つかまえた

 いつの間にか、ママチャリの荷台が彼の特等席になっていた。
 一度聞いてみたことがある。自転車持ってないんすか、と、そう首を傾げた流川に、そのときの三井は人の悪い笑顔を浮かべ「だりーだろ」とだけ言ったのだった。
「どっか寄るスか?」
 緩やかな坂道を惰性で下りながら、背中の三井に向かって尋ねる。三井は大声で「ファミレス」と怒鳴り返した。寄り道のゆくえを決めるのはたいてい三井だが、自転車を漕ぐのはいつだって流川の役目で、三井は荷台に乗っているだけだ。
「オムライス食いてえ」
「ラーメンは?」
「あんじゃねえの。ファミレスだし」
「なにそれ」
 適当、と抗議すると、三井は流川の肩甲骨に額を擦りつけながら「うるせー、知るか」と横暴に言った。そのささやかな体温をシャツ越しに感じながら、ブレーキを握る手に力を込める。
「文句言ってっと、奢ってやんねーぞ」
「……ファミレスでいーっす」
「よろしい」
 三井は尊大に言うと、流川の腹に回した手をぎゅうぎゅうと締めあげ、鼻を鳴らして満足げに笑った。
 そのまま緩やかに坂を下り続け、行きつけのファミレスに入る。三井はオムライスを、流川は担々麺と炒飯を頼んだ。ふたり分のドリンクバーもあわせて頼み、ついでに山盛りのポテトフライと山盛りのから揚げも追加する。土曜日の午後を丸ごとサウナのような体育館で過ごし、宮城新キャプテンによるほとんど拷問のようなしごきに耐え抜いた男子高校生にとっては、この量でさえ間食のようなものだ。
「なあ、ファミレスのラーメンってうめえの?」
「ふつう」
「へえ」
 会話のような、そうでないような言葉の応酬を途切れがちに繰り返しながら、互いに黙々と箸を動かす。
「……宮城のヤツ、張り切ってんのはいいけどよお、あんなんじゃ一年どもは上手くなる前にへばっちまうだろ」
「俺はヘーキっすけど」
「あのなあ。宮城の次は、オメーか桜木が引っ張んなきゃなんねーんだぞ。レギュラーだけじゃねえ、部員全員だ。分かってんのか?」
「うす」
「ほんとに分かってんのかねえ、ったく……」
 三井は呆れたようにそう言って頬杖をつくと、冷めたポテトフライを口に放り込んで「ともかくよお」と続けた。
「桜木だよ、桜木。お前、見舞いとかちゃんと行ってんのか?」
「なんで」
 流川もから揚げに手を伸ばしながら首を傾げた。オムライスも担々麺も炒飯もとっくに片付き、テーブルのうえには残りわずかなポテトフライとから揚げ、それと、ちいさくなった氷が浮いたドリンクバーのコップだけが乱雑に並んでいる。
 三井はあとふたつしかない唐揚げの皿を流川のほうへ押しやると、自分はしなびたポテトをつまみながらうんざりしたような顔で言った。
「アイツ、ほんと馬鹿みてーに丈夫なのな。暇で暇で死にそーだって、うるせーのなんの」
「……先輩は、見舞い、行ったんすか」
「そりゃ、行くだろ。なんもなくたって、誰かしら行ってやんねーとさ。……まあ、その辺は水戸が上手いことやってるみてーだけどな」
 そう言って急に大人びた表情をした三井が、億劫そうに立ち上がってすぐ横にあるドリンクバーのコーナーへ向かった。その姿をぼんやりと眺めながら、薄いオレンジジュースをちびちびと啜る。三井が選んだのはアイスコーヒーだった。
 流川はコーヒーを飲まない。けれど、三井はコーヒーが好きだ。自転車を漕ぐのはいつだって流川の役目で、三井はただ後ろであっちへ行けこっちへ行けとわがままを言うだけ。オムライスなどという子供じみたメニューを食べたがったかと思えば、しなびたポテトをつまみながら、急に年上の男の顔で説教じみた言葉をぶってみせる。
「――先輩」
「あんだよ」
「俺、オレンジジュース」
「先輩をパシんじゃねえよ、バァカ」
 その言葉に流川も仕方なく立ちあがり、小走りで三井の横へ歩み寄った。コーヒーサーバーの前に立つ三井の肩に二の腕をくっつけ、自分よりやや小柄な体をぐいぐいと押す。
「押すなっつの」
「だって、邪魔だし」
「あんだとこら」
 そうしてくっついたまま、目一杯時間をかけて座席へ戻った。冷めたポテトフライと、残りひとつしかない唐揚げを囲み、アイスコーヒーとオレンジジュースをちびちびと舐める。
「……お前はさ」
 三井がぽつりと言った。
「なんすか」
「入院とか、ぜってー向いてねーよな」
 そりゃあ、と顔をあげて三井を見る。
「とーぜん」
「だよな」
 バスケ馬鹿だもんな、と三井が笑った。アンタこそ、と笑い混じりに言い返そうとして、咄嗟に口を噤む。すぐに笑みを引っ込めた三井の表情が、存外に真面目な色をしていたからだ。
「お前、昨日クールダウンしねーで帰ったろ」
「……あの」
「言い訳すんな。見られてねーと思ってたんか?」
「……うす」
 流川が頷くと、三井の長い指がぱちんとその額を弾いた。赤木の拳骨と比べれば、ずいぶんと甘い鞭だ。
 三井の顔が、また、流川の知らない表情を作る。
「オメーには、俺の送迎っつー重要な仕事があんだろーが」
「仕事ではねー」
「仕事に決まってんだろ。怪我だろうがなんだろうが、サボりやがったら一生許さねーからな」
 意味わかんねー、と流川が混ぜ返すより先に、三井の手のひらがその視界を乱暴に覆った。伸び放題の前髪をぐちゃぐちゃにかき回され、そのままもう一度額をぱちんと弾かれる。
「いてっ」
「前髪もちゃんと切れよ。目ェ悪くすんぞ」
「……うるせー」
 ぶっきらぼうに言い返しながら、額のうえにある手のひらを掴んだ。流川のそれよりも薄くてちいさな手のひらと、わずかに長くて細い指。薄くて細いが、たとえ流川が力いっぱい握りしめても壊れないだろう、しっかりとした男の手だ。
 この手が好きだ、と、唐突にそう思った。
「先輩」
「なんだよ」
「……なんでもねーっす」
 流川はふっと目を細めると、三井らしい拗ねたようなしかめ面を見つめながら言った。それ以上のことは言葉にならなかった。
 けれど、捕まえた、と、この時は確かにそう思ったのだ。

