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 校内に二つある公衆電話のうち、職員室の入り口に置かれている一台は頻繁に誰かが利用しているところを見るのだが、こちらの一台は滅多に使われている気配がない。
 一階にある保健室を通り過ぎて少し行くと、音楽室や家庭科室などが入った特別教室棟のどん詰まりに突きあたるのだが、そのちょうどそのどん詰まりにぽつねんと置かれているのだ。そのどん詰まりには公衆電話同様に利用者の少ない自動販売機と階段があって、その階段だけが屋上へと続いている。屋上と言えば不良の溜まり場の代名詞であるから、真面目に勉学へ励む一般生徒などは滅多に近寄らない場所と言ってよかった。
 そんな場所で彼に会ったのは、まったくの偶然からだ。
「――だから、何回も言ってんだろ。俺は行かねーって」
 煙草でも吸おうとなんの気なしに屋上へ向かっていた水戸は、聞きおぼえのあるその声にはたと足を止めた。
 ――三井だ。三井寿。
 三井はつい一週間ほどまえにひと騒動のすえバスケットボール部へ復帰した元不良で、水戸はそのひと騒動の最中に彼の顔をタコ殴りにしたのだった。そのうえ彼の罪を自ら引っ被って、三日間の停学処分まで食らっている。
 盗み聞きをするつもりで立ち止まったわけではないのだが、それでも、結果的にそういう格好になってしまった。屋上へ向かうにはどうしても彼が使っている公衆電話の前を通らねばならない。水戸のほうはそれほど気まずくもないのだけれど、三井のほうはどうだろう。水戸が気を遣ってやる義理はないはずなのに、ふいにほんの僅か気が咎めて、思わず足を止めてしまったのだ。
「知らねーよっ! ……うん、だから、バスケ部の練習があんだって」
 三井は水戸の気配に気付いていないようで、苛立たしげに体を揺すりながら受話器に向かって語気を荒らげている。
「もう二度と辞めねーし、休まねえ。そういう話なら、もう切っから」
 そう吐き捨てるように言うと、三井は叩きつけるように受話器を置いた。
 時刻は午後の一時を半分ほど回ったところで、授業もとっくにはじまっている。だから当然あたりは静かで、怒りに震える三井の長いため息だけが静寂のなかにひときわおおきく響いた。
 声をかけるべきか、黙って立ち去るべきか。
 どちらにせよ、煙草は吸いそびれてしまいそうである。
「……荒れてんね、三井サン」
 結局水戸は、声をかける方を選んだ。
「――お前っ……!」
 弾かれたように顔をあげた三井は、驚きと怒りが綯交ぜになったような顔で水戸を睨んだ。誰にも聞かれたくない話だったのだろう。
「ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
 そう言って、ポケットから潰れたセブンスターのソフトパックを出した。顔の横で軽く振って見せれば、三井も納得したように警戒を解く。
「サボりか」
「そう。天気いいしね」
 笑いながら肩を竦め「三井サンは?」と軽い調子で尋ねた。電話をしていたのだということは見ていたからもちろん知っているのだが、いわゆる社交辞令だ。
 三井は諦めたようにゆるゆると息を吐くと、案の定「見りゃわかんだろ」と投げやりに言った。
「電話だよ、電話」
「ふうん。親御さんと?」
「……ああ、そうだよ」
 ますます投げやりに吐き捨てた三井は、がりがりと頭を掻きながら「おふくろ」と続けた。
「おふくろさんか。心配したでしょ、その顔」
 そう言って、まだ青痣やかさぶたが残る顔を指さす。仮歯だろうか、欠けた前歯の穴は早々に埋めたようだけれど、腫れが引いて青黒さを増した痣と、ところどころ縫合の跡も見える切り傷の数々は、喧嘩慣れした男の目にも痛々しく映った。長らく彼の横顔を覆っていた長髪がきれいさっぱり失われてしまったものだから、余計に。
 水戸の言葉に、三井は少し意表を突かれたような顔をした。けれどその顔はすぐに引っ込み、不機嫌そうなしかめっ面に変わる。
「……別に」
「そっか」
