Daydream Believer/流三

 ぴぴぴ、とスマートフォンのアラームが鳴り、夢現の狭間を漂いながら腕を伸ばす。
 目をつむったまま特注のおおきな枕をばふばふと叩き、枕元へ置いたはずのスマートフォンを探した。けれど、どれだけ手を彷徨わせても目的の物にはたどり着けない。
 そうしているうちにアラームが鳴りやみ、はやいな、と思いながら眠い目を擦る。けれど脳裏に浮かんだ違和感はすぐに霧散し、くわ、とあくびをこぼしてアッパーシーツを手繰り寄せると、流川は本能のままに寝返りをうった。あと五分――いや、十分。そうやって時間通りに起きられたためしはないが、二度寝、三度寝と続くこの朝のまどろみほど気持ちのいいものはない。
 ううんと唸りながら丸めていた足を伸ばすと、裸のふくらはぎが温まったシーツと擦れあった。あれ、と、流川の頭にまた違和感が過る。一昨年までのシーズンを過ごした西海岸とは異なり、東海岸の朝は肌寒い。休日はなるべくパジャマのまま過ごしたい派の流川に裸で眠る習慣はなく、この時期、普段ならば上下長袖のスウェットを着て眠っているはずだった。
 なんで裸、とさすがに頭へ疑問符が浮かんだ。かろうじて下着だけは身につけているが、下半身のみならず、上半身も裸である。流川はとうとう重い瞼をぱちりと持ち上げた。そして、勢いよくがばりと体を跳ね起こす。
「――おはよーさん」
 はっとして声の主を見ると、そこにはすでに外出着姿の恋人の姿があった。うえに着ているナイキのパーカーは、流川の物だ。骨格の雰囲気と身体の厚みが違うので、自分で着たときよりもややオーバーサイズ気味に見える。
「お、はよーございます……」
 現状をはっきり認識した途端、心臓がばくばくと早鐘を打ち始めた。起きてすぐに誰かと朝の挨拶を交わすこと自体が久々で、びっくりするほどしゃがれた声がでる。回らない舌でたどたどしく挨拶を返すと、腕を枕に、まるで子供と添い寝をするような格好で寝転がっていた恋人――三井が、悪戯小僧のように口角を吊り上げて笑っていた。
「お前、いまめちゃくちゃ寝ぼけてたろ」
 三井の言う通り、流川は完璧に寝ぼけていた。いつものように一人きりのつもりで目が覚め、昨晩の営みのこともすっかり忘れて寝ぼけた頭に疑問符を浮かべていた。いまだってある意味では夢見心地で、頬のひとつもつねりたい気分だ。
「……うす」
 頷きながら、急に込み上げてきた幸福感を奥歯でしっかりと噛みしめる。
 なんといっても、三井が自分の家にいるのだ。流川が誘い、チケットの手配をして、空港への出迎えにも行った。道すがらに流川の車で市内を観光し、アメリカらしい大型スーパーを冷やかして、夜。家へ着くなりふたりでシャワーを浴び、時差ぼけの三井をベッドに引きずり込んで、そのままたっぷりと愛し合った。いつも以上に寝ぼけていたのも裸で目覚めたのも、いわゆる寝落ちというやつをしたせいだった。
 流川はアメリカでプロバスケットボール選手をしていて、三井は日本で高校教師をしている。遠距離恋愛だ。そのうえ身分違いの恋、だなんて、三井がそんな冗談を言うこともあった。他のチームメイトが女優だの歌手だのスーパーモデルだのとゴシップ誌を賑わせていることを考えれば、さしもの流川でも彼の言わんとすることは分かる。だから何だ、とも思うが。
「朝飯できてるぜ」
 寝転がったままそう言った三井へ、返事の代わりに覆いかぶさり、キスを贈る。日本の週刊誌記者以上に無法でしつこいパパラッチ共も、さすがに家の中にまでは入ってこない。
「いつ見ても芸術的だな、お前の寝ぐせ」
