恋を知らないのは、そんなにいけないことなのだろうか。
この世はラブソングに溢れている。昼休みに放送委員が流した曲は、流川のプレイリストにも入っている古い洋楽だった。
スピーカーの向こうのロックシンガーが愛を歌い、それを聴いた流川は親の仇を見るような目で青空を睨んでいる。ラブがなんだ。ピースがなんだ。クソったれ。
「うおっ……なんだそのツラ」
ぎょっとした顔をして腹の上を跨いでいったのは、三井だった。
「別に」
「ああそう」
会話とも呼べない単語を交わし、三井は流川からやや離れたフェンス際に腰掛けた。コンビニの袋を持っていたから、多分、昼食をとりにきたのだろう。
流川は抜けるようなうつくしい青空を睨んだまま、左手だけをほんの少し三井のほうへ伸ばした。
「先輩」
いっこうに呼びなれない肩書をぽつんと口先へ乗せる。
三井はつい先日バスケットボール部に出戻ってきたばかりの元不良で、その顔には出戻りにあたってしでかした諸々の行状を物語る真新しい傷あとがいくつもあった。流川の頭にだって、抜糸したての傷がまだ生々しく残っている。
こんな相談をする相手としては、多分、もっとも相応しくない相手だ。
けれど、このくらい親しくない相手のほうが、かえって気安く話せるような気もする。
「……恋ってなに」
「はあ?」
「恋ってなに。好きってなに」
「お前……病院行ったよな? 頭、まだ治ってねえのか?」
三井が怪訝そうに言った。
「違う。……どいつもこいつも、意味わかんねーことばっか言いやがるから」
「ああ?」
「どいつもこいつも、ろくに知りもしないヤツのためになんでもするとか、なんだってできるとか、すぐそんなふうに言う」
遠巻きにじろじろと眺め回されるのは、まだいい。ひそひそと噂話をされるのも、別に構わない。下駄箱に入っている手紙やプレゼントは、見る前に捨ててしまえばいい。
ただ、愛の告白、というやつだけはどうしようもなかった。
「一方的にスキとか言ってきて、断ったら泣く。泣かせたら、周りは俺が悪いって言う。殴ったわけでもねーのに」
顔も名前も知らない女に「好き」と言われて、正直に断れば「ひどい」と詰られる。
好きな人がいるわけじゃないんでしょ。
一度だけでいいから。なにも望まないから。邪魔はしないから。
そう言って追いすがる女達を、周りは「健気だ」とか「可哀相だ」とか言う。そして流川を「ひどいやつだ」と罵る。冷たくて、思いやりがなくて、傲慢で、無神経なひどい男だと言う。
「顔も知らないやつに好きって言われて、あんた誰って言ったら泣かれた。俺が悪いのか? 話したこともねーやつに好きって言われて、付き合ってくれって言われて、嫌だって言ってなにが悪いんだ?」
可哀相なのは、俺のほうだ。
顔も名前も知らない人間の一方的な気持ちを押し付けられて、泣かれて、罵られて、いったい俺がなにをしたって言うんだ。
恋とは、そんなに上等なものなのか。
恋をしている人間には、なにを置いても優しくしてやらなくちゃならないのか。
「俺を好きだって言うくせに、みんな俺の邪魔ばっかりしてくる。どいつもこいつも、俺になにかをさせたがる」
流川くんと付き合えるなら、私なんだってする。
流川くんのためなら、私なんだってできる。
流川くんのために作ったの。流川くんこれ好きかなと思って。流川くんに着てほしくて。流川くんに会いたくて。流川くん、ねえ流川くん――。
なんでもするって言ったくせに。
なんだってできるって言ったくせに。
だったら、いますぐ黙ってくれ。
放っておいてくれ。
恋とかいう得体の知れないものを、二度と押し付けないでくれ。
「――だから俺は、恋なんかしたくない。あんな面倒で自分勝手なやつらの気持ちなんか、知りたくもない。一生知らなくていい」
吐き捨てるように言って、きつく目を瞑った。珍しく沢山の言葉を喋ったせいで、頭の奥が熱を持ったように疼いている。
知らない誰かの笑い声が校庭に響く。
ずっと静かだった三井の気配がわずかに動き、コンビニの袋がガサガサと鳴った。
「お前って」
三井が言う。
「結構、ちゃんと考えてんだな」
その言葉をどう捉えればよいか分からなくて、寝転がったまま首を捻る。
「別に……」
