、会心の二点タイムリーを放ったバッターが、自軍のベンチへ向けて快哉を叫んでいた。スタンドから拍手が起こり、ブラスバンドによるファンファーレが鳴り響く。
「ありゃ、追いつきそうだな」
 三井の呟きに、鉄男が「ああ」と頷く。しかしマウンド上のピッチャーも思わぬ連打を浴びて兜の緒を締め直したのか、続くバッターは初球の緩い変化球を引っかけてショートゴロに打ち取られた。攻守交代だ。
 観ているほうもほっと息をついたタイミングで、鉄男が火の付いていない煙草を口の端に咥えた。それを隣で見ていた三井が、座卓へ手を伸ばして薄水色の百円ライターを手繰り寄せる。そのまま慣れた手つきでホイールを回せば、鉄男も黙って三井の手元へ顔を寄せた。
 セブンスターの煙の向こうにいる高校球児達が、よく訓練された軍人のように駆け足でベンチに帰ってゆく。続けてしかつめらしい顔をした監督や制服姿の女子マネージャーの姿が映り、かと思えば今度はスタンドで必死にメガホンを叩く控え選手達の姿と、祈るように両手を組む保護者やOBと思しき人々の姿が映った。次は九回表、点差はたったの一点だ。
 三井は使い終わった百円ライターを手持ち無沙汰に弄びながら、飲みかけのコーラに口を付けた。本当なら缶ビールの一本も開けたいところだ。と、そんなことをぼうっと考えているうちにいつの間にかマウンドへあがっていたピッチャーがワインドアップをして、帽子を振り落としながら渾身のストレートを放つ。
「気合入ってんなあ」
 鉄男が返事の代わりにぷかりと煙を吐く。
「ここ抑えりゃ、逆転すっかもな」
 三井がそう言うや否やで、バッターが二球目のストレートを頭上へ打ち上げた。キャッチャーフライだ。続くバッターも初球を打ち損じてピッチャーゴロに倒れ、次のバッターは八球粘ってなんとかセカンドの頭上を越えるセンター前ヒットを放ったものの、その次のバッターがサードゴロに倒れて攻守交代。九回表は無得点に終わり、一点差のまま最終回を迎えた。
 手に汗握る展開だが、八回裏から観はじめたばかりのふたりにとってはまったくの他人事である。
 三井はくわ、と欠伸をこぼし、暑さと眠気でぼうっとする頭を鉄男の肩へ凭せかけた。そのまま片手に持った飲みかけのコーラをちゃぷちゃぷ揺らしていると、危なっかしく思われたのか、鉄男の手がそっとうえから重ねられる。
「まだ飲むって」
 三井の抗議も虚しく、残りのコーラは鉄男の胃の中へ収まってしまった。とはいえべつに本気で取り返したかったわけでもなく、三井は「まあいいけど」と笑いながら言って、鉄男の肩に頬を擦りつけた。
 画面の中では、僅か一点のリードを守らんとするピッチャーが、袖で何度も額の汗を拭いながらキャッチャーのサインに首を振っている。長いサイン交換のあと、やっと投じられた初球は低めに大きく外れ、ホームベースの前でワンバウンドした。バッターはぴくりとも動かない。
「嫌な流れだな」
「ああ。いかにも打たれそうだ」
 鉄男がそう言うなり、スピーカーから鋭い打球音が響き渡った。当たりはいいがピッチャー正面、そう思ったところで不運にもグラブがボールを弾き、その隙にバッターランナーが一塁ベース上を勢いよく駆け抜けていった。ノーアウトランナー一塁。膝に手を付いて肩を落としているピッチャーの背中を、内野手達が励ますように叩く。
「あーあ」
 無責任なため息を漏らした三井の横で、鉄男がふんと鼻を鳴らした。
「勿体ねえな」
「これってピッチャーのエラーになんの?」
「さあな」
 コーラの空き缶のうえでセブンスターの吸い口を弾きながら、鉄男はつまらなそうにもう一つ鼻を鳴らしている。三井は半ば無意識に左の膝を引き寄せ、胸の前にそっと抱えていた。それまで意識の外に追いやられていたセミの鳴き声がなぜだか急に耳について、知らず知らずのうちに眉間へ皺が寄る。
 画面の中のピッチャーが、二人目のバッターへ向かって振りかぶった。バッターがバントの構えを取る。投球はややアウトコースへ逸れたが、バッターも執念で食らいつき、打球は見事に一塁線へ転がった。それをファーストが危なげなく処理し、ワンナウトランナー二塁。同点のランナーが得点圏へ進む。