 三井も慣れた調子で両腕を流川の首へ回すと、指先で後頭部の髪をつまみながら楽しそうに笑っている。流川は知らんぷりで三井の腰を抱えあげ、そのまま立ちあがってベッドから下りた。そこでもう一度キスを、と目論んだところでぺちんと頭を叩かれ、クローゼットを指差される。
「着替えが先」
「……うす」
「ちゃんと服着て顔洗ってからこいよ」
 その言葉に渋々顔で頷くと、三井は満足げに「よし」と頷き、自分ばかりさっさと寝室を出て行ってしまった。その背中を目で追いながら適当な外出着に着替える。枕のうえでスマートフォンの通知ランプが光っていたけれど、見て見ぬふりをしてポケットへ捻じ込んだ。そのまま言いつけどおりにバスルームへ向かって顔だけ洗い、寝ぐせ頭はそのままに急いでダイニングルームの扉を開ける。
 ダイニングテーブルのうえには、三井が言った通り、すでに準備が整えられた朝食が並んでいた。とは言え朝はお互いあまり食べるほうではないから、並んでいるのは簡単な物ばかりだ。トースト、ゆで卵、ヨーグルトにカットフルーツ。山盛りのサラダとコーヒーに、ここだけちょっと場違いな豆腐の味噌汁。簡単だが、それなりに手は込んでいる。
「すんません、いただきます」
 席につきながら言うと、三井も「さっさと食え」と笑いながら向かいの席に座った。三井の席には流川の半分程度の量しか用意されていない。
「足りるっすか、それ」
 流川はさっそく頬袋を膨らませながらそう尋ねた。
「足りるし、なんならいつもより豪華だぜ。これ以上食ったら動けねえよ」
「だから細い」
「細くねーって。去年より二キロ増えた」
「筋肉でしょ」
「そうだといいがな」
「アンタはほっとくとすぐ痩せる」
 そう言ってゆで卵を一個分け与えると、三井は少し照れ臭そうに笑って「そういえば」と話題を変えた。
「何度見てもすげーよな、アメリカの牛乳」
「なにが」
「冷蔵庫の中のアレ。言われねーと洗剤にしか見えねえって」
 ああ、と流川も頷く。もう慣れたが、はじめて見たときは確かに驚いたものだ。見た目は業務用の洗剤でも入っていそうな素っ気のないプラスチックボトルだし、単位はリットルではなくガロンだし、種類もやたらにたくさんあるしで、はじめは目当ての物を購入するだけで一苦労だった。
「ジュースはもっとすごい、色が」
「やべーよなあれ。さすがに飲む気しねーっつーか、美味いの?」
「またスーパー行く?」
 流川が尋ねると、三井は苦笑交じりに首を振った。
「いいよ。今日は普通にゆっくりしたい」
「家で?」
「軽いトレーニングくらいなら付き合うけど」
 ちょうどオフシーズン休暇に入ったばかりで、強度の高いトレーニングをする予定はない。するとすれば日課のランニングと、軽いマシントレーニング程度だ。
「ランとジムトレ。休みだし、午前中でやめるけど」
「いいな。俺も最近、毎朝走るようにしててさ」
「ダイエット?」
 流川はむっと眉を顰めた。三井は体質的に脂肪がつきづらく、胃腸もあまり強くないため、太ろうと思っても太ることができないタイプだ。痩せ過ぎも、太り過ぎと同じくらい健康に悪い。
 三井もそんな流川の心配を察したようだった。眉をさげ、困ったように笑っている。
「ちげーよ。ガキ共の朝トレに付き合ってんの」
「へえ」
「最近は高校生レベルでもちゃんとトレーニングしなきゃ勝てねーのよ。他所の部と合同だけどなんとかマシンも入れてもらって、食事指導とかもしててさ」
 なるほど、と頷いて、味噌汁をすする。
 三井はいま、念願かなって母校である湘北高校の教員として働いている。教科はまさかの英語で、スピーキングは流石にアメリカ在住の流川に軍配があがるが、ライティングについては三井のほうが優秀なくらいだった。
 湘北高校バスケットボール部は、いまやその名を知らぬもののいない名門である。
