地中海の真っ青な空と海に網膜を焼かれながら飲むワインはすこぶる旨い。肴は数年先までみっしりと埋まったスケジュールだ。
『俺なら気が滅入ってしょうがねえけど』
「はは、人気者は違うな」
『お前が言うなよ』
電話越しに軽妙な笑い声が響く。相手は――誰だったか。俳優仲間なのは間違いないが、酔っぱらいの長電話に快く応じてくれるほど暇な知り合いの心当たりはない。我ながら酷いな、とぐるぐる回る頭の隅で思った。おまえは酷い男だ、セバスチャン。数少ない友人の区別もつかないなんて――ともかく、酔いに任せて履歴の一覧から適当に選んだ誰かだ。その誰かさんは、セバスチャンの支離滅裂な話を根気強く聞いてくれた。
「忙しくしてるほうが落ち着くんだよ。孤独は敵だ」
『彼女は?』
「いない。いたってどうせすぐに捨てられるし」
『捨てられない努力をしろよ』
「うるさいな、その手のお説教なら聞き飽きたぜ」
親切な誰かさんに噛みつき、覚束ない手つきでボトルを傾ける。勢いよく注がれた赤ワインがグラスの中でおおきく波打ち、セバスチャンのバスローブを赤黒く染めた。行儀悪く舌を打つと、電話の向こうで笑いを噛み殺した気配がする。短絡的な酔っぱらいはむっとして、けれど言い返すことはせずビーチチェアの背もたれをぎしぎしと軋ませた。
「……寂しい」
言葉にしてみるとたったのそれだけ、なのだ。それだけのことがセバスチャンを追い詰めている。
『外に出ろよ。なんたって、お前のグルーピーは世界中どこにだっているからな』
「そういうんじゃない。……わかるだろ?」
なぜそう思うのかは分からないけれど、彼ならこの気持ちを理解してくれるはずだという確信があった。すがるように同意を求めたセバスチャンを、しばしの辛い沈黙が襲う。――いますぐこの電話を切るべきだ。なぜか唐突にそう思った。けれど、セバスチャンのわずかに戻った正気を奪うように彼は言った。
『……マジな話、俺って実は魔法使いなんだ』
重い睫毛を何度か上下させ、セバスチャンは聞き慣れないその単語をむぐむぐと復唱した。
「魔法使い」
『そう、魔法使い』
「ああそう。……魔法使いかあ」
『信じてねえな』
だって、魔法使いの知り合いなんていただろうか。ベネディクト・カンバーバッチ? トム・ヒドルストン? ――二人ともお手本のようなイギリス人だ。間違っても薬中のアメリカ人みたいな酷いジョークを口にするタイプじゃない。
「――あ、わかった。ハリー・ポッターの新作?」
『今からでも間に合うんならぜひ出たいもんだ』
精一杯の切り返しを軽くいなされ、セバスチャンはまたお気に入りのビーチチェアへ沈みこんだ。温いワインで口を湿らせ、魔法使いだという彼の言葉をもう一度反芻する。魔法使い。――悪魔の間違いではなくて?
『正真正銘の魔法使いだ、失礼な奴め』
魔法使いは高い声で笑い、それからすこし尊大な調子で言った。
『お前、こないだ誕生日だったろ。特別に何か一つ願いを叶えてやってもいい』
「……なるほど」
そう自信たっぷりに言われるとなんだか真実味があるような気もして、セバスチャンはううんと唸った。叶えてほしい願い事ならたくさんある。あの監督に撮ってもらいたいとかこの俳優と共演したいとか、明日からの撮影は晴れが続くといいな、とか。もっと大それたことを言うのなら、世界中が平和になりますように、とか。思い当たることはたくさんあるのだけれど。
「……愛されたい」
結局、セバスチャンはたったその一言だけを電話口に告げた。
『贅沢だな』
「……だって」
『まだ足りないのか?』
さっきまですこぶる陽気でフレンドリーだった魔法使いが、セバスチャンの駄々を冷ややかに切り捨てる。
『これ以上、誰に愛されたいって言うんだ?』
セバスチャンの頭にはっきりとしたイメージが浮かび、すぐに消えた。――慌てて消した。魔法使いの問いはセバスチャンの心をきつく抉り、厳重に蓋をしたはずの思いをくっきりと浮きぼりにさせる。
『――”誰に”愛されたいんだ?』
空のワインボトルが床を打った。割れずに転がり、サイドテーブルの脚にぶつかって止まる。着心地の悪い沈黙が再びセバスチャンを襲った。
セバスチャンの友人はどうやら、とても底意地の悪い魔法使いだったらしい。それを言わせるのか、と思った。俺がどんな気持ちで彼を思い、どんな気持ちですべてに蓋をしたのか。お前に何がわかる、そう言ってやりたかった。けれど、やはり言えなかった。
セバスチャンは今、年季のはいった片思いを年甲斐もなく拗らせている。相手は共演者で、脈は万に一つもない。
『――しょうがないな。わかったよ、意地悪はナシだ』
