Stop Your Sobbing

 流川は昔から、他人には見えないものを見て、聞こえない声を聞くことができる。
 父親にも母親にも、三つ年上の姉にも見えないし聞こえないというのだから、遺伝などのたぐいではないらしい。だからだろう、子供の頃からずっと変わった子だと言われ続けてきた。壁や電柱と楽し気に話し込んだり、友人だといって猫を十五匹も連れて帰ったりしては、どこの家の親でもそう思うのではないだろうか。
 流川がよく道端で見かけ、ときどきは積もる話を聞きながら話し込んだりもする薄らぼんやりとした人影は、たぶん、世間では幽霊と呼ばれるようなものだ。定かでないのは、そこまで突っ込んだ話を彼らとしたことがないせいだった。だって、アンタ死んでんの、なんて面と向かって言うのは、さすがの流川にも躊躇われる。
 もうちょっとわかりやすい姿――例えば頭から血を流しているとか、脚がないとか、包丁が刺さっているとか、そんな風情で佇んでいてくれればいいのに、彼らは一様に生きた人間たちとほとんど変わらない姿でそこにいるのだった。ほんのすこし背景が透けているだけ。困るといえば困るけれど、見るからに苦しげな姿でいられるよりはずっといいので、あまり深く考えないようにしている。
 さりとて、その力のせいで特段怖い思いをしたことはなかった。いまの世の中、見ず知らずの第三者までどうこうしてやろうと思うほど深い恨みを現世に残して死んでいくような気合の入った人間は、世間が思うほどには多くないらしい。どちらかといえば、どういうわけか生きた犬や猫などの動物たちとも言葉を交わせる恩恵のほうが大きいくらいだった。
 幽霊たちも、バスケットをしているあいだだけはなんとなく気を使ってくれているのか、コートの中にまでは入ってこない。あるいは、生きた人間の生命力だとか精神力だとかがほかより充満している空間には、なかなか入ってこられないのかもしれなかった。
 唯一の例外は、チームメイトの宮城リョータにくっついている、ちいさな人影くらいだろうか。たぶん、世間では守護霊とか背後霊とか呼ばれるやつだ。彼はよく体育館のなかを楽しそうに駆け回っているし、接触プレーで宮城が勢いよく倒されたときなどには、心配そうに近寄ってくる。そうして、肩とか尻とか、痛みそうな場所にそっと触れるようなしぐさを見せる。だから流川もときどきは人目を盗んで話をしたり、一緒に走り回ったり、これからも宮城センパイをよろしく頼みます、とか、かしこまってお願いをしてみたりもしていた。
 これはかなり珍しいケースで、たいていの人間には守護霊なんて憑いていないし、呪われたり祟られたりもしていない。最近なんだか肩が重いな、と思ったら、寺や神社よりもマッサージ屋か整体院に行くべきだ。
 そう、珍しい――はずなのだが。
「……犬?」
 と、思わず呟いてしまったのには訳がある。
 車座になってミーティングをしていた部員たちの視線が一斉に流川へ集まった。インターハイ本戦を間近に控えたとある日曜日の午後。ぴんと張りつめたような緊張感が満ちた体育館に、流川のぽつりとした場違いな呟きは思いがけずよく響いた。
「流川、どうした?」
 そう言って怪訝そうに眉を寄せたのは木暮だ。
「外に野良犬でもいたか?」
 宮城が首を伸ばして体育館の出入口を見やる。野良犬、という非日常的な単語に、桜木が反応した。
「デカいやつか!? リョーちん、見えたか!?」
「俺が知るかよ。見たのは流川だろ」
 目を輝かせて飛び出そうとする桜木の首根っこを捕まえて諫めながら、宮城が「なあ」と流川を見る。その足元で、薄らぼんやりしたちいさな人影が、おなじく薄らぼんやりとした犬――犬影?と戯れていた。犬種は分からないが、すらりとした体躯をもつ賢そうな大型犬だ。毛並みが綺麗で首輪も巻いているから、野良犬ではない。
「……すんません、なんでもねーっす」
 頭に浮かんだ言葉を飲み込み、ひょこっと頭をさげた。
「……ちっ、なぁんだ、いねーのかよ」
 肩透かしを食った桜木があからさまにがっかりとした顔をし、さては居眠りだろ、夢でも見たんか、たるんどるなぁ、としつこく絡んでくる。その赤い坊主頭におおきな拳骨が落ちた。