 三井を駅まで送り届ける途中、ちいさな公園の前で自転車を止めた。地平線に落ちかかった夕陽が、ぼんやりとたなびく雲をオレンジ色に染めあげている。
「喉渇いたっス」
「ああ?」
「ポカリ飲みてー」
「わがまま言うな」
 そうぶつくさ言いながら、三井はきちんとポカリを買ってくれた。すると「さよなら」の時間まで、ほんの少しの猶予が生まれる。
 いつからだろう。じゃあな、またな、という他愛のない別れの言葉が、次第に別のなにかを連想させるようになった。下級生たちと一緒になって赤木の拳骨を食らっていた三井が、いつしか大人びた先輩の顔をして彼が去った後の湘北高校バスケットボール部の話をするようになり、目の前にいる流川ではなく、その場にいない桜木やほかの一年生たちへも心を砕くようになった。
 流川には、それがどうしようもなくもどかしい。
「――なあ、お前んチャリさ、二台あるよな」
 だしぬけに、三井がそんなことを言った。
「うん」
 流川は端的に頷き、愛車の日に焼けたサドルを撫でた。中学生の頃から乗っている、古いママチャリだ。スピードは出ないし、フレームがあちこち歪んでいるせいで乗り心地も悪い。けれど、土曜日だけは必ずこの自転車に乗って通学することに決めていた。
 三井を、駅まで送り届けねばならないから。
 土曜日は、決まって三井が寄り道をしたがるからだ。
「ロードバイクっつうの? あれって結構高いんか?」
「そこそこ」
「へえ。カッコいいよな、あれ」
 流川はポカリ、三井は麦茶を飲みながら、あちこち歪んだ古いママチャリを挟むように立ち、ファミレスの話題の延長線上にあるような、そうでもないような事柄をぽつりぽつりと話す。
 桜木の見舞いに行ったら、偶然赤木兄妹と鉢合わせた話。その帰り道、同じく偶然居合わせた水戸洋平の原チャリが、とうとう音をあげてもうもうと黒い煙を吹きだした話。木暮がノートを貸してくれたおかげで、英語の小テストの点数が思ったよりも良かったという話。宮城の身長がほんの数ミリ程度伸びたらしいという話に、それを聞いた彩子が、夕方にまた測ってごらんなさいと返して大笑いしたという話。
 そのほとんどを三井が一方的に喋り、流川はときどき短い相槌を打つくらいで、あとは黙ってちびちびとポカリを飲んでいただけだった。
「――お前がいつかアメリカ行くとき、さ」
 と、三井が不意に言った。あとから思い返しても、なぜそんな話になったのか、それだけはどうしても思い出せずにいる。
 青味の混じった夕焼けが、かすかに俯いた三井の顔に薄い影を作った。その姿に、ほんの数か月前、彼が長い髪をばっさりと切り落として体育館に現れた日のことを唐突に思い出す。
 なんてややこしい人間なんだろう、と思った。
 面倒で、ややこしくて、鬱陶しくて、流川にはちっとも理解のできない存在だった。
 いまだって、流川には彼が考えていることの十分の一も理解できていないに違いない。
 流川にできるのは、バスケがしたいと言って泣いた彼にすこしでも長くバスケをさせてやることと、自転車の荷台に乗せて運ぶこと。そのくらいだ。
「このチャリ、俺にくれよ」
 中途半端に伸びた前髪を忙しなく撫でつけながら、三井が言った。
「……なんで」
「いいだろ、別に」
 三井は拗ねたようなしかめ顔をしてそう答え、その話題はそれきりだった。
 そんなことを、流川はいま太平洋のうえを飛ぶ飛行機の機内で思い出している。
 流川が高校生の頃に乗っていたママチャリは、あのあとほんとうに三井の物になった。あげたのではなくて、盗まれたのだ。これ借りるぜ、と言われて、それっきり。流川のアメリカ行きが正式に決まり、その報告のために三井と数年ぶりに再会したある日のことだ。
 逃げられた、と思った。
 自転車のゆくえ以上に、そのことがずっと引っかかている。
 最後に三井と会ったあの日、彼は切りすぎた前髪を気にして、終始拗ねたような怒ったような、不機嫌そうなしかめ面だった。いつかふたりでポカリと麦茶を飲んだ、あの公園での出来事である。おかげで彼を思い出すとき、脳裏に浮かぶのはいつもあの短すぎる前髪と、不機嫌そうなしかめ面だった。
 日本に戻ったら、まず真っ先にあの自転車泥棒を糾弾しなければならない。
 そう心に誓って、ゆっくりと目を閉じる。
 瞼の裏に浮かんだのは、やっぱり、あの不機嫌そうなしかめ面だった。