セバスチャンが何も言わずにいると、魔法使いは唐突に友人らしい気楽さを取り戻して笑った。あるいは、むずかる子供をあやす母親のような寛大さで。
『俺が正真正銘の魔法使いだってことも証明しなきゃならねえしな。――まあ、すべては明日の朝だ』
楽しみにしてな、と言い残し、魔法使いは電話を切った。残されたセバスチャンは、白昼夢のような時間を塗りつぶすように残りのワインを飲み干し、青々ときらめく地中海を呆然と眺めた。
■
この時期のNYはいつにもまして賑やかだ。見栄えを気にして選んだ薄手のコートをかきあわせ、セバスチャンは逸る気持ちそのままに微笑んだ。
「――ごめん、遅くなった」
ああ、俺が早く着きすぎたんだ、気にしないで――途中で舌が縺れたせいで、気にしないで、のあたりはきっとうまく届かなかっただろう。カウントダウンにはまだ早いけれど、タイムズスクエアはあらゆる人種と性別のカップルたちで溢れている。
「それ、寒くない?」
「クリス、君こそ随分と薄着じゃないか。……NYにはまだ慣れない?」
セバスチャンの問いに、クリス――クリス・エヴァンスが悪戯好きの子供みたいな顔で笑った。
「とっくに慣れたよ。もう四ヶ月だ」
もうそんなに経つのか、と笑い返す。四ヶ月前、セバスチャンはギリシャにいた。地中海を望むホテルのバルコニーで泥酔し、魔法使いと名乗る不思議な男と長電話をしていた。
「まさか君がNYに越してくるなんてな」
「驚いたろ? ……せっかくだから色々案内してもらおうと思ってたのに、まさかギリシャにいるなんてなあ」
「馬鹿言え、いまさら案内なんて必要ないだろ」
どちらともなく、どこへ行くでもなく歩みを進めながら、二人の間抜けな擦れ違いについて思いを馳せる。それから、あの不思議な魔法使いについても。
残された発信履歴をたどっても、彼の正体はついぞ分からなかった。直近の履歴はすべて当時撮影中だった映画のスタッフやエージェントの番号で、つまり、あれはすべて夢だったんだろうと思う。酔っぱらいが見た、都合のいい夢だ。けれど、確かにセバスチャンの願いは叶った。否、厳密にはまだ叶っていないのだけれど、たぶん、これから叶う。
「正直言うと、案内なんてただの口実さ。……俺の言いたいこと、伝わってるよな?」
クリスもセバスチャンと同じくらい浮き足立っているらしいことが、かすかに触れあった肩から伝わってくる。まるでティーンの恋愛ごっこみたいなやり取りだが、それでもセバスチャンは痛いほど胸を高鳴らせていた。
「……伝わってるよ」
やっとの思いでそれだけ告げ、足りない言葉を補うように肩をぶつける。クリスは一瞬驚いたように身を引いたけれど、すぐにまたそっと肩を触れ合わせてきた。
「――急に誘ったのに、よく空いてたな」
変わりかけた空気を誤魔化すようにクリスが笑い、セバスチャンも彼に倣った。
「独り身だしね。それに、もし空いてなくても無理矢理空けたさ。キャップからの誘いだもの」
「アベンジャーズ・アッセンブル、って?」
お互いに、言いたいこと、言うべきことから遠ざかるように下手なジョークを飛ばしあい、ぎこちなく笑う。素直になるには二人とも歳を取りすぎ、不要な分別を持ちすぎていた。
「君がいない撮影現場なんて、想像もつかないよ……」
セバスチャンがぽつりとこぼす。クリスの視線から逃れるように俯き、冗談めかして肩を竦めた。
「静かになってせいせいするって?」
「逆だよ。……寂しくなる」
俳優としても、友人としても――彼に恋する一人の男としても。この国は、偶然の再会に望みを賭けるにはあまりに広すぎる。
「――だから、NYに来たんだ」
心を読まれたのかと思うくらい、セバスチャンが心の底から欲していた言葉だった。弾かれるように顔を上げると、キャプテン・アメリカのように厳かな顔をしたクリスがセバスチャンを見つめている。
ギリシャでメッセージを受けとってからずっと、そうであればいい、そうなんじゃないか、きっとそうだと自分に言い聞かせてきた。だって、魔法使いが。誕生日だから、って。本当だった。すべては現実になったのだ。
「なあ、セブ。あのさ……」
「待って」
意を決したように切り出したクリスを遮り、セバスチャンは彼の正面に立った。クリスの顔は緊張と寒さでひどく強ばっていて、その奥には隠しきれない不安と興奮が炎のように揺らめいている。きっと自分も同じ顔をしているに違いない。
「――そこから先は俺に言わせてよ」
まるではじめてのオーディションに臨む新人俳優みたいにガチガチの顔で、けれど何度も練習した台詞だけは完璧に感情を込めて。
不意に、あの魔法使いの笑い声が聞こえた気がした。