「いい加減にしろっ、ミーティング中だぞ!」
 と、一喝。赤木のおおきな声が響き、その場はそれでなんとか収まった。中断されていたミーティングが再開され、流川もほっと胸を撫でおろす。変わった子ねぇ、は高校生になったいまでも有効なようだ。どういうわけか、流川がどれほど奇妙な言動をしても、たいていはみな「変わった子ねぇ」か、あるいは「流川だしな」で済ませてくれる。
 そこでふと宮城の隣にいる三井へ目を留めたのは、例の犬影が彼の足元で体を丸め、前脚のうえに顎を乗せて休息の姿勢をとったためだった。あれ、と内心で首を傾げる。とうの本人は、いかにも心ここにあらず、といった感じでぼんやりとしているが、足元の犬影はそんな彼を気遣うように見あげ、ときおりぱたぱたと尻尾を上下させながらじっと丸まっていた。
 犬の守護霊なんて、はじめて見る。
 流川は驚きにぱちぱちと目を瞬き、三井の足元でおとなしく丸まっている犬影をじっと見つめた。視線がぶつかり、流川はまたぱちぱちと目を瞬く。犬影が口を開いた。
『わふ』
 と、人の耳にはそう聞こえる。流川は「なるほど」と唇だけを動かしてちいさく頷き、視線をそっと彼の飼い主へ戻した。

 流川の足元を駆け抜けてゆくおおきな影。その影を目で追いながらドリブルをして、リングのふちにボールを置いた。ああくそ、と悔しがる三井のいつになく弱弱しい声を聞ききながら膝を屈め、ネットをくぐって床へ落ちたボールに飛びかかって楽しげに跳ね回っている影をじっと見つめる。
 全体的に薄らぼんやりとはしているが、目を凝らして見ると、鼻づらと胸元、脚の先っぽだけが白く、あとの毛並みはどこも真っ黒くて長くてつやつやとしている。上品で、うつくしい犬だ。昨今よく見かける小型の室内犬に比べればずいぶんとおおきく見えるが、すらりとしているからそこまで威圧感はない。
「……いつにもましてボーっとしてやがんな」
 肩で息をしている三井に、棘のある口調でよそ見を咎められた。そういう三井も、いつにもまして足が重いように見える。
「センパイこそ、ダイジョーブっすか」
「なにが」
「寝てねーのか、食ってねーのか、どっち」
「……はあ?」
「具合、わりーんでしょ」
 流川のぼそぼそとした呟きを、離れたところにいた宮城が耳聡く聞きつけた。
「ちょっと三井サン、練習中にまで倒れねーでくださいよ!」
「るせーっ! 黙って走ってろ、このクソチビっ!」
 三井がそう怒鳴ると、宮城も「心配してやってんでしょーが!」と怒鳴り返す。宮城はつい先程まで行われていた紅白戦の最中にもこの調子で桜木とじゃれあって、そのせいでいま体育館の壁から壁へと罰走をさせられているのだった。よくやる、と心の中で呟き、ため息をつく。
「顔、真っ白」
 流川が言うと、三井はもの言いたげに口を開いたあと、なにかを堪えるようにぐっと唇を引き結んで押し黙った。自覚はあったのだろう。三井は無言のまま俯くと、練習着の襟で乱暴に顔の汗を拭って「平気だ」と短く答えた。流川もむっとなって、すぐに「嘘つけ」と返す。
 すると、三井の足元で不意に犬影が鳴いた。
『ばうっ!』
 その鳴き声にひしひしと滲んだ怒りに、ぎょっとしながら慌てて言い返す。
「いじめてねー」
『ばうふ』
「違うって」
『くうん』
「怒ってもねー」
 いじめているのでも怒っているのでもなくて、これでもいちおう彼を心配しているのだ。その辺の区別は犬にはちょっと難しいだろうが――と思ったところで、はっとする。
「……お前、誰と喋ってんだ」
 ばっと勢いよく顔をあげると、怪訝、を絵に描いたような表情で自分を見つめる三井の姿があった。
『わふ』
 次の瞬間、勝ち誇ったように犬影が鳴いた。その顔には、人間ならば、したり顔、といったような感じの表情が浮かんでいる。ざまあみろ、恥かいたな。と、そんな感じの顔だ。
 どうやらこの犬影は、自分がもうこの世の存在でないことに気が付いているらしい。にゃろう、と睨みつけてやったが、犬影はもう主人をいじめる憎たらしい男のことなど眼中にないようで、嬉しそうに『くうん』と喉を鳴らしながらふさふさの尻尾をちぎれんばかりに振りたくり、褒めて、褒めて、と全身で訴えながら三井を見上げている。
