君の顔が好きだ

「――遅れてすんませ、」
 ん、といい損ねた言葉が、たくさんのクエスチョンマークとともに宙へ浮かぶ。
 NBAへの挑戦に区切りをつけ、流川は今シーズンから日本のプロリーグでプレーすることを決めていた。今日はそんな流川の激励会の名目で、かつてのチームメイトたちが宴席を設けてくれることになっていたのだ。
 そんな滅多とない日ではあるが、流川はあいかわらず多忙だった。ひょっとすると、NBA時代より多忙かもしれないくらいである。
 帰国してから新たに付いたマネージャーのスケジュール帳には、専門誌のインタビューのみならず、ファッション雑誌や週刊誌の取材にCM撮影、スポンサーへの挨拶回り。所属チームの宣材撮影に記者会見。ワイドショーやスポーツニュースへの出演と、うんざりするような文字が所狭しと並んでいる。今日も今日とて、女性向け情報誌のグラビア撮影に半日も拘束されていた。
 そんな流川を、下座に座っていた宮城の疲れたような顔が振り仰いだ。
「……おー、流川。久しぶりだな」
 邪魔が入らぬようにと馴染みの店主が特別に用意してくれた小上がりの奥座敷。そのふすまに手をかけた格好のまま、流川はしばし時が止まったように固まっていた。
「魚住! お前もこっちへ来て飲まんか!」
「そーだぞボス猿!」
 そう声を張り上げたのは、奥の壁際に座る赤木と桜木だった。ふたりとも真っ赤な顔をして肩を組み、逞しい胸板を見せびらかすようにワイシャツを胸元まではだけている。流川の後ろで、板前姿の店主――魚住が「飲みすぎだ馬鹿モン」と苦笑混じりに言った。
「悪いな流川。もうみんなすっかり出来上がってて……」
 魚住に負けず劣らずの苦笑顔で、赤木の横にこぢんまりと座っていた木暮が言う。その言葉こそ先のふたりと比べればずいぶん理性的だが、こちらもこちらで、頬にしっかりと涙の跡を残していた。なるほど、いわゆる泣き上戸というやつだろう。
 と、そこまでは、流川の想定の範囲内だった。
 問題はこちらである。
「みやぎぃ……なあ、お前ってさあ、なんでそんなにイイ奴なわけ? 俺ほんとお前がいねーとダメ……」
 声の主は、宮城の隣に座る男――三井だ。
 三井は流川の到着に気づいた様子もなく、両腕をがっしりと宮城の腰へ回し、顔を首筋に埋めて「なあみやぎぃ、聞いてんのか?」と舌足らずに甘えた声をあげている。
 その声が鼓膜から脳まで到達した瞬間、流川の首が、錆びきったブリキの玩具のようにぎこちなく動いた。
「……あの、宮城先輩」
「待て流川、誤解だ」
 宮城が慌てたように両手をあげ、謎の弁明に走る。
「誤解なもんかよぉ。俺、お前にはほんと悪いことしたなあと思ってさぁ。ほんと、ほんとにさあ……」
「わかった! わかったってば三井サン! 俺全然気にしてねーってもう三十回は言った……」
「嘘だぁ……。みやぎぃ、お前ほんとサイコー。お前よりサイコーなPGなんかこの世にいねえよぉ。なあ、またいっしょにバスケしようぜぇ、なあ」
「わかったってばぁ、もうっ!」
 泣き笑いのような顔をした宮城が、お手上げとばかりに悲痛な叫びをあげる。そして、三井の肩をしたたかに叩きながら言った。
「ほら三井サン、流川! 流川来たよ!」
 その言葉に勢いよく顔をあげた三井が、いかにも満面の笑み、というようなダイナミックな笑顔を顔中に浮かべて叫んだ。
「――るかわーっ!」
 踏み潰された宮城が「ぎゃっ」と悲鳴をあげる。流川に気付いた三井が、四つん這いの姿勢になって宮城を押しのけ、そのまま勢いよく流川へ突進してきたのだ。いまだふすまに手をかけたまま靴も脱いでいなかった流川は、あわてて靴を脱ぎ捨てながら、たたらを踏むように慌てて座敷へ転がり込んだ。