 公立高校ゆえに設備や規模では私立のマンモス校に劣るが、NBAプレイヤーを三人も――流川と宮城リョータ、それから桜木花道だ――輩出したという輝かしい実績がある。いまは教員である三井とて、大学在学中に膝の怪我が再発するまではプロ入り確実と将来を嘱望された選手だった。その三井が高齢の安西からバスケ部の顧問を引き継いだと聞いたとき、当時の仲間達は口々に「アンタが先生なんて」と腐したが、内心、これほど嬉しい報せもないと飛びあがるほど喜んだものだ。
「今年、勝てそうっすか?」
 流川の問いに、三井がにやりとほくそ笑む。
「ったりめーだ。この俺様が教えてんだぜ?」
「ミッチー先生」
「言うな馬鹿」
 上機嫌にほくそ笑んでいた顔が、途端に不機嫌そうなしかめ面に変わる。
 ミッチー先生、というのは、学校での三井のあだ名だった。いまだ三井と付き合いのあるらしい桜木軍団が練習を冷やかしに訪れた折、ふざけてそう呼んだのを生徒に聞かれたらしい。部活動の教え子たちは流石に三井先生と呼ぶそうだが、女子高生ほど恐れを知らない生き物はいない。
「俺ァいつまでミッチーを引きずって生きなきゃなんねーんだよ」
「どあほうに言え」
「言ったところで覚えてねえんだ、あの馬鹿は」
 コーヒーの入ったマグカップに口を付けながら、三井が呆れたように笑った。不機嫌そうだったのはポーズで、それくらいのことは流川にも分かる。
「……そういえば、こないだの動画」
 流川も食後のコーヒーに取りかかりながら、ふと思い出したことを尋ねた。少し前に三井からある少年の練習風景が動画で送られてきたことがあったのだが、特にアドバイスを求められたわけでもなく、なにこれ、とだけ返信して、それっきりだった。
「体デケーし、高校生にしては上手かったっす。あれ、一年?」
 ああ、と三井が頷く。自分のことのように自慢げな顔だ。
「中学時代から目ェかけてたんだ。デカくて、走れて、勉強はからっきしだがバスケ脳はある。死ぬほど負けず嫌いで、死ぬほど練習する。いい選手だろ。――そんかわり、すげえ生意気だけどな」
 誰かさんみたいに。と、そう付け加えてから、三井は優しく微笑んだ。反対に、流川はむっと唇を引き結んで顔を顰める。
「……俺のほうが上手い」
「そりゃそうだろ。なに張り合ってんだよ」
 三井は呆れたようにぷっと吹き出して、空いた皿を手に立ちあがった。キッチンへ向かうその背中を追いかけ、流川も立ち上がる。シンクの前に立って洗い物をはじめた三井に後ろから抱きつき、肩口に顔を埋めて「俺のほうが上手い」ともう一度言った。
「なに、妬いてんの?」
「……妬いてる」
「はは、正直者め」
 よしよし、と子供をあやすように声をかけられながら、三井の肩にぐりぐりと顔を擦りつける。高校生相手に大人げないのは承知の上だが、しかし、油断は禁物だ。死ぬほど負けず嫌いの流川は、相手が高校生だろうと小学生だろうと、勝負となれば決して容赦はしない。
「だって、俺に似てるんでしょ」
「似てるよ。……プレーだけじゃなく、顔もなんとなく似てっかもなあ」
 三井も三井で、挑発するようにそんなことを言う。
「全然似てねー」
「お前のほうがカッコイイって?」
「当然」
「そのひでー寝ぐせを直してから言えよ、そういうのは」
 うす、と頷きながら、けれど三井からは離れなかった。皿洗いのフェーズがすすぎに移ったことを確認して、パーカーの下にそっと手を差し込む。
「こら、馬鹿。こんなとこで盛んなって」
 三井が慌てて水を止め、濡れた手を持て余しながら流川を制止した。自分から挑発したくせ、案外潔癖なところのある三井は、ベッド以外での行為をことさら恥ずかしがるのだ。
「好きっす。俺にはずっと、アンタだけだ」