返す言葉が見当たらず、それだけ言って黙り込んだ。
三井の気配がまた動き、まぶたに差す日差しがふっと和らぐ。不思議に思って目を開けると、すぐ横に三井の右腕があった。
「……あのよ」
流川の横にあぐらをかいた三井は、膝の上に置いた袋からおにぎりを出すと、包装フィル厶を剥きながら独り言のように言った。
「聞いたかどうか知んねーけど、俺もさ、昔はまあまあ有名人だったわけ」
言いながら、パックの野菜ジュースにぷつんとストローを刺す。
「ガキの頃からミニバスやってて、ガッコーでもよく表彰とかされて、目立っててさ。三井クン三井クンってちやほやされてきて」
いつの間にかすっかりきれいに揃っていた前歯が、手の中のおにぎりへ豪快にかぶりついた。
「……んで、中学じゃバスケ部入ってすぐレギュラー取ってよ。背もどんどん伸びたし、俺、顔もカッコいーし」
野菜ジュースをずずず、と吸い、またおにぎりに歯を立てる。
「そりゃ、モテたよ。お前ほどじゃねーけど、ラブレター貰ったり、バレンタインには他校の知らない女が校門で待ってたりとか、結構あったわけ」
三井は残りのおにぎりを口へ詰め込みながら、すぐに新しいサンドイッチの包みへと手を伸ばした。手際よくフィルムをはぎ、ソースで汚れた親指をぺろりと舐める。そのがさつな仕草が妙にキマっていて、モテた、という彼の言葉も嘘ではないのだろうな、となんとなく思った。
「付き合ってくださいって言われても、俺は断らなかった。まあ、バスケ忙しかったし、どの子とも全然続かなかったけどな」
タマゴサンドを頬張りながら、三井が肩を竦めて続ける。
「高校入ってすぐも、そんな感じだった。お前と違って男友達も結構いて、みんな俺が湘北行くって言ったから付いてきたって感じで」
と、そこで一度言葉が途切れた。
訝しく思いながら体を捻り、腕を枕にして三井のほうへ向き直った。
三井は笑っていた。笑っているようで、笑っていない。そんな感じの顔だった。
「……で、膝壊してさ」
その言葉に、みぞおちのあたりがぐっと苦しくなる。
「まあ、見事に誰も残んなかったぜ」
三井はまたからりと明るい声で笑いながら、なんでもないことのようにそう続けた。笑いながらタマゴサンドの切れ端を口に詰め込み、野菜ジュースの残りをずずっと吸い込む。なんでもないことのように。
「見てくれがよくて、なんかちょっと他より目立ってたら、多分、誰でもいいんだろ」
三井はそう言うと、その手のひらで流川の頭をそっと包んだ。
「ガキの恋なんか、そんなもんってことだ」
「……ガキの、恋」
「そんなもんに振り回されてねーで、バスケだけやってりゃいんじゃねーの、お前は」
バスケだけ。
やってりゃいんじゃねーの。
それができなかったから、このひとは、あんなふうになってしまったのだ。それができる流川が、こんなことでうだうだと悩んでいてよい道理はない。
「……うす」
流川が頷くと、三井は照れ臭そうに首の後ろを擦りながら手早くゴミをまとめ、さっさと立ち上がってしまった。その立ち姿を見上げると、太陽がちょうど彼の背中のあたりにあって、目が焼かれそうなほど眩しかった。
「先輩」
気付いたときには、そう声をかけていた。
「ああ?」
ガラの悪さが抜けきらない返事に、思わず笑いが込み上げる。
「ありがとーございました」
「……おー」
「顔、はやく治るといーっすね」
「おめーもな」
そう言ってニッと覗いた白い前歯が眩しくて、つい反射的に目を細めた。
ふっと胸の奥が熱くなる。
バスケをしていて、これはと思う好敵手を見つけたときに感じる高揚感に似ている。けれど、それとはちょっとだけ違うような気もする熱さだった。
自分の情動を持て余して首を傾げた流川の頭に、また、三井のおおきな手のひらが触れた。今度は先程よりずっと乱暴な手付きだった。
「あんま寝てばっかいねーで、授業にもちゃんと出とくんだぞ」
アンタもな、と生意気に言い返そうとして、失敗する。
「……うす」
胸の奥がじりじりと焦げるように熱い。
もしかしたらこれが、と気付くのは、もっとずっと後の話なのだが、恋、というものがもたらす感情を、流川は多分このときはじめて身を持って知ったのだった。
2020.07.19