「せ、先輩、ちょっと、ちょっと待って」
「るかわーっ、おめー、おせえぞおっ!」
「すごいなあ、あの流川が慌ててるぞ」
 ずびずびと鼻を啜りながら木暮が笑う。その言葉を聞いた桜木が勢いよく立ち上がって「オイこらキツネーっ! 勝負だーっ!」と叫び、赤木が「やかましいっ!」と誰よりも大きな声で怒鳴った。なんの勝負だ、と思わず呟いた流川に、桜木がまた「コルァーっ、逃げんのかぁー!」と叫び、赤木もまた「馬鹿モンっ、やかましーと言っとろうがっ!」と怒鳴った。
 三井はというと、そんなけたたましい外野の様子もまったく意に介していないようだ。いつもならばいの一番にうるせえだの黙れだのと怒鳴り返すだろう男が、である。それどころか三井は、ダイナミックな笑顔を浮かべたまま流川の肩に腕を回し、ニコニコと上機嫌に言った。
「るかわだー、ひさしぶりのるかわだー」
「る、流川っす……」
「るかわぁ」
 ひさしぶりぃ、と舌足らずな声が耳元で囁く。
「お、おひさしぶりです……」
「おめーは相変わらずオトコマエだなあ」
「オトコマエ……」
「おう。ほんと、世界一だよ……なんでこんなカッコいいかなあ、すげーよなあ」
「世界一……」
 流川は、壊れたロボットのようにただ三井の言葉を反芻することしかできなかった。流川の記憶にある三井と、いま耳元でニコニコと流川を賞賛し続ける男が、どうしても同一人物とは思えなかったせいだ。なにせ三井がニコニコと機嫌よさそうに笑っているところなどほとんど見たことがなかったし、試合中の声かけ以外に面と向かって褒められた記憶もなかった。
「ほらるかわぁ、おめー、主役なんらからよぉ、そんなとこいねーで、ちゃんと座れよぉ」
 三井もよほど飲んだのか、明らかに舌が回っていない。
 流川は油を差し忘れたようなぎこちない動きで「うす」と頷き、自分へ凭れかかる三井の腰になんとか腕を回すと、そのまま這うようにして座卓へとたどり着いた。たったこれだけの動きで、恐ろしく息があがる。
 そんな流川に、三井がまた満面の笑みで言った。
「まあ飲め」
「う、うす」
「うす、だって。はは、ほんとカワイイなあお前は」
 なにがおかしいのか、三井はケラケラと笑いながら卓上の徳利をひきよせ、そのあたりに転がっていたお猪口になみなみと日本酒を注いだ。見れば、広い座卓のうえにもう十本は二合徳利が横たわっている。座敷の隅には、中身の無いビールの中瓶がゆうに一ケース分はあった。
「お前はさあ、ほんとカワイイし顔はいいし、バスケは上手いし、無口で無愛想で生意気で無愛想だけど、ほんと顔がいいしよぉ」
「うす……」
「あーカワイイ。なあ、なんでそんなにカワイイわけ? お前」
「なんでって……」
 完全に三井のペースに飲まれながら、促されるままに日本酒を呷る。三井の顔は相変わらず流川の顔の真横にあった。
「なあるかわぁ。お前、これからはずっと日本にいるんだもんなぁ?」
「そーっすけど……」
「じゃあこれからはお前にいつでも会えるんだなぁ、サイコーだなぁ」
 流川の顔の真横で、満面の笑みを浮かべた三井が心底嬉しそうに言う。
「るかわがずっと日本にいるんだぁ」
「……はい」
「そうかぁ、るかわが日本にいるんだぁ」
 三井は喜びを噛み締めるように言うと、おぼつかない手付きで流川のお猪口を横取りし「祝杯だあ」と残っていた日本酒を勢いよく干した。
 その姿をなかば呆然と見つめながら、淡い期待に胸を高鳴らせる。
「……あの、先輩。俺が帰ってきたの、そんなにうれしーんすか」
 もごもごと口をまごつかせ、もじもじと体を揺すりながら尋ねる。