「……わあってるよ」
「センパイは?」
 ずるいやり方と分かっていて、耳元で囁く。三井はさっと頬を赤らめると、抵抗を諦め、苦笑交じりに答えた。
「俺もだよ。――じゃなきゃ仕事休んでこんなとこまでこねーだろ、十三時間もかかんだぞ」
 お互い学生時代よりずいぶん素直になり、意地の張り合いでくだらない喧嘩をすることもなくなった。さすがの流川も昔ほど喧嘩っ早くないし、三井も昔ほどの意地っ張りではない。
 抱き締めた三井の体を反転させ、シンクへ寄りかからせると、改めて正面から抱きしめ直した。流川の持ち物であるパーカーを雑にたくしあげ、現役を退いてなお引き締まった腹筋に手のひらを這わせる。
「くすぐった、い……っ、んっ」
「我慢して」
「あっ、待って、待てってば」
 待てない、と流川が唇を塞げば、三井も諦めて流川の背中に両手を回した。唇同士を擦りあわせ、舌を絡め合う。ふたり分の体重を預けられたシンクが、抗議をするようにぎいと軋んだ。
 三井の腹筋を撫でていた手を胸元へ伸ばし、敏感な突起へ触れる。ん、と三井が鼻にかかった声で控えめに喘ぐのを聞きながら、焦る気持ちを抑えてベルトへ手をかけた、その瞬間だった。
「――ちっ」
 ポケットへ入れていた流川のスマートフォンから着信音が鳴り響き、三井の体が驚きにびくんと大きく震える。無視しようか、と一瞬だけ逡巡したのを三井に視線で咎められ、流川は渋々スマートフォンを引っ張り出すと、大人しく通話のアイコンをスライドした。
『――ハイ、ルカワ。休暇中のところ悪いね』
 最悪のタイミングで電話をかけてきたのは、長年流川の契約関係の仕事を任せている代理人だった。アメリカ留学を決めた時から今までずっと世話になっていて、チームとの折衝のみならず、スポンサーやメディア関連の戦略なども担ってくれている、頭の上がらない相手である。
 用件は、簡単な近況の確認と、いくつか届いている取材依頼についての報告だった。朝無視した通知は、彼とのグループチャットの新着メッセージを報せるものだったらしい。悪いことをしたな、と思いながら相槌を打っていると、シンクに押し倒された格好のまま通話を聞いていた三井が感動した様子でぼそりと言った。
「流川が英語喋ってる……」
 そりゃあ相手はアメリカ人だし、と思いながら通話を続けていると、不意に三井がくすくすと声を殺して笑い出した。笑うな、と軽く睨みつけ、爪先を踏んづける。すると電話の向こうで何かを察したらしい代理人が、含み笑いで尋ねてきた。
『――あれ、もしかして誰かと一緒にいた?』
『いや。……あー、高校の先輩が日本から遊びに来ていて』
『そうか。じゃあ今日はそっとしておいたほうがよさそうだな?』
 なんとなく関係性に察しがついたらしい代理人が冗談めかして言う。彼に三井との関係を打ち明けたことはないが、普段の休日はトレーニングか睡眠以外にほぼ予定のない流川が朝早くから他人と過ごしているという事実だけでも推察は容易いだろう。
『……そうしてもらえると助かります』
 流川が正直にそう頼むと、代理人は『オーケー』と快活に笑って応じた。
『資料だけは先にメールで送っておくが、週末までに目を通しておいてくれればいいから』
『ありがとうございます』
『構わないさ。むしろ、君にバスケット以外の恋人がいると知れて安心したよ』
 十代の頃から付き合いのある年長者にそう言われると、さしもの流川も少しばかり照れ臭かった。バスケ一筋で面白みのないプライベートを同僚やメディアに揶揄われることは多いが、彼の場合、真剣に流川のことを案じてくれていたのだと思う。本業は弁護士だから、あちこちで言いふらされる心配もない。
『昔から一途な性格なんです。バスケットにも、恋人にもね』