 そう相槌を打ちながら手の中のパックを軽く振り、火のついていない煙草を一本くわえた。そのまま公衆電話の横にある自販機でブラックと微糖の缶コーヒーを一本ずつ買い、微糖のほうを三井へ投げて渡す。三井はそれを両手で危なげなく受け取り、困ったような怒ったような、あるいは、途方に暮れたような複雑な表情で水戸を見た。
「三井サンもサボるでしょ?」
 深々と刻まれた眉間の皺に向かってそう笑いかけると、三井はぎょっとしたように目を見開き、信じられないものを見るように水戸の顔を見返してくる。その瞳の思いがけない丸さに、水戸もほんのすこしだけ驚いた。
「……お前、変わってるって言われねえ?」
 驚きに丸められていた瞳に、警戒心の滲んだ険が戻る。あれだけ突っ張っていたくせに、ずいぶんと感情表現が素直なひとだ。水戸は込み上げる笑いを奥歯でじっくりと噛み殺しながら、肩を竦めて階段をのぼった。
「言われないねえ。ほら、普段もっと変わったヤツとツルんでるからさ」
 人差し指を立てて明るく言うと、三井も納得したように「桜木か」とつぶやく。そうそう、と笑い返し、階段の下で立ち尽くしたままの三井を手招いた。
「コーヒーのお礼だと思って、一服付き合ってよ」
 ね、と気安く声をかけると、三井はすこしの逡巡を見せたあと、その長い脚を階段の一段目にかけながら念を押すように言った。
「言っとくけど、俺ァ吸わねえからな」
「へえ。禁煙中?」
「元々吸ってねえよ。……飲む打つはやったけど、煙草だけはやってねえ」
 丸い瞳でじっと水戸を見上げながら静かに告げられたその言葉に、ふと、心臓のあたりが引き絞られるように短く痛んだ。
 たかが煙草。たかがと思うから水戸も嗜みのように吸いはじめて、そのうちまんまと辞められなくなった。不良少年なんてものをやっていれば周りもみな当たり前のように吸っているし、未成年だからとか体に悪いからとか、そんな決まり文句は誰も気に留めない。誘惑は多く、流されるのは簡単だったはずだ。
 バスケがしたいです、と泣いて頽れた彼の姿が脳裏に蘇る。その言葉がほんとうに只々純粋な真実を映した彼の胸の内そのものなのだと、いまようやく実感が湧いたような気がしていた。たかが煙草、されど煙草。それはたぶん、彼にとっては捨てきれないバスケへの未練の象徴だった。
「三井サン――」
 思わずその名前を呼んでしまってから、自分には彼にかけるべき言葉の持ち合わせがないことに気付く。偉かったね、とか、頑張ったね、なんて言えるような立場じゃない。愛が憎しみに変わるほどなにかに思い入れを持ったこともないし、折れて困るようなプライドを持ったこともない水戸がなにを言ったところで、それはただのお為ごかしにすぎない。
「――煙草、辞めよっかな」
 と、ついそんな言葉が口をついた。思ってもみないことだ。
「……ほら、花道もスポーツマンになったことだし。この際、ね」
 内心のゆらぎを誤魔化すようにそう続け、肩を竦めて笑う。唐突なその宣言に毒気を抜かれたのか、三井も吹き出すように笑った。
「バァカ、出来もしねーこと言うなっつの」
 階段というロケーションのおかげで、その笑顔を上から見下ろす格好になる。その笑顔の思いがけない幼さに、また驚いた。出会いが出会いだったせいか、もっと険のある、大人びた顔立ちのひとだと思い込んでいたのだ。あのときは歯もなかったし、なんて自分に言い訳をしながら、ゆっくりと階段をのぼる。
「確かに、無理かも。もう三年も吸ってるし」
「三年、って……中一からか? そいつは気合入ってんな」
「ウチの母親が超のつくヘビースモーカーでさ。遺伝だね、こりゃあ」
 水戸は顔も雰囲気も、声変わりをする前は声と喋り方まで母親に瓜二つで、そのうえ彼女は元暴走族の女総長ときたものだから、グレたところまで筋金入りの母親似なのだった。苦笑しながら咥えていた煙草をパックへ戻し、またゆっくりと階段をのぼる。この踊り場を過ぎれば、ゴールはもうすぐだ。
 屋上へ続く重い金属扉を押し開けると、錆びた鉄の匂いを纏った初夏の風がぶわりと丈の短い学ランを煽った。