 三井は、流川が高校時代にいっとき淡い恋心を抱いていた相手だった。
 はじめはただの厄介者だと思っていた。次第に背中を預けるに足る味方と、最も身近にいる好敵手と思うようになり、尊敬するプレイヤーのひとりに数えるようになった。そして、いつしかその姿をコートの外でも追いかけるようになっていた。
 多分、あれが初恋だった。
「……あと、俺の顔、そんなに好きだったんすね」
 重ねてそう問いかけると、息が触れるほど近くにある顔が溶けるように破顔した。
「そりゃあ、お前の顔が嫌いなやつなんていねぇだろぉ。ほんと、オトコマエだなぁ」
「……顔だけ、すか」
「んなわけねえだろぉ! ……お前は天才、ホンモノの天才だよ。しかもさぁ、天才のくせに誰よりも遅くまで練習してさぁ、試合中なんか誰よりもアツいくせして、妙におちついててさぁ。おめーにあずけりゃなんとかなるって、俺、ほんと、すげー信じてたんだから」
 三井のちいさな頭が、語気にあわせてがくんがくんと前後に揺れる。恐らくは頷いているつもりなのだろうが、傍から見れば危なっかしいことこのうえない動きだ。
 流川はその頭をこっそりと自分の肩に凭れさせると、これまたこっそりと深呼吸をして、三井の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「先輩も、すごかったっすよ。先輩のフォーム、すげー好きでした」
 フォームだけじゃねーけど、とちいさな声でもごもごと付け加える。
「るかわ……」
 蘇った淡い恋心にほんのりと赤らんだ流川の頬を、三井のおおきな手のひらがばちんと力強く挟んだ。
「――お前ってやつは! なんてカワイイことをっ、このっ!」
「わ、っ!」
「ぬあぁっ、カワイイなぁ、カワイイなぁ流川」
 三井の両手が力いっぱい流川の黒髪をかき混ぜる。わしゃわしゃっと、犬でも洗うような手付きだ。その手付きのまま顔までもみくちゃにされ、しまいにはぎゅっと、それはもう力強くぎゅっと抱き締められた。
「るかわー」
「う、うす」
「お前、いい匂いする……」
「ざっ、雑誌の、撮影があったんで」
「そーかー。俺はてっきり、オトコマエってのは匂いまでオトコマエなんかと……」 
 支離滅裂な褒め言葉の奔流に圧倒されながら、腕の中にある体を恐る恐る抱き返す。
 忘れもしない、彼と並んで出場した唯一のインターハイ、山王工業高校戦。あのとき流川を抱きしめた腕は、汗まみれで、熱くて、疲労と歓喜と興奮にちいさく震えていた。
 いま流川を抱きしめている腕は、あの頃よりずっと逞しくなっていて、かなり酒臭い。
 けれど、流川の胸はあのとき以上に高鳴り、どくどくと早鐘を打っていた。

 三井サンてさぁ、と宮城がぼやく。
「酒入っとめちゃくちゃ素直になんの。――おもしれぇよな」
 宮城、三井、流川と並んで座り、宮城は座卓に突っ伏して眠る三井の素直な旋毛を肴に、流川は薄っすらと気持ちよさげに開いた唇を肴に、ちびちびと残酒を舐めていた。室内には桜木のいびきがBGMのように響き渡り、流川たちの対角線上にはしんみりとした顔で肩を叩きあう赤木と木暮の姿がある。
「酔うとソイツの本性が出るって言うだろ? そう考えっと可笑しいよな。このひと、どんだけ普段がへそ曲がりなんだよ」
 宮城が笑いを噛み殺しながら言った。その意地の悪い言葉選びとは裏腹に、目尻には優しげな皺が寄っている。
「……宮城先輩は、あんま変わんねーっすね」
 流川の言葉に、宮城が声をあげて笑った。
「はは、そりゃおめーもだろ。……つーか、俺以外が揃いも揃って酔っぱらいすぎなの。ほんと、いい歳こいてさあ」