 流川も冗談めかしてそう返せば、代理人は『よく知ってるよ』と笑った。そのまま『よい休日を』と続いて電話が切れる。画面が暗くなり、流川がスマートフォンをしまうのを確かめてから、三井が感心したように言った。
「……お前、英語だとよく喋んだな」
「こっちじゃちゃんと喋んねーと、すぐ舐められるんで」
「へえ、やっぱそういうもんなんだ?」
 三井が興味深げに言う。流川は手持ち無沙汰に首をかきながら、そうっすね、と頷いた。
 プレー面で結果を出し続けている現在はトッププレイヤーとして隅にも置かない扱いを受けているが、はじめのころはひどいものだった。アジア系というだけで漠然と軽んじられ、チーム内での扱いや、試合中のジャッジに不服を覚えることも多かった。いまになって振り返れば、日本からのスポンサーマネーで他の選手たちより露骨に収入が多かった流川へのやっかみもそれなりにあったのだろう。日本では多くを語らず結果で黙らせるのが一番だが、アメリカでは黙っていれば余計に相手をつけあがらせ、永久に軽んじられ続けるだけだ。
「でもお前、インタビューとかじゃあそんな喋んねーだろ」
 三井が怪訝そうに言った。
「くだらねー揚げ足取られんの嫌なんで、それは。……いや、あの、さっきの相手、代理人なんで。普段より余計に喋ってたとは思うっすけど」
 なんとなく言い訳めいた口調になりながら、咄嗟にそう弁解する。
「ふうん。それにしたって、ずいぶん仲がいいんだな?」
「……そりゃあ、こっち来てからずっと世話んなってる相手なんで」
「へえ」
 三井の返事がどことなく素っ気ないような気がするのは、流川の気のせいだろうか。そろそろと三井の体へ手を伸ばしながら、念のため、と弁解を重ねる。
「……あの、一応言っとくすけど、妻子持ちっすよ。孫もいるって」
 流川がそう告げると、三井はわずかに一瞬目を見開いたあと、恥ずかしそうに顔を背けてぼそりと言った。
「……あっそ」
「もしかして、妬いたんすか?」
 意趣返しとばかりに尋ねれば、三井は耳まで赤くし、ちいさな声で悔しそうに答えた。
「……妬いてる」
 その答えを聞いた瞬間、流川は思わず目の前の体を抱き締めていた。ぎゅうぎゅうと力一杯に抱きすくめられた三井が、早口でまくし立てるように言い訳をはじめる。
「――だ、だって、お前が日本語であんな楽しそうに喋ってるとこなんか見たことねーし。……恋人がどうとか、すげえプライベートなことまで話してただろ」
「あっちが勝手に察しただけ。俺から喋ったわけじゃねー」
「……そうかよ」
「あと、俺、これでも楽しく喋ってるつもりっす」
 日本語、と流川が言うと、三井はやっと吹き出すように笑って、流川の背中をばしばし叩きながら大声で言った。
「見えねーって!」
「英語喋ってると、なんか、勝手に顔がオーバーになる」
「それはそうかもしんねーけどよお……」
 三井がごにょごにょと言葉尻を濁す。どうも、いまいち納得がいっていないようだ。
「あの。俺、一途だって言ったの聞いてなかったすか?」
 抱擁を解き、正面から顔を見据えてそう問いかける。三井の英語力なら、きっとそこまでちゃんと聞き取れていたはずだ。案の定三井はぐっと言葉に詰まると、再び悔しそうに顔を俯けてぼそりと答えた。
「……聞いてた」
「さっきも言ったすけど、俺、アンタだけっす」
「……それも聞いた」
 ならいい、と三井の胸元へ顔を埋めて、ぐりぐりと額を擦りつける。離れていた時間と距離を埋めるように密着して体温を分けあっていると、幸せ、という不確かな概念がはっきりと形を持って目の前へ浮かび上がってくるような心地になった。アメリカでシーズンを過ごしている最中に、寂しい、会いたいと思うことは実はそれほどないのだが、いざこうして顔を合わせてみると、やはり心の底では何かしらの欠落を感じていたのだろうと実感する。