 三井は鉄男の肩に顔を埋め、すん、と鼻を鳴らしながら息を吸い込んだ。セブンスターの残り香と、いかにも男っぽい汗の匂い。それから僅かにバイクのエンジンオイルの匂い。鉄男の匂いだ。そう思った途端にセミの鳴き声が遠のいて、三井はほっと短く息を吐いた。
「おい、嗅ぐなよ」
 鉄男はくつくつと喉を鳴らしながら笑っている。声が低いせいか、喋るときも笑うときも、鉄男の声にはくるくる、くつくつと喉を鳴らすような音が混じる。まるでご機嫌な猫のようで、三井はことのほかこの響きを気に入っているのだった。
 鉄男の抗議を無視した三井がすんすんと鼻を鳴らしているうちに、試合は大きく動き出したようだ。一際おおきな歓声に驚いて画面を見ると、いつの間にかセカンドランナーは三塁へ進み、バッターランナーが一塁ベースへ滑り込んだところだった。
「すげえ、また打ったの」
「ああ。センター前だ」
「逆転あるじゃん」
「そうだな」
 マウンド上へキャッチャーと内野手が集まり、ベンチからも伝令の選手が飛び出してきた。控え選手だろうに、全身全霊、日焼けした真っ黒い顔に白い歯を光らせながら、全速力で駆け出してくる。
 鉄男がまた口の端に新しい煙草を咥えたので、三井も黙って百円ライターのホイールを擦った。鉄男の顔が三井の手元へ寄せられ、煙草の先がじじ、と燃える。
 煙の向こうの球児達が、仕切り直しとばかりに大きな声で何事かを叫んだ。それからすぐに各々の守備位置へ散っていって、試合再開。ピッチャー振りかぶって投げ、バッター見送ってワンストライク。ピッチャーひとつ外してワンストライクワンボール。次は高めのインコースをバッターがカットしてファウル、ツーストライクワンボール。最後は落ちる球を空振りして、バッターアウト。
 マウンド上のピッチャーが、グラブを叩きながら吠える。
 これでツーアウト、次のバッターを抑えればゲームセットである。だが得点圏にランナーをふたり置いて、長打が出ればサヨナラも十分にあり得る場面だ。
「甲子園って延長あるよな?」
「あるんじゃねえか」
 三井の疑問に、鉄男がぷかりと煙を吐きながら答える。
 両チームの命運を握るバッターが、ヘルメットを押さえて一礼しながらバッターボックスへ入った。緊迫感を煽るように、ピッチャーとバッターの顔が交互にズームアップされる。ピッチャー構えて振りかぶり、初球。
 気合がから回ったのか、バットが勢いよく空を切った。
「……あー、かかってんなァ」
 三井が呟くと、鉄男がくつくつと肩を揺らして笑う。
「そりゃあ、かかるだろ」
「こういうときこそリラックスだぜ、リラックス」
「出来るもんかね、こんな場面で」
 鉄男がため息まじりに言う。しかし三井は首を振って「出来るさ」と答えた。
 まるで三井の言葉が通じたかのように、バッターボックスの中の選手が大きく肩を上下させた。ふうっと強く息を吐いて、ずれたヘルメットを直す。バットの先で軽くベースに触れ、構える。ピッチャー振りかぶり、バッターの足があがる。
 きぃん、と澄んだ音が鳴り響き、遅れて、わっと観客がどよめく。
 しかし、そのどよめきはすぐにため息へと変わった。レフト方向、すわホームランかと思うほど高くあがった打球だったが、追いかける野手の足は既に止まっている。サードとレフトが揃って空を見上げ、レフトがオーライの声をあげた。
 そして。
「――あっ」
 画面の前の三井すら一瞬、時が止まったと思った。観客が再びどよめき、その場の誰よりもはやく我に返ったサードランナーコーチャーが千切れんばかりに腕を回す。レフトフライかと思われた打球は外野の芝生のうえを点々と転がっていて、まずは同点のサードランナーが生還。カバーに入っていたセンターが捕球してバックホームするも、セカンドランナーはすでに三塁を回ったところだった。送球は高く逸れ、マスクを脱ぎ捨てたキャッチャーが跳びあがる。ランナーは全力疾走の勢いのままホームへ滑り込み、ベンチから歓喜の輪が押し寄せる。
 サヨナラタイムリーエラー。
 生還したランナーふたりが雄叫びをあげながら抱き合う後ろに、ホームベースの前で呆然と立ち尽くしているキャッチャーと、マウントへ崩れ落ちるピッチャーの姿が映った。