「――よお、流川」
 まるであの頃と変わらない顔で右手をあげた自転車泥棒に、着替えの詰まったドラムバッグを投げる。自転車泥棒――三井は、飛んできたバッグを危なげなく抱きとめると、乗っていた自転車のひしゃげた前カゴへそのバッグを詰め込み、人の悪い顔で笑った。
「スターの凱旋帰国にしちゃあ、ずいぶん寂しい出迎えだな」
 実家の最寄り駅のロータリーは、平日であることと、通勤通学ラッシュが落ち着いた時間帯であることを差し引いても閑散としている。冷たい風がインターロッキングのうえの落ち葉を巻きあげ、流川はぶるりとおおきく身震いをした。
「……帰ること、誰にも言ってねーんで」
「あっそ」
 三井は素っ気なく言うと、親指で自転車の荷台を指した。
「言っとくけど、乗せねーかんな」
「なんで」
「法律違反。最近は厳しいんだよ」
 その言葉に、かつては三井の特等席だったそこをじっと睨んだ。
 自転車のふたり乗りはいつのまにか禁止され、当時自転車を漕ぐ役目を担っていた流川はアメリカへ渡ってプロ選手となり、荷台に乗っているだけだった三井は、いまやいっぱしの高校教員だという。
「知ってるか? 昔よく行ってたファミレスあんだろ。あそこ潰れちまってさ、いまはパチンコ屋になってんだ」
「へえ」
 三井がゆっくりとペダルを踏みこんだ。
「結構景色変わったぜ。お前、全然地元に顔出さねーんだもんな」
「めんどくせーんで」
「ま、気持ちは分かるけどよ」
 そのまま惰性でのろのろと進む自転車の後ろを、おおきな歩幅でゆっくりとついて歩く。
 駅前を過ぎて、高校時代に何度も通った道へ出た。湘北高校方面へすこし歩けば、すぐ流川の実家に着く。けれど三井は、流川の実家がある方面とは反対の方角へハンドルを切った。
「桜木、元気にしてっか?」
「会ってねー」
「試合で会うだろ。同じ地区なんだから」
「さあ」
「オメーらってほんと、ちっとも変わんねーのな」
 そう言って笑う三井は、あの頃とは随分と変わったようだった。
 切りすぎて不格好だった前髪は眉にかかるほど伸び、いまはすっきりと斜めにセットされていた。かつてよく見た不機嫌そうなしかめ面はなりを潜め、頬には年相応の大人らしい微笑みが貼り付いている。
「――あ、そういやお前、足首痛めたんだったな」
 不意に振り返った三井が、微笑みを浮かべた頬をわずかに強張らせて言った。その表情にいつか見た真面目な顔が重なって、思わず顔を伏せる。
「べつに、痛めてねー。ただの捻挫」
「捻挫っつっても、無理すりゃ癖になんだろ」
「なってねー。平気」
 ぶっきらぼうに言い切った流川の顔を、微笑みを引っ込めた三井の真剣な眼差しが見上げる。
「一生許さねーっつったろ」
「……なにが」
「お前が怪我したら、誰が俺を駅まで送るんだよ」
「ふたり乗り、もうしちゃだめなんじゃねーんすか」
「それはそれ、これはこれだ」
「なにそれ」
 横暴、と流川が思わず笑みを浮かべると、三井もようやく昔の顔で吹き出すように笑う。そして、思い出したように言った。
「あ、ほら。ここ、帰りによく寄ったよな」
 そこは、いつかの公園だった。
「……俺も、一生許さねーっす」
「なんだよ」
「自転車泥棒」
「おお、覚えてたか」
 忘れてっかと思ったぜ、と悪びれもせずに言った三井は、そのまま公園に向かってハンドルを切り、いつかの自販機の前に自転車を止めた。