 けれどやはり、日本に帰りたいとはまだ思わなかった。プレイヤーとして成し遂げたいことはまだまだたくさんある。チャンピオンリングも取っていないし、選手としての衰えを感じているわけでもない。むしろ、いまが一番脂の乗り切った時期だ。
 同時に、三井とアメリカで一緒に暮らしたいとも思わなかった。三井は三井で、日本に残してきた教え子たちがいる。プレイヤーとしても優秀なひとだったが、怪我の苦しみや挫折を知る彼は、きっと指導者としても優秀だろう。バスケを辞めざるを得なかったときにどれほど苦悩していたかも、そのあといかに苦労していまのキャリアにたどり着いたのかも知っている。そんな彼をむやみに自分の元へ縛り付けておきたいとは思わなかった。
 けれど、だ。
「――次俺が日本帰ったら、練習、呼んでください」
 流川の唐突な申し出に、三井は「はあ?」と素っ頓狂な声を出した。
「練習って、湘北の?」
「はい」
「あのなあ……。お前、ほんとに自分の知名度分かってんのか?」
「お忍びで」
「こんなデカい図体で忍べるわけねーだろ、馬鹿」
 三井が呆れたように言い、ぺちんと流川の頭を叩く。けれど流川は諦めなかった。胸元へ抱きついたまま目だけでじっと三井の顔を見上げ、お願い、と強請る。
「先輩が先生してるとこ、見てー」
 三井は明らかに狼狽した顔をして、恥ずかしそうに目元を赤らめた。
「……よせよ。からかうな」
「からかってない」
「ぜってーやだ。恥ずい」
「ミッチー先生」
「だから、言うなっつの」
 噛みつくように歯を剥いて怒った三井へ、謝罪の代わりに触れるだけのキスを贈る。教師らしからぬ傷が残る顎先、唇の横、頬。鼻の先っぽ、唇。軽く音を立てながら順番に触れていけば、三井もくすぐったげにくすくすと笑いだした。
「……分かった分かった」
 降参、とばかりに三井が言う。
「来てもいいけど、あんま大人げねーことはすんなよ」
「……うす」
「こら」
 流川がわずかに頷くのを躊躇ったら、再びぺちんと頭を叩かれた。むっと唇を尖らせて、今度は噛みつくようなキスを見舞う。あっ、という三井の短い悲鳴を飲み込んで口づけを深めれば、ふたりの触れ合いも、先輩後輩のじゃれあいから恋人同士のコミュニケーションへと変わった。
 三井とこのまま四六時中一緒にいたいとか、ずっとここにいて欲しいとは思わない。けれどやはりつまらない嫉妬はするし、流川の知らない一面があると思うと、自分にも見せてほしいと思う。大人げないと言われようと、このひとは俺の恋人だから、と牽制のひとつも入れたくなる。
 三井のことを信用していないわけではないけれど、遠く日本を離れ、互いに年を取り、人生のステージが変わってもなおこの関係が続いているという、それだけで奇跡のような話なのだ。今朝夢見心地で三井を抱き締めたときのように、いまだにその奇跡をしみじみと噛みしめたくなることがある。全部都合のいい夢なんじゃないかと、不意に頬をつねりたくなる日もある。さすがに、実際につねってみたことはないが。
 そんなことを考えながらちょっとばかりうわの空になっていると、目ざとく察した三井が「おい」と流川の頬をつねった。
「……いてーっす」
「お前がボーっとしてっからだろ」
 すんません、と謝ってキスの続きに戻れば、三井の左脚が離すまいとするように流川の腰へ絡んだ。服越しに触れあった体は温かくて、つねられた頬はひりひりと痛い。幸せな痛みだ。まるで都合のよい白昼夢のような、けれど夢ではない、幸福な現実の痛みである。

2023.05.17