 ったく、と呆れたようにため息をつく横顔は、やはり優しげな笑みを浮かべている。
 宮城も宮城で、酔に任せて転がり出た三井の本音にすっかり絆されているのだろう。お前がいねーとダメ、とまで言いきられて、嫌な気になる人間はそういない。それに、酔った三井の相手をすること自体、恐らく今回がはじめてではないはずだ。
 宮城と三井は、昔からほんとうに仲が良かった。黙っていれば、誰もお互いを病院送りにしあった仲だとは夢にも思わないほどだ。三井の隣にはいつだって宮城がいた。いまだって、宮城は当たり前のような顔で三井の隣に座っている。
「……よく、ふたりで飲むんすか」
 流川も普段の酒量より飲み過ごしているのは同じことで、つい、やや抑制の外れた、険のある声が出てしまった。
 大抵の場合、まずい、と思ったときにはもう手遅れであることが多い。相手が宮城のような試合巧者ならばなおさらだ。
 問いを受けた宮城が不思議そうに、けれどのんびりとした動作で目を瞬く。
「……あらら、そういうこと?」
 しまった、と目を見開いて固まった流川を、宮城の眠たげな両目がまじまじと見る。相変わらず目敏くて、相手の作ったわずかな隙も見逃さないひとだ。
「あー……うん、なるほどねぇ」
 宮城は、動揺で口も利けずにいる流川をじっと見つめたまま「なるほどなるほど」と無感情に繰り返した。その声には軽蔑や揶揄の色がない代わりに、歓迎の色もまったくない。流川の指先には知らず冷や汗が滲み、持っていたお猪口が傾いで卓上にちいさな水溜りを作った。
「お前が、三井サンをねぇ。……まあ、うん。確か、いまはフリーなはずだぜ?」
「……いま、は」
「このひと、これで結構モテっかんね」
 宮城は軽い笑みをこぼすと「でもなあ」と呆れたように続けた。
「三井サンってほんと堪え性のねえひとだからさ、全っ然長続きしねえの。そのくせ選り好みだけは一丁前で、連れて歩いてんのはいつ見てもこっちがびびっちまうぐれーの美人ばっか。ほんと、世の中不公平だよなあ」
 流川はなんと返事をすればよいかわからず「はあ」と腑抜けた声を出した。そんな流川に構わず、宮城はまた呆れた声で続ける。
「その美人っつーのがさ、どの子もみんなクールビューティーっての? モデルみてーに背ェ高くって、きれーな黒髪で、気の強そうなキッツい目ェしててさ」
 返す言葉もなく呆けている流川の肩を、宮城の分厚い手のひらが叩く。
「――しゃーねえなやな。まあ、俺からのささやかなお祝いっつーことで」
「……は?」
「パスは出す。きっちり決めろよ」
 宮城は下手なウィンクと共にそう言うと、おもむろに三井の肩を揺さぶりながら言った。
「おら、そろそろ起きてくださいよ三井サン。――流川が、アンタんことウチまで担いで送ってってくれるってさ」

 自分とそう体格の変わらない、そのうえ酔って足元の怪しい男を担いで歩くのは流石の流川でも無理だったので、店仕舞をしていた魚住とふたりがかりでタクシーへ押し込んだ。三井は深々と寝入っていて、流川はさんざん悩んだ挙げ句、タクシーの運転手に自宅マンションの住所を告げた。
 やっとの思いでリビングまでたどり着いて電気を灯せば、いまだ家具も揃っていない、だだっ広いだけの自室が否応なく目に入った。スポンサーから提供されたウェアやシューズの空き箱が散乱しているくらいで、散らかるほどの物がそもそもない殺風景な部屋だ。ひとりで暮らすには広すぎるリビングに、ぽつねんとソファセットだけがある。
「……先輩、起きて」
 肩を貸したまま重い体を何度か揺すぶり、そのままソファのうえへそっとおろした。三井の小ぶりな頭が不安定に座面をすべり、その衝撃に閉じていた瞼が震える。