「……あーあ」
 やはり甲子園には魔物が棲んでいます――三井がこぼしたため息に被せるように、実況のアナウンサーがしみじみと言う。負けたほうの高校はやはり前年度の優勝校だったようで、投げていたピッチャーはプロ注目の有望株。対する相手は地方の公立高校で、これといった注目選手もいないようだ。
「わかんねえもんだな」
 鉄男も鼻から煙を吹きながらしみじみと言った。片や歓喜の、片や失意の涙を流しながら、肩を震わせてしゃくりあげる選手達。それでも互いに肩を貸し合いながら整列をして、ゲームセット。試合の終了を告げるサイレンが鳴り響く。
「甲子園の魔物かあ」
 三井もしみじみと言った。
 ――諦めたらそこで試合終了ですよ。
 懐かしい声が、不意に耳の奥へ蘇る。しかし三井は、だからなんだ、と胸の内で吐き捨て、鉄男の肩へ頬を擦りつけた。諦めようが諦めまいが、下馬評がどうであろうが、負ける時は負ける。現実はいつだって残酷で、漫画やゲームのようにうまくはいかないものだ。
「……なあ」
 三井が甘えた声で呼びかけると、鉄男はなにも言わずに短くなったセブンスターを揉み消した。テレビのスピーカーからは勝利校の校歌が流れてくる。
 癖の強い長髪を鼻先でかき分けながら、鉄男の頬へ唇を寄せた。するとすぐにセブンスター味の苦い唇が三井のそれを塞ぎ、三井はされるがまま、すべてを鉄男のしたいようにさせた。多分鉄男も、三井のされたいようにしてくれているのだと思う。がさがさとした分厚い手のひらに頬を包まれ、汗で湿った長髪をかき回され。最後には万年床へ押し倒されて、三井の両腕が鉄男の裸の肩へ絡む。
 いつの間にかセミの声も球児達の歌声も聞こえなくなって、三井はやっと、心の底から穏やかな気持ちで細く長い息をゆっくりと吐いた。

「海行きてえ」
 汗みずくの体を万年床へ腹ばいに放ったまま言うと、同じように隣へ寝転がっていた鉄男が「いまからか」と億劫そうに答えた。けれどその声には相変わらずご機嫌な猫のような響きがあって、だから三井は、いつだって臆面もなく彼へ甘えられるのである。
「まだ明るいじゃん」
「そりゃあ、いまはな」
「浜辺でキャッチボールしてえなって」
「……その辺の公園でいいだろうが」
 ノーという返事の代わりの重たいため息が万年床へ落ちる。けれど鉄男はため息を吐き終わる前にのっそりと起き上がり、裸のまま枕元にあるセブンスターのソフトパックを引き寄せると、とんとんと底を叩いて事後の一本を口の端に咥えた。
 これは、お前の与太話に付き合ってやらんでもないという合図だ。
 だから三井ももぞもぞと這いずって畳のうえの百円ライターを拾い、緩慢なてつきでホイールを擦った。胡坐をかいていた鉄男は窮屈そうに背中を丸めて火を貰い、旨そうに煙を肺へ入れてから「元気だな、お前」と呆れたように言う。
「なんか急に、夏、って感じのことしたくなってさ」
「それで海か」
 短絡的だな、と言わんばかりの、ため息まじりの声。ふーっと勢いよく吐き出された煙が三井の後頭部をもうもうと燻す。
「なんか知んねーけどグラブあったじゃん、誰かが置いてったやつ」
 三井が振り返って尋ねると、鉄男は記憶を辿るように斜め上を見上げ、ばりばりと頭を掻いた。
「あー……。捨ててなきゃ、まだあるかもしれねえが」
 煙草を挟んだ右手が、ひょいと押し入れを示す。三井は腕立て伏せの延長でぽんと跳ねあがると、そのまま立ちあがってさっそく押し入れを覗き込んだ。そんな三井の背中に「元気すぎんのも考えもんだ」という鉄男のぼやきがちくちく刺さる。
 押し入れの中はやはり部屋と同様に思いのほか片付いていて、けれど他人が触れるのに躊躇うほど片付きすぎているということもなく、なんというか、いつ来ても、いつ見ても丁度良いのだった。狭い空間の中に突っ張り棒やカラーボックスなんかが上手いこと置かれていて、年季の入った革ジャンやバイク用品がそれなりに工夫を凝らして片付けられている。そんな押し入れの片隅には不用品や持ち主不明の忘れ物なんかが一緒くたに詰め込まれている段ボール箱があって、その箱を見るたび三井は、いつも不思議と郷愁に似た親近感を覚えるのだった。