「いい風だね」
 そう言って、後ろの三井を振り返る。三井の短い前髪が風に遊び、生え際に残った絆創膏が露わになる。その姿にわずかばかり目を細めてから、広い屋上の縁へと足を向けた。淡い緑色のフェンスに背中を預け、手の中でいくぶん温んだ缶コーヒーのプルタブをあげる。三井も水戸の足元へしゃがみこんで、同じようにプルタブをあげた。グラウンドの砂埃の匂いに混じって、コーヒーの香りが鼻先を擽る。
 ややあって、三井の低い声が言った。
「……なあ。さっきの電話、どっから聞いてた」
 そのどこか探るような空気が混じった問いかけに、水戸は聞いたままを答えた。
「バスケの練習あるから行かねーとか辞めねーとか言ってたあたりかな。ほんと、終わり際のちょっとだけしか聞いてないよ」
 水戸が言うと、三井は「ああ、そう」と上の空に返し、折りたたんだ長い脚のうえに頬杖をついてぼんやりと続ける。
「……お前さ、母親と仲いい?」
「まあ、悪くはないかな。最近はあんまり顔見てないけど」
 そう答えながら、足元にある素直な形のつむじを見下ろした。
 水戸の家は母子家庭で、母親は繁華街の飲食店に勤めている。昔は水商売をしていたようだが、水戸が物心つくにつれて昼間の職業をいくつか転々とし、最近ようやく知人がオーナーを勤めているという小料理屋の雇われ女将の職に落ち着いたようだ。
 そんな家庭環境のわりに、親子仲は比較的良い方だと思う。子供の喧嘩や悪戯以上の悪さをすればさすがに殴られたが、それ以外のことで一方的に怒鳴りつけられたり手をあげられたりしたような記憶はない。リーゼントヘアをキメて不良だ番長だと突っ張っていても、きちんと学校へ通って仲間たちと青春を謳歌しているような部類の連中は大方そうだ。花道だって片親育ちだが、父親とは歳の離れた兄弟のように仲が良かった。
 ほんとうに救いようのない育ち方をした子供は、学校なんてものには早晩通わなくなる。三井が体育館へ連れてきたような連中は、おそらく、そういった側の人間たちだ。
「――ウチ、親父が他所に女作ってるらしくてさ」
 三井が言った。その声には、独り言のようなぽつねんとした響きがある。
「結構いいトコ勤めてるみてえで……なんつうのかな。出世とか世間体とか、お互いにいろいろあるじゃん。だから、離婚はしたくねえんだって」
 その独白に、水戸はただ「へえ」とだけ言った。それ以外に言える言葉もない。三井は自嘲気味に笑うと、話題のわりに明るい声で続けた。
「まあ、ガキの頃からのことだから、もう他人だと思って諦めてんだけどさ。……中学入ったくらいかな、おふくろも当てつけみてえに男作って」
 三井の長い指に挟まれた缶コーヒーがぷらぷらと揺れる。水戸は手持無沙汰な左手をポケットへ突っ込み、そこにあったシルバーのジッポを指先でくるくると撫でた。
「本人は隠してたつもりみてえなんだけど、俺、たまたまふたりで会ってるとこ見ちまってさ」
「そりゃあ――結構キツイね」
 水戸が思わずそう口を挟むと、三井は「まあな」と笑って「それもさ」と軽い口調で続けた。
「なんと、相手が俺のクラスの担任だったわけ。やべえよな」
「……ワオ」
 と、目を見開いた水戸を見上げて、三井が開き直ったように笑う。
「もう、笑うしかねえって感じだよ」
 そうだろうな、と思いながら、手元の缶に口を付けた。水戸も彼と同じように笑って、子供の頃から繰り返し経験した光景を思い浮かべる。
「なんとなく分かるよ、その気持ち。……俺ンちは母さんしかいねえんだけど、母さんの彼氏見んのって、なんか妙に気まずいんだよね」
 水戸も、母親の親しい友人だという男とも、彼氏だという男とも何度か顔を合わせたことがある。彼女の幸せを願う一方で、言いようのない気まずさはどうしても拭えなかった。子供にとって、それだけ母親が特別だということなのだろう。
 三井は疲れたように眉を下げて笑い、空を仰いで言った。
「……いま思えば、あんときグレときゃよかったんだよな」
