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 汗でほどけた赤色のリーゼントを苦笑混じりに眺めていると、三井と桜木のほかには誰もいない放課後の部室に、突然の来訪者があった。
「……ありゃ」
 と、そう言って慌てたように口をつぐんだのは、水戸だ。――水戸洋平。桜木の親友で、恐ろしく喧嘩の強い一年坊主。三井にとっては一生頭の上がらない相手だ。彼の機転がなければ、三井の処遇はおろかバスケ部の存続まで危うかった。水戸にしてみればあれは親友の桜木が所属するバスケ部を守るためにとった咄嗟の行動で、三井のバスケ部復帰はあくまでオマケのようなものなのだろう。それでも、三井は救われた。感謝してもしきれない相手だ。
「コイツに用か?」
 しゃがんだまま指で床を示すと、水戸は困ったように眉を下げて笑った。三井の足元で、桜木が毛皮のカーペットのように伸びている。健やかを絵に描いたような寝姿だ。
「花道、いつから寝てんの?」
「さあな。先着替えてろっつって体育館のカギ返しに行ってたんだが、帰ってきたらこの通りだ。蹴っても殴っても起きやしねえ」
「あー、なるほど」
 水戸はそう言いながら、桜木の脇腹を爪先で何度か小突いた。部室のど真ん中に大の字で寝そべった桜木は、相変わらずへそを出したまま気持ちよさそうに寝息を立てている。
「三井サン、もしかしてコイツの居残りに付き合ってくれたの?」
「……まあ、流れでな」
 そっか、と嬉しそうに呟く水戸に、なんとなく照れ臭くなってがしがしと頭をかいた。流れで、と言った言葉に嘘はない。三井は三井で、インターハイ予選に向け、ブランクを取り戻すために居残りでシュート練習をしていたのだが、そこへ桜木が絡んできたのだ。彼は敏腕マネージャーに課せられた基礎練習にすっかり飽きていたようで、ちょうどよいストレスの捌け口を探していたのだろう。
「花道のヤツ、アンタのことすっかり気に入ったみたいだ」
「嘘だろ? コイツ、俺んコトまだ女男って呼びやがんだぜ」
 三井がそう言って唇を尖らせると、水戸は可笑しそうに笑いながら「髪切ったのにね」と首を傾げ、肩を竦めて続けた。
「短いほうが似合うよ」
「……あっそ」
「あれ、信じてないね。ホントに思ってるのに」
 嘘かまことか、水戸が砕けた調子で言う。
 数日前、彼とふたりきりで話をする機会があった。それ以来、顔を合わせればこうして気軽に話しかけられることが増えたように思う。
 思えば、自分の身の上を誰かに話したのは、あれがはじめてだった。なぜ水戸にすべてを打ち明けてしまったのか、自分でもいまだによく分からずいる。一度完膚なきまでに叩きのめされ、恥も外聞もなく泣き崩れた姿を見られているからだろうか。あるいは、この男の持つ不思議な空気に当てられてしまったのだろうか。 
 体育館で三井を叩きのめした時の水戸には、対面しただけで背筋が凍るほどの迫力があった。けれど、あの日と同じ体育館の入り口に立って桜木を見守る姿にその面影はない。年相応よりはいくぶん大人びているような感じはあるが、腕っぷしの強さを恃んで無暗に他者を威圧するような様子はなく、桜木軍団や赤木の妹達と一緒になって馬鹿なことを言ったり、げらげらと声をあげて笑っている姿も何度か見かけた。それでいて、年齢不相応に落ち着き払った顔で周囲を窘めたり、飄々と笑いながら桜木をあしらうような姿も見せる。
 不思議な男だな、と思う。現状ただの厄介者でしかない三井に、こうして親し気に話しかけてくることにしたってそうだ。いまの三井は、かつて天才と持て囃された特別な少年ではない。MVPの称号だって過去のものだ。かつてぞろぞろと引き連れていた柄の悪い仲間達とも縁を切り、たったひとり、なにも持たないただの三井寿としてバスケ部へ戻ってきた。
 いまの三井にはなにもない。ほんとうに、なにもないのだった。
「……あのよ。お前、桜木に用があったんじゃねえの?」
 三井がつっけんどんに言うと、水戸は桜木を挟んで真向かいにしゃがみ込み、膝の上に頬杖をついて上目遣いに三井を見上げながら言った。
「あったけど、別に急ぎじゃないし。わざわざ起こすほどのことじゃないよ」
「ふぅん」
「すっかり寝入っちまってるしね」
 こうなりゃしばらく起きねえよ、と水戸が笑う。そして、人差し指と親指で桜木の鼻をぎゅっときつく摘まんだ。桜木は「ふがっ!」と寝言にしてはおおきな声で叫んだけれど、確かに起きる気配はない。好き放題、自由奔放に伸びたいだけ伸びたという感じの長い手足を無防備に広げ、があがあといびきすら立ててすっかり寝入っている。
「はは、すげぇな」
 三井も思わず吹き出し、桜木の頬をつんとつついた。その感触が思いのほか柔らかいことに驚き、それからすぐ、彼もまだ高校一年生なのだとしみじみ思う。桜木も水戸も、まだ高校一年生なのだ。もう後のない自分とはなにもかも違う。
「なに食ったらこんなデカくなんだか」
 呆れ半分に言うと、水戸は「カップ麺かな」と笑い、桜木の耳たぶをぴんと引っ張った。すると今度は「んむぅ」と不明瞭な呻き声があがる。水戸は短い眉を八の字にさげ、ひどく優し気な顔で笑いながら言った。
「こんなナリだけど、慣れれば面白ぇしダチ思いのいいヤツなんだ。三井サンも仲良くしてやってよ」