「ん、んー……」
「先輩」
「……あれ?」
 茫洋とした瞳がうろうろと宙をさまよい、しばらく間が空いてからようやく流川の顔を捉えた。
「流川?」
「はい」
「なんで、俺……ここ」
「俺んちっす。先輩、ぐっすり寝てたんで」
 流川が答えると、三井が驚いたように跳ね起きた。そのままなにかを言おうとしたようだが、酒に焼かれた喉が絡んで二度三度とおおきく咳き込む。流川はがらんどうのキッチンへ向かうと、ミネラルウォーターのボトルを二本持ってリビングへ戻った。
「これ、どーぞ」
「……悪ぃな」
「べつに」
 流川の返事に、三井がばつの悪そうな顔で俯く。三井はミネラルウォーターを半分ほど一気に呷ると、そのキャップを捻っては戻し、捻っては戻し。と、落ち着かない様子で繰り返している。
「あー、俺、だいぶ酔ってたよな?」
「まあ」
「だよなあ。覚えてるわ、うん」
「……覚えてるんすか」
 三井は「いや、その」と煮え切らない様子だ。
「俺は覚えてるっす」
「頼むから、忘れてくれ……」
 右手で額を抑えながら三井が言う。どうも、いまさらながらに照れているらしい。へえ、とその横顔をじっと見つめていると、酔いが醒めて血の気が引いていた三井の頬に、じわじわと赤みが差していくのが分かった。
 その表情に、これは、と天啓のようなものが降りる。試合中、一瞬の攻防のうちに針穴ほどのシュートコースを見つけた瞬間にも似た冴えだ。
「――俺、忘れねーっすよ」
「だから、忘れろって」
「嫌だ」
「なんで」
「ずっと、好きだったんで――先輩のこと。好きなひとに褒められたら、ふつー嬉しい」
 流川の告白は、一から十まで唐突だった。
 自分でもその自覚はあって、いま言う、と心の中でもう一人の自分が呆れている。けれど宮城の厳しいパスをモノにするには、一瞬の隙も見逃すわけにはいかなかった。
「……は?」
 三井が呆けた声を出す。流川はソファへ乗りあげて横たわる三井の両足を跨ぐと、もう一度はっきりした声で「ずっと好きでした」と告げた。
「好きって、その、つまり」
「そういう意味っす。気持ち悪かったら、正直に振ってください」
「いや、それは――」
「俺、先輩の好みじゃねーっすか」
 誘導尋問のような問いを投げつけ、普段はしまいっぱなしで錆びつかせている武器をここぞとばかりに使った。じっと三井の顔を見つめ、頬に手を添え、鼻先が触れあいそうな距離まで顔を寄せる。
「俺のこと、そういう目で見れねーっすか」
「ど、どういう……」
「キスとか、できねーっすか。俺と」
 流川の直截な言葉に、間近にある三井の睫毛が怯えたように震えた。キス、とちいさな声が繰り返す。その拍子にあたたかい息が流川の唇にかかり、背筋へ生々しい興奮が駆けのぼった。
 三井の怖気づいたような声が「たぶん」とか細く言う。
「それは、出来なくもねー、と、思う……」
 その言葉を言葉として理解するより、衝動のまま目の前の唇を塞ぐほうがはやかった。
「ん、っ」
 三井が呻く。その声にも煽られた。鼻にかかったような、甘ったるい声だ。
「せんぱい……」
 流川も同じくらい舌足らずな、甘ったるい声で言った。子供時代の淡くて清い恋心が急に現実的で生々しい質感を持ち、流川の下腹をぐらぐらと滾らせる。
 不器用に息継ぎをしながら、三井の背中へぎこちなく両手を這わせた。その肌は服越しにも熱く、しっとりと汗ばんでいて、興奮しているのが流川だけでないことを伝えてくる。は、とだらしなく口を開いて舌を出せば三井の舌がすかさず絡みつき、その咥内へ流川を誘い込んだ。酒臭いのはお互いで、キスの興奮と呼気に混じったアルコールがどんどん流川の頭に霞をかけていく。