 裸の上半身を押し入れの上段へ突っ込んでごそごそやっていると、グラブはやはり、件の段ボール箱の中に丁度ふたつ、乱雑に突っ込まれていた。お誂え向きにボールもあって、なんなら金属バットまである。
「あった!」
 三井が喜色満面に振り返ると、鉄男はぷかりと煙を吐きながら「そりゃよかったな」と肩を竦めて言った。
「なあ、キャッチボールだけでもやろうぜ」
「それよりまずお前、服を着ろよ」
「そうだな」
 鉄男のもっともな指摘に歯を見せて笑い、グラブを足元へ放り出してくしゃくしゃのTシャツを被る。そのまま同じようにくしゃくしゃのパンツを履き、まだ裸のままの鉄男の膝のうえへ跨って、煙草に塞がれているのとは反対側の口角へ唇を寄せた。
「……言ってることとやってることが違ェんじゃねえのか」
 鉄男がくつくつと喉を鳴らして笑う。三井はくんと鼻を鳴らして息を吸い込み、鉄男の癖毛へ頬を寄せながら答えた。
「だってさ、なんか、雨の匂いしねえ?」
「そうか?」
「煙草で鼻が馬鹿になってんだよ」
 首を傾げる鉄男に笑いながらそう返して、もう一度くんと鼻を鳴らす。開いたままの窓から吹き込む風はふたりが寝床へ入る前よりもやや湿っていて、雨がやってくる直前にだけ薫るあの独特の匂いを孕んでいた。それを「夏の匂いだなあ」と思いながら、胸いっぱいに鉄男の匂いを吸い込む。
「こら、嗅ぐなって」
 鉄男が笑う。三井も笑いながらわざとらしくたっぷりと息を吸い込み、つむじにキスをしてから「よっこいしょ」とのんびり立ちあがった。ベランダに洗濯物が干されているのを思い出したのだ。
 下も履けよ、と鉄男が呆れたように言うのを黙殺してタンクトップの群れを回収していると、やはり、途中で大きな雨粒がぽつぽつと三井の頬を打った。夕立にはまだ少しはやいような気がして時刻を確かめれば丁度四時を過ぎたところで、そら海は無理だわ、とついさっき自分で言った馬鹿な我儘が可笑しくなる。夜の海もそれはそれで乙なものだが、キャッチボールには向かないだろう。
 それほど多くはない洗濯物を取り込み終わったタイミングで、大量の雨粒がざあっと一斉にアスファルトを打ちはじめた。
「……ほんとに降ってきやがった」
 鉄男が感心したように言う。三井は唇を曲げて得意げに笑った。
「な? するだろ、雨の匂い」
「ああ。……そうだな」
「なんかいいよな、この匂い。俺けっこー好き」
 そう呟きながら再び鉄男の膝のうえへ戻って、もっと好きな匂いのする癖毛へ鼻先を埋める。点けっぱなしだったテレビからは、相変わらず調子はずれのサウスポーが流れていた。畳のうえには使い古されたグラブがふたつ転がっていて、外ではセミの鳴き声の代わりにざあざあと雨の音が鳴っている。
 雨の音は好きだ。
 梅雨時のしとしととした雨は嫌いだが、夏にざあざあと降る豪快な雨は嫌いじゃない。ざあざあと大粒の雨が屋根や窓を叩く音を聞いていると、不思議なほど頭の中が空っぽになる。過去も未来も、いいことも嫌なことも何もかもが全部空っぽになって、いまここにあるものだけに集中できる。
「……俺達も二回戦、する?」
 三井が笑み混じりに言うと、鉄男はふんと鼻を鳴らして「ジジ臭ェこと言うな」と応え、Tシャツの襟からのぞく三井の鎖骨を仕置きのように軽く噛んだ。
 鉄男の分厚い唇は手のひらと同じようにがさがさとしていて、肌の薄いところへ手荒く擦りつけられるとひりひり痛む。けれどそれさえも「鉄男の感触だなあ」と思うのだから、まるで末期の依存症患者のようだった。
 鉄男のかさついた手が三井のTシャツをめくり、汗で湿った背中をゆっくりと撫でる。その感触に集中していると、まるで自分がほんとうに空っぽになってしまったみたいな気分になった。頭のてっぺんから爪先まで空っぽになって、そのまっさらな空洞に、いまここにあるものだけを、いまの自分が欲しいものだけをぎゅうぎゅうに詰め込むのだ。
 ざあざあと雨粒が屋根を打つ音。水を吸ったアスファルトの匂いと、セブンスターの苦い残り香。ふたり分の汗の匂い。三井は胸いっぱいに夏と鉄男の匂いを吸い込みながら、熱を帯びはじめた下半身を鉄男のそれにゆるゆると擦りつけた。