「……お前、コイツの母ちゃんかよ」
「産んだ覚えはねェけど、じつはそうなのかも」
 その飄々とした冗談に、ついまた吹き出すように笑ってしまう。
「馬鹿じゃねえの。んなわけねぇじゃん」
 そう言って水戸の肩を小突き、それからもしばらく声を殺して笑った。桜木は相変わらずいびきを立てて眠っており、ふたりでその頬をつついては笑い、へそをつついては笑う。
 そうしているうちに、桜木の眉間にぐっと深い皺が寄った。どうやら覚醒が近いらしい。ようやくお目覚めか、と、安堵と、それからほんの少しの名残惜しさが混じったため息をついていると、桜木はむにゃむにゃと唇をまごつかせ「よおへー」と覚束ない口調で水戸の名前を呼んだ。まるで、ぐずった赤ん坊が喃語で母親を呼ぶような声だった。
「……おい、コイツ、マジでお前の息子なんじゃねえの?」
 三井は、思わずまじまじと水戸の顔を見てそう言った。その言葉に、水戸は驚いたようにしばし目を瞬いたあと、おおきな声を立てて笑い出した。
「――あっはっは、ちょっと三井サン、真面目な顔で変なこと言うのやめてよ!」
「だってよぉ、普通、寝ぼけてダチの名前なんか呼ぶか?」
「ほら、コイツとは小学生の頃からの付き合いだからさ。いまだにしょっちゅうウチ泊まり来るし、金ヤベェときは飯だって俺が食わしてんだよ」
 ツケ払いだけどね、と笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら、水戸が言う。半ば呆気にとられながら水戸の笑顔を眺めていた三井は、後輩に笑われた決まりの悪さと、その面倒見のよさに対する驚きと関心とが綯交ぜになった複雑な気分で言った。
「……お前、すげぇな。俺、こんなデケェガキの世話なんかぜってー無理」
「言ったっしょ。慣れれば面白ぇから」
「ぜってー慣れねぇ」
「そう言わずにさ。コイツ丈夫だから、多少手荒に扱っても平気だし」
「俺が平気じゃねえよ。やり返されたら勝てる気がしねぇっつの」
 三井が自虐を込めて言うと、水戸は「確かに」と苦笑気味に笑ってから、ふと何かに気付いたように目を細めて言った。
「……三井サン、その顎の傷って」
 そう言いながら、水戸の手が三井の顔へ伸ばされる。反射的に体が逃げを打った。誤魔化すように慌てて自分で自分の顔を触り、水戸の言う顎の傷へ触れる。
「傷、って……ああ、これか?」
 人差し指に触れたのは、かつて屋上で宮城に因縁をつけ、互いに入院する騒ぎになったときにつけられた傷だ。肉の薄い場所だったせいかぱっくりと割れてしまい、縫わなければならないほどの深い傷になってしまった。
「宮城のヤローにやられたんだよ。すっかり跡になっちまって、ここだけ治んねえんだ」
 肉がへこみ、そこだけ皮膚が薄くなってしまった傷跡をなぞりながら言う。水戸は「へえ、そう」と冷ややかに返すと、ぐっといきなり手を伸ばしてきて、三井の左目の下辺りに触れた。
「……かさぶた、取れたんだね」
 その静かな声に滲む感情を理解できず、三井はただじっと息を詰めて水戸の顔を見た。つるりとした色の白い肌に、すっきりとした無駄のない輪郭。一重の切れ長な目元。気を抜くと飲み込まれてしまいそうになる、理知的な黒い瞳。三井には理解できない言葉ばかりを紡ぐ薄い唇。
「み、水戸……?」
 理解を超えた状況に耐え兼ね、恐る恐るそう呼びかけた、次の瞬間。
「――ようへーっ!」
 と、そう叫んだのは、突然上体を跳ね上げた桜木だった。
 桜木は、がばりと起き上がるなりきょろきょろと忙しなく首を巡らせ、水戸の姿を捉えるなり「スマンっ!」と大声で詫びた。三井の頬に添えられていた水戸の手は桜木が跳ね起きたときにその顔面によって弾かれ、水戸も三井もきょとんと目を瞬かせたまま、しばしのあいだ無言で見つめあう。
「――ぷっ」
 どちらともなく噴き出し、腹を抱えて笑った。今度は寝起きの桜木がきょとんとして、目を白黒させる番だ。その気の抜けた寝起きの間抜け面が可笑しくて、また笑う。
「な、なんだ?」
「なんだじゃねえよ、まったく……」
 立てた膝の間に頭を垂らした水戸が、心底可笑しそうに喉を鳴らしながら言った。それを見た桜木が「むむっ」と状況を飲み込めていない顔で三井を見る。三井も笑いを堪えながらその顔を見返し、向かいの水戸を指さしながら言った。
「お前、コイツとなんか約束してたんじゃねえの?」
 三井の言葉に、水戸が「そうだぜ」と頷く。
「今晩ウチ来るっつうから迎え来てやったのに、お前、寝てんだもん」
「おお、そうだったな! スマン洋平!」
 桜木はがばっと勢いよく頭を下げると、すぐに立ち上がってばたばたとロッカー目がけて駆けていった。続いて水戸も立ち上がり、桜木の慌ただしい荷造りを手伝いはじめる。その背中を呆気に取られて見送りながら、そっと安堵のため息をついた。
 桜木が目覚めなければ、きっと気付かれていた。手のひらに滲んだ汗と、全力疾走をしたあとのように早鐘を打つ心臓。引き寄せられるように奪われた視線。そのどれもが、身に覚えのある感覚だった。
 まさかな、と内心で独り言ち、両手で顔を覆う。
 背骨の上を冷えた汗が伝い、三井は知らずぶるりと身震いをした。

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