「せんぱい、おれ、もう」
「……あんだよ」
「がまんできねー。触りたい……触って」
 汗ばむ額を三井の首筋に擦りつけ、懇願するように言った。三井は返事をしなかったが、その手がほんのわずかな躊躇いもなく流川のベルトに伸ばされ、思わず息をのむ。
「せんぱい」
「うるせー。触ってほしーんだろ」
 黙ってろ、と三井が言う。その言葉に従い、流川も黙ったまま三井のシャツの裾を暴いた。汗ばんだ手のひらに湿った肌が吸い付く。そのまま肩甲骨まで手を這わせていくと、緩やかに、けれどしっかりと隆起した背中のラインの美しさが脳裏にまざまざと想起された。
 この背中が――この後ろ姿が、特に好きだった。
 居残って黙々とシュートを放つ三井の背中を、よく眺めた。声をかけるのも憚られて、ただじっと眺めていた。声をかけたいとすら思っていなかったような気もする。ただ目を奪われ、じっとその後ろに佇んでいた。あの頃の流川は、その時間がとても好きだった。
「――おい、腰あげろ」
 三井の尖った声が、ぼうっと過去に思いをはせていた流川を現実に引き戻す。
「なんで」
「パンツ。汚してーんか?」
 その言葉に慌てて腰を浮かすと、三井の揶揄するような含み笑いが耳をくすぐった。やられっぱなしでは癪なので、流川も背中に這わせていた手を背骨に沿っておろし、パンツと尾てい骨の間のわずかな隙間に指先を滑りこませる。
「あ、この。くすぐってーわ」
「脱がしていい?」
「……いちいち聞くなよな、そういうこと」
 うん、と笑いながら頷き、流川も三井のベルトへ手をかけた。緩やかに持ちあがった彼自身が、窮屈そうにズボンのフロントを押しあげている。そういう流川自身も、とっくに硬く充血していて痛いくらいだった。
 互いに着衣を緩め終わると、当たり前のことだが兆したものが二本、ふたりの前にぽろりと顔を出す。流川は興奮でぼんやりとした頭の片隅で、男同士はわかりやすくていい、と場違いに即物的なことを思った。自分の興奮も相手の興奮も目に見えてはっきりと分かるし、取り繕うすべもない。
 三井も似たようなことを考えていたのか、ふっと唇を緩めて笑ったあと「そういえばさ」と首を傾げて流川を見た。
「お前、男同士でやったことあんの」
「ねーっす。……先輩は?」
「俺もねーよ」
 あたりめーだろ、と三井が口を尖らせる。それを聞いた流川が「ほんとすか」と目を輝かせると、三井は呆れたように眉をあげ、流川の頭をばちんと叩いた。
「いてっ」
「俺をなんだと思ってんだ、お前」
「いや、だって……先輩、男にモテるし」
「嬉しくねーわ」
 三井の言い分はもっともだ。流川は「すんません」と素直に頭をさげ、それから上目遣いにその呆れ顔を見あげた。
「……なんだよ」
「続き、いーっすか」
「続きってさ、どこまでやる気してんの」
「とりあえず、お互いヌきあっ――いてっ」
 三井がまた流川の頭をばちんと叩く。そして、なにか信じられないものを見てしまったとでも言いたげな顔をして怒鳴った。
「やめろよっ、お前その顔でヌくとかコくとかさあ! ダメだわ!」
「……え?」
「ヤダわぁ、なんかヤダ」
「理不尽っす……」
「いや、でもよお……。なんつうの、アイドルがウンコしねーみてえなさあ、あるじゃん」
 その言葉に、今度は流川が呆れる番だ。
「俺、アイドルじゃねー」
「わかってるよ」
 そう言いつつも、三井はやはり煮えきらない顔で「でもなあ」と言い募った。その顔を両手でしっかりと包み、ぐいと額を突き合わせるように自分の顔を寄せて言う。
「……先輩、ほんと俺の顔好きなんすね」