「なんだ、お前も発情期か」
 鉄男がくつくつと笑う。この辺りはやけに野良猫が多く、いまの時期は夜になるとほんとうにうるさいのだ。きっと、近所の誰かが餌付けでもしているのだろう。
 三井はわざとらしく「にゃあ」とおどけ、鉄男の頬をべろりと舐めた。よせよ、と笑み混じりに言う低い声が耳に心地いい。
「しょっぱい」
「だろうな」
「そしたら俺もしょっぱいな、たぶん」
「どうだかな」
 今度は鉄男の舌が三井の首筋をべろりと舐めた。味の感想は聞けないまま、本日二度目の万年床へ押し倒される。んっ、と思わず短い嬌声が漏れたけれど、三井の小さな声は雨音にかき消されてどこへも届かなかった。

 翌朝、鉄男は結局バイクの後ろに三井を乗せて、海へ連れていってくれた。
 羨ましくなるくらい分厚い鉄男の体にしがみつきながら、雨上がりの匂いのする潮風に髪を靡かせる。昨日嗅いだのとはまた違う種類の夏の匂いだ。そんなことを考えているうちに目的地が近づいてきて、絶え間なく下腹を震わせていたエンジンの唸りがゆっくりとしぼんでゆく。
 目的地へ着くまですっかり忘れていたが、世間はいま、夏休みである。
 三井は家族連れでごった返す海を眺めながら、他人事のように「夏だなあ」と思った。夏といえば夏休み、夏休みといえば海だ。子供の頃は三井だって父親の運転する車に乗せられて来たし、ミニバスの友人たちと自転車を漕いで来たこともある。あの頃はちょっとした大冒険にも感じる遠出だったが、いまとなっては暇に飽かせた思い付きで、すぐに足を延ばせる程度の場所だ。
「……どうする」
 鉄男がため息まじりに言った。三井もグラブの入ったナップサックを背負いなおしながら肩を竦める。海水浴場ではない穴場の砂浜を梯子してみてもいいが、この様子ではどこも同じような思考回路の人々で賑わっているだろう。
「どうしようなあ」
「キャッチボールは無理だぜ」
「そうだな」
 駐車場でバイクに跨ったまま、ふたりはしばらくただ海を眺めていた。無駄足を踏まされたにもかかわらず、鉄男はとくに怒った様子もない。きん、と音を立ててジッポの蓋を開けては閉め、いつの間にか咥えていたセブンスターをのんびりとふかしている。
「ラーメンでも食って帰る?」
 三井の提案に、鉄男が首を振った。
「この様子じゃ、どこも混んでるだろ」
「それもそうか」
「混んでねえとこ探すか?」
「うん。……でもまあ、どこでもいいよ」
 セブンスターの副流煙を嗅ぎながら、三井はからりと笑った。鉄男もくつくつと喉を鳴らして笑っている。
「海じゃなくてもか」
「うん」
 鉄男の肩に頬を乗せ、ぼんやりと海を眺めながら頷いた。時折強く吹く潮風に長い髪を攫われ、攫われた髪がぱたぱたと鉄男の背中や首筋を叩く。駐車場を通る家族連れやカップル達が時折怪訝そうな顔でふたりを見たけれど、三井も鉄男も、これといって何を言うでもするでもなく黙っていた。
「……帰るか」
 鉄男が言った。
「うん」
 三井も鉄男の肩に頬を乗せたまま頷く。足元へセブンスターの吸い殻が転がり、ぶわんと大きくひとつマフラーが鳴って、三井は鉄男の下腹へ両腕を回した。
 ぶわんぶわんと大きな音を立てながら、鉄男の愛車がゆっくりと走り出す。
 すん、と鼻を鳴らすと、潮風の匂いよりもエンジンの排気の匂いが鼻について、三井はすこしだけ咽た。とはいえ、嫌いな匂いではない。
 段々と遠ざかってゆく喧噪に背を向け、鉄男のバイクがびゅうびゅうと風を切る。鉄男にくっついてその音を聞いていると、まるで、自分と鉄男とがひとつの塊になったような気分になった。
 このままほんとうにひとつになって、そのままどこへでも行ってくれたらいいのに。
 それはどこまでも甘美な幻想だったけれど、このままあのぼろアパートへ帰って、何をするでもなくまたふたりで甲子園を観るのでもよかった。調子はずれのサウスポーを聞きながら、鉄男の部屋で、鉄男の匂いに包まれて。空っぽの体に、欲しいものだけを詰め込んで。
 それだって、いまの三井には十分すぎるほど甘美な幻想に違いなかった。

2023.06.20