 その姿に、ぎゅう、と心臓のあたりを鷲掴みにされた。
 そんなことをしたって、気付いてはもらえないと分かっているはずなのに。
 二度と撫でてはもらえないと、分かっているはずなのに。
「……センパイ、犬、飼ってたっすか」
 一度は小憎たらしいとさえ思った犬影の、そのあまりに健気な横顔をじっと睨みながら言った。つい、言ってしまった。
「黒と白の、毛が長くておっきい犬」
 重ねてそう問いかけると、三井は「なんで」と呟き、驚いたような顔で流川を見た。
「そいつが、アンタのこといじめんなって、俺に言った」
 流川の言葉に、三井の両目が見開かれる。そして、見開かれた瞳のうえになみなみと薄い水の膜が張った。
 ――まずい。このひと、泣く。
 と、流川は慌てた。三井が体育館のど真ん中で泣きだしたりなどしたら、すぐに桜木あたりが気付いてすわ何事かと大騒ぎになるに違いなかった。咄嗟に三井の腕を掴み「保健室!」と叫んで廊下へ飛び出す。そのままずんずんと大股で薄暗い廊下を進み、目についた空き教室へ三井を押し込んだ。追手はこない。流川のいつにない剣幕を見て呆気にとられたのか、あるいは、ふたりのやりとりを聞いていたらしい宮城が取りなしたのか。定かではないが、助かった。
 ようやくほっと胸を撫でおろして、埃臭い床にしゃがみ込んだ。使い古された古い地球儀の向こうに、また薄ぼんやりとした影がみえる。紺色の靴下を履いた細い足をたどって顔をあげると、きょとんとした顔でこちらを見下ろす丸い瞳にぶつかった。先客といえばよいのか先住民といえばよいのかは分からないが、とにかく、押しかけてしまったのは流川のほうだ。
「……おじゃまします」
 そう言ってひょこっと頭を下げると、女子生徒は『……どうぞ、ごゆっくり?』と戸惑いの滲んだ声で返し、しゃがみ込んでいる流川と呆然と立ち尽くしたままの三井を交互に見て、なにかを察したようにその姿を隠してくれた。日頃流川を追いかけ回す女子生徒たちも、彼女とおなじくらい物分りがいいと大変助かるのだが。
 ともあれ、ようやく三井とふたりきりになった。厳密にはくだんの犬影が相変わらず三井の足元で主人を守るように立ちはだかっているのだが、おおまかには、ふたりきりだ。
「……センパイ?」
 大丈夫っすか、と立ち上がって声をかけようとした、次の瞬間。
「――メイ」
 三井がぽつりと言った。犬影が嬉しそうに『わう』と鳴く。お前、メイっていうのか。
「一昨日の朝、死んだんだ。ずっと病気もしねーで、馬鹿みてーに元気だったのに。散歩行こうと思って声かけたら起きてこなくてさ、変だなと思ったら……」
 堰をきったように話しだした三井は、そこまで言うと不意に言葉を途切れさせ、下唇をきつく噛み締めて流川を見た。
 こんなとき、なんと声をかけたらいいのか分からなかった。
 他人を慰めたこともなければ、慰められたいと思ったこともない。流川はいまはじめて、口下手な自分の性情を呪った。
「……いまも、じゅーぶん元気そうっすよ」
 ようやく絞り出したその言葉に、三井がふっと顔をあげる。瞳のうえになみなみと満ちていた涙が、その拍子にぽろりと頬のうえにこぼれた。声もなく、次々と溢れる涙だけがぽろぽろと頬のうえを滑り落ちてゆく。
 もうすこし大袈裟に泣くものだと思っていたから、流川もかえって戸惑った。犬影が心配そうに三井を見上げ『くう』と鼻を鳴らす。その声が三井の耳に届くことはない。
「……センパイ。メイが『泣かねーで』って言ってる」
 戸惑いながらそう告げると、三井はますます感極まった様子で「ううっ」と唸るような声をあげ、その場に蹲って泣きはじめた。わんわん、とか、しくしく、とか、そういうありふれた擬音では表せないような、悲愴な泣き声だった。
 目の前で女子に泣かれたことなら何度もある。けれど、自分の言動のせいで男を泣かせてしまったのははじめてだった。こんなふうに苦しげな泣き方をされるのだってはじめてだ。同情を誘おうとか、人目を惹こうとかいう意図が一切ない、押し殺された苦しげな泣き声。見ているこちらまでつられて泣きたくなるような泣き声だ。