 言ったそばから、目の前の顔にみるみる血がのぼった。焦点があわないほど近くで、意外なほどおおきな焦げ茶色の瞳がうろうろと彷徨う。
「……じ、自意識過剰」
「ほんとすか。俺の勘違い?」
 三井の言い逃れにそう囁き返し、ゆっくりと瞬きをしながら上目遣いに彷徨う瞳を追いかけ、じっと覗き込んだ。この顔をすると、どんな撮影でも一発でオッケーが出るのはすでに学習済みである。昼間はほとほとうんざりとしながら臨んだ女性向け雑誌のグラビア撮影も、こんなときに妙なかたちで役に立つものだ。
 そしてやはり三井も例に漏れず、ちいさな声で「降参」と呟いた。
「てことは、やっぱり俺の顔好き?」
「――っ、ああ、そのとおりだよ!」
 にゃろう、と憎々しげに吐き捨てた三井が、真っ赤な顔で流川を睨み返す。
「俺の眼鏡に適ったんだ、せいぜい自慢しとけこの馬鹿!」
 と、そんな捨て台詞までついてきた。その台詞があまりに三井らしくて、自慢の決め顔もそうそうに崩れる。
「……にやにやしてんじゃねー」
「すんません」
「ちくしょー。ムカつくぜ、ほんと」
 なおもぶつくさと文句を言い続ける三井だったが、流川もそろそろ限界だった。三井の目を盗むように手を滑らせ、そっと眼下の下生えに指を絡ませる。
「――あ、っ」
 待て、と焦ったようなような声が流川の侵略を咎めた。けれど、もう止められそうにない。まだ柔らかいが確かに芯のあるそこを右手に捉え、自分のそれと重ねてゆっくりと扱きあげる。
「あ、まて、この」
「もう待てねー」
「言うこときけ、この馬鹿っ……!」
 返事のかわりに先端を親指でぐりぐりと撫でると、三井の体が小刻みに跳ねた。鼻にかかった短い声が噛み締められた唇の合間からこぼれ、眉間に悩ましげな皺が寄る。
「声、ちゃんと聞きてーっす」
「生意気っ、言うな……っ、この、っあ!」
 負けず嫌いが口を開いた隙を見計らって手の動きをはやめると、三井はまんまと体をのけぞらせながら無防備に喘いだ。このチャンスを逃すまいと空いていた左手を三井の頬に添え、親指で強引に唇を割り開く。
「あ、あーっ、や、っ……!」
 咥内にねじこんだ親指で歯列をなぞりながら、ぽろぽろと野放図にこぼれ出した嬌声に聞き入る。右手のなかで重なり合ったそれらがますます質量を増し、流川の喉からも唸るような声が堪えきれぬままこぼれた。
「せんぱい……やば、きもち……」
 そのまま緩急もつけず扱き続けると、流川のしたにある脚が快感に反発するように強張り、がくがくと不随意に跳ねあがる。
「や、や、まてって、も……っ!」
 三井が悲痛な声をあげながら、流川の右手を弱々しく引っ掻いた。その縋るような仕草にまた煽られ、衝動のまま唇を重ねる。
 息継ぎの合間、あ、と三井が一際高い声をあげた。擦りあげる手のひらに二人分の先走りのぬめりを感じ、流川もいよいよ絶頂感に腰の震えを止められなくなる。
「あ、せんぱい、おれ、もう……っ!」
「うあ、ん、っ、あー……っ!」
 二人分のあけすけな喘ぎがだだっ広いだけのリビングに響いた。視界が白く霞みはじめ、全身に恐ろしいほどの幸福感が染み渡る。
 あ、と、引絞ったような悲鳴。
 糸を切ったように脱力した三井の体が、すべてを投げ打つように流川の胸へ飛び込んできた。その幸福な重みを余さず受け止め、汚れていない左手で逃さないように抱き締める。
 流川の中にいるこんなときでも冷静な自分が、酔った勢い、と心の中で呟いた。酔に任せて隅々まで馬鹿になったもうひとりの自分が、ヤったもん勝ち、とつくづく馬鹿なことを呟く。
 どっちでもいい、ともうひとりの自分。
 どちらにせよ、今後一切宮城に頭があがらないことだけは確実である。
 