 と、しみじみ呟かれた言葉がおかしくて、つい笑みがこぼれる。その言葉には、グレようとしてグレた人間の生真面目な不器用さがにじみ出ていた。特別なきっかけもなく、いつのまにか引かれたレールの上を歩むようにグレていただけの水戸には推し量れない心境だ。
「おふくろの顔はまともに見れねーし、家にいんのもヤでさ。もう俺にはバスケしかねーって感じで、毎日毎日朝っぱらからクソ真面目に体育館行ってバスケばっかやってたわけ。……ほんと、バスケしかなかったんだよ」
 そう途切れがち言葉を繋ぐ三井は、普段よりひとまわりもふたまわりもちいさく見える。三井は何度か眩しそうに瞬きをしてから、太陽を睨むように眉根を寄せて言った。
「……おふくろはさ、俺がバスケ続けんの、反対なんだ」
「なんで」
 水戸はぎょっとしながら反射的にそう問い返した。三井は困ったように笑って水戸を見上げ、また何度かせわしなく瞬きをする。それからちょっと恥ずかしそうに唇を引き結び、逃げるように顔を伏せて「辞めねーよ」と言った。
「俺は辞めるつもりねーし、はっきり辞めろって言われたわけでもねーんだけど。……なんとなくわかるだろ、そういうの。いまからでも予備校行って、真面目に勉強して、世間様に自慢できるようないい大学に行ってほしーんだって。ほんとは高校だって、湘北じゃなくて、翔陽とか陵南みてーな私学のイイトコ行って欲しかったらしいし」
 無理に決まってんのにな、と自嘲気味に笑った三井は、片手で顔を覆い、疲れ切ったような長いため息をついた。
「さっきのもそれ。練習で遅くなっからって電話したら、予備校の体験入学がどうとか、資料がどうとか。うるせーったらねえよ」
 吐き捨てるようなその言葉に、水戸はなにも言い返すことが出来なかった。おふくろさんも心配してんだよ、とか、三井サンのこと思って言ってんだよ、とか、そういう月並みな慰めはかえって彼を追い詰めるような気がしたのだ。
 水戸はフェンスに寄り掛かったままゆっくりと腰をおろし、三井に倣ってしゃがみ込んだ。膝の上に頬杖をついて隣の三年生を見つめ、思いついた言葉をそのまま舌の先に乗せる。
「……俺は、バスケしてる三井サンのほうが好きだよ」
 水戸も謹慎から明けたばかりで、そう何度も体育館で彼の姿を見たわけではない。けれど、告げた言葉に嘘はなかった。素人である水戸がほんのわずかな時間眺めただけでも、三井がほんとうにかつて天才と呼ばれた男だったのだということはよく分かった。それに、なによりあの「バスケがしたいです」と言った泣き顔が、いまでも目に焼き付いて離れない。したいならすればいい。ここまできたら、あとはもうやりたいように、気が済むまでやってほしい。
 伏せられていた三井の顔がゆっくりと持ち上がり、存外に大きな両目が水戸の顔を捕らえた。黒々とした瞳孔を、柔らかな茶色の虹彩が取り巻いている。くっきりとした二重瞼に、とりたてて長くはないけれど密度の高い睫毛。すらりと高いのにごつごつとはしていないまっすぐな鼻。つんと主張した柔らかそうな唇。
 この顔を殴っちまったのか、と不意に思った。
 そう思いながらも目を逸らせずにいたら、三井がふっとその唇を緩め、照れ臭そうに笑って言う。
「――ありがとうな、水戸」
「……なにが」
「いろいろだよ、いろいろ。今日のこととかこないだのこととか、ぜんぶ」
 そう言われた水戸は、悪かった、と言われなくてよかった、と漠然と思った。謝られなくてよかった。恩に着せたかったわけでもないし、彼に負い目に思って欲しくもない。背負う重荷は少ないほうがいい。
「じゃ、お礼はインターハイ出場権ってことで、ひとつ」
 湿っぽい空気を吹き飛ばすようにおどけて言った。三井もつられたように声をあげて笑い「図々しいやつ」と肘で水戸を突いた。
「せいぜい稼いどけよ。今年のインハイは広島だぜ」
「遠いなあ」
「……そうだな。遠いな」
 そう言って遠い目をした横顔を見つめる。その傷だらけの横顔が、なぜか水戸の視線を捉えて離さなかった。

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