「センパイ、泣かねーで」
 流川はそのおおきな体躯を窮屈に丸め、おろおろと三井の顔を覗き込んだ。
「ずっと、ずっと一緒だったんだ……俺、兄弟いねーから、弟、だと思って……」
 三井は両手で顔を覆い、ときおりひきつけを起こしたようにしゃくりあげながら呻くように言葉を絞り出した。
「自主練も、ロードも、いっつも一緒だったのに。俺、バカやってた頃は全然家に帰んねーで、散歩にも行ってやんなかった」
「うん」
「ひでーことした。ひでー兄貴だったのに……」
「そんなことねーって言ってる」
「メイが?」
「うん」
「……それって、霊感ってやつ?」
 れーかん、とおうむ返しに呟く。れーかん――霊感。
「さあ?」
「さあ、ってなんだよ」
 眉を寄せて首を傾げた流川を見て、三井がぷっと吹き出した。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔が、泣いているのだか笑っているのだか分からない、不思議な表情になる。流川はその不思議な表情をじっと見つめながら、これまであまり深く考えてこなかった自分の能力に思いを馳せた。
「……霊だけじゃねー」
「見えるのが?」
「そー。他にもいろいろ聞こえる」
「他ってなんだよ」
「犬とか猫とか」
「はあ? どーぶつと喋れるっつーことか?」
「うん」
 流川が頷くと、三井は感心したように「へえ」と呟き、濡れそぼった頬を手のひらで拭いながら笑った。
「すげーな。冝保愛子かよ」
「誰それ」
「有名じゃん。知らねーの?」
「テレビ見ねーし」
「そうかよ」
 自分で聞いておいて、その実さほど深く追及するつもりもなさそうである。三井はぐずぐずと鼻を鳴らすと、睫毛に溜まった雫を振り落とすようにぱちぱちと目を瞬いてから、どことなく照れ臭そうに笑いながら言った。
「サンキューな、流川」
 その言葉に、今度は流川のほうが驚きに目を瞬いた。見たことのないたぐいの笑顔と、涙に濡れた頬。雫をひっかけた長い睫毛。こんな顔をするひとだっただろうか、と首を捻る。
「……なにが」
「いや、そこはまあ、色々」
「色々って?」
「――色々っつったら色々だよ!」
 察しろよな、と下唇を尖らせた三井は、もうすっかりいつも通りの偉そうで騒がしい上級生の顔に戻っている。その横に座ったメイが、長い鼻先を持ちあげて流川を見た。
『わう』
「……どーいたしまして」
「なんだよ、急に素直になりやがって」
「いや、センパイじゃなくて」
『わふ』
 メイが嬉しそうに鳴き、三井の頬をペロペロと舐める。その顔中をひとしきり舐め終わると、今度は流川の前に座り、短い謝辞とともに流川の指先を一度だけペロリと舐めた。
「おー」
『くうん』
「まあ、それは」
『きゃうん?』
「……うるせー」
 ほっとけ、と目の前のしたり顔に悪態をつく。犬のくせに、主人に似て妙に表情の豊かなやつだ。そのうえ、どうも流川をやや下に見ているらしかった。
「おい、なに喋ってんだよ。メイなんつってる?」
 三井がそわそわと体を揺らしながら言った。流川はぐっと言葉に詰まり、メイは相変わらずしたり顔で、どこか偉そうに流川を見上げている。言えるもんなら言ってみな。と、そんな顔だ。どこまでも主人によく似た犬である。
「……ひみつ」
「ああ!?」
「ひみつ。メイと俺のひみつ」
「ずりーっ、クソ、教えろよ!」
「いやっす」
 言えっ、と掴みかかってくる三井の腕を躱しながら、メイの犬にしては悪趣味な冷やかしを聞いた。悪趣味で、下品で、一言余計で、ほんとうに主人そっくりの犬である。
 いわく、彼のご主人様にはまだつがいがいないので、欲しいのならば早い者勝ちなのだそうだ。余計なお世話には違いなかったが、ほんの僅か、それはいいことを聞いた、と、思わないでもない流川なのだった。

2020.08.05

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