 シャワーを浴びて冷静になってしまえば、きっと殴られるか罵られるか、それが後悔にせよ照れ隠しにせよ、とにかくなにがしかの痛みは覚悟せねばと思っていた。
 流川がわずかばかりの執行猶予を得たくらいの開き直った気持ちでベッドに寝そべっていると、寝室の扉が思いのほか普通に開き、これまた思いのほか普通の顔をした三井がタオルで髪を拭きながら入ってくる。
「――おお、広いじゃん」
 その感心したような声に、肩透かしを食ってぱちぱちと目を瞬く。
「すげー、これキングサイズ?」
「そうっすけど……」
「うわ、高そー」
 三井はあっけらかんと言うと、なんの躊躇いもなくベッドに乗りあげ、流川の横にあぐらをかいて座った。貸したスウェットもきちんと身に着け、手元には冷蔵庫から勝手に拝借したものと思しき炭酸水のボトルまである。
「……先輩、あの」
「あんだよ。――あ、悪ぃな。冷蔵庫勝手に開けちまったわ」
「いや、それは全然いーんすけど」
 流川も起きあがってあぐらを組み、話し合いの姿勢を取った。自分で言うのもなんだが、ずいぶん大人になったものだと思う。高校時代などバスケの事以外は道端の雑草ほどにも興味がなく、特に一年生の頃などは皮肉や喧嘩の売り買い以外チームメイトとさえろくに会話を交わさなかった。
「あの、俺、ほんとに先輩のこと好きっす」
 酔った勢いでの事故とは思われたくなくて、念を押すように言った。けれど三井は何を今更、というような顔をして「さっき聞いた」とすげなく言う。
「言ったすけど……」
「じゃあいいだろ」
「よくねー」
 だんだん流川も短気が顔を出してきて、むっとしながら返した。すると三井も「なにがよくねーんだよ」とむっとしながら言う。
「俺、真面目に言ってんすけど」
「俺も真面目だよ。大真面目」
「どこが」
「どこがって、そりゃあ……」
 冗談で男にチンコ握らせっかよ。
 と、三井。
 確かに、と、流川。
「だろ?」
「まあ、はい」
「じゃあいいじゃねーか」
 三井はそう言うと眠たげに瞼を擦りながら横たわり、流川に背を向ける格好で掛け布団へと包まってしまった。その姿を呆然と眺めていた流川だったが、三井の横顔を眺めているうちに気付いたことがある。
「……先輩、まさか、照れてんすか?」
 ぽつりと言って、その言葉を確かめるために自分ももぞもぞと布団に包まった。じっと頑なに背を向けたままの三井を後ろから抱き込み、真っ赤に染まった耳をまじまじと見る。
「やっぱ照れてる」
「……うるせー」
「先輩、いーにおいする」
「しねーよ」
「する」
「しねーよ、馬鹿」
 子供のように馬鹿馬鹿と繰り返す三井の首筋に顔を埋め、馬鹿でいーっす、と減らず口を叩いた。宮城が言ったように、素面の三井はとんでもないへそ曲がりなのだ。
 しばらくして、三井がぽつりと言った。
「……俺、もうしばらく酒はいーや。辞める」
「ここで飲めば」
「辞めるっつったろ」
「外で飲むのだけ辞めれば」
「……お前なあ」
「だって、また見てー。俺の顔見てデレデレする先輩」
 流川が言うと、三井はとうとう無言になった。ただただ耳だけが赤い。
「……先輩ってほんと、面食いっすね」
 しみじみと言った流川の言葉に、るせー、と三井が力無く返す。自分で言うな、と笑われるかと思って言った流川なりの冗談だったので、これは想定外だ。
 三井はどうも、ほんとうに流川の顔が好きで好きでたまらないらしい。
 これは宮城だけでなく、この顔に産んでくれた両親にもいよいよ頭があがらなくなりそうだと、妙な気分で目の前の真っ赤な耳をしみじみ見つめた流川なのだった。

2020.11.26