 ひしゃげたカゴに、いびつなフレーム。乗り心地は最悪で、スピードも出ない。当時でさえ粗大ごみ寸前だったのだ。どうせ、とっくに捨てられていると思っていた。
「なんか飲むか?」
 自転車のスタンドを下した三井が、財布を片手に首を傾げる。
 問われた流川は、返事の代わりに三井の前へ歩み寄ると、財布ごとその手を掴んで言った。
「今度こそ、捕まえた」
「自転車泥棒を?」
「違う。……アンタを」
 そう告げて、掴んだ手に指を絡める。流川の指に押しのけられた財布が地面に落ち、三井が困ったような顔で流川を見あげた。
「それ、どう違うんだよ」
「違わねーけど、違う」
「ますます日本語下手んなったな、お前」
 三井の苦笑顔を見下ろしながら、ずっと心の底にわだかまっていた言葉を告げる。
「あの。――その自転車、返さなくていーんで」
「ああ?」
「一生許さねーから、一生持ってて」
 流川の言葉に、三井の顔がゆっくりと歪んだ。
「……お前さ」
「なんすか」
「お前のそういう訳のわかんねーとこ、昔からほんっと心配でさ……。一生俺の目が届くとこにいてくんねえと、こっちの気が休まらねえよ」
「だから、一生持っててって言った」
「で、毎年毎年、俺を捕まえにくるわけ?」
「うん」
 バッカじゃねえの、と三井が笑う。
「馬鹿だから、先輩がちゃんと見ててくんねーと困る」
「……ああそう」
 三井はそう言うと、ふいと視線を逸らして地面を睨んだ。記憶にあるよりずっと長い前髪が、鼻筋に薄く影を落とす。その毛先を指ですくい、何度も何度も脳裏に描いた形のよい額と、見覚えのあるしかめ面を陽射しの下に晒した。
「先輩、好きっす」
「……知ってた」
 とうとう観念した様子の自転車泥棒が、眉間の皺をほどいて笑う。
「いい加減、返してやろうと思って乗ってきたのに」
「いらねーっす。そんなボロいママチャリ」
「でも取り返しには来るんだろ」
「とーぜん」
 ふてぶてしくそう返して、流川も笑った。いい歳をした男が二人、指輪や誓いの言葉を交わすかわりに、おんぼろのママチャリを取り合っている。なんとも奇妙で締まりのない光景だが、けれど、やっと捕まえたのだ。
「――ねえ、先輩。公園の中ならへーきっすよね」
「なにが」
「二ケツ。道路じゃねーし」
 そう言って、返事を聞く前に荷台に座る。三井は困ったように眉を下げて頭をかくと「しゃーねーな」と苦笑して、あちこち破れたままのサドルに跨った。
 永遠に追いつけないと思っていた背中にしがみつき、地面からそっと足を離す。三井がペダルを踏みこむと、錆びついたフレームがぎいぎいと甲高い悲鳴をあげた。
「……俺さ、チャリ持ってたんだぜ。結構いいやつ」
 三井が不意に口を開く。
「荷台ってケツいてーだろ。足も窮屈だし、夏はあちーし、踏ん張んねーと落ちちまうし」
「うん」
「なにが言いてーか分かっか?」
「うん。……多分」
 そう答えてから、三井の背中にぴたりと耳をくっつける。ほんとかよ、と笑う三井の心臓の忙しない鼓動を聞きながら、痛む尻を庇って窮屈な足を必死に踏ん張った。
 やっぱり、漕ぐのは自分の役目だ。
 と、そう心に誓いながら。

 

Happy 1114 anniversary!

Theme song : 自転車泥棒/ユニコーン

夜子さま(@yorucocco)の素敵企画に参加させていただきました!
素敵な企画をありがとうございました。