首輪

 目を覚ますと、すぐ目の前に年下の恋人の笑顔があった。今日は祝日にして、週に一度の休養日だ。誰に急かされることもなく、のんびりとした気分で重い瞼を持ちあげる。
「おはよ、三井サン」
「……はよ」
 昨晩は、薄くて硬い敷布団を二枚くっつけて並べただけの狭い寝床で、裸のまま一枚のタオルケットに包まって眠りについた。三井も水戸も寝相がよいので、そうやって眠ると、翌朝目覚めて一番に互いの寝顔を拝むことになる。
「今日、久々にいい天気だよ」
「んー」
「梅雨明けかも」
「あちい」
「だね。扇風機付けよっか?」
「んん……」
 三井の返事はどれもほとんど寝言のようなものだったけれど、水戸はそのすべてに律儀に答え、愛おしげに眉尻を下げながら頭上の扇風機へ手を伸ばした。室内の生温い空気が緩慢に動き、三井の短い前髪をぱたぱたと煽る。
「三井サン、着替え持ってきてる?」
「……パンツだけ」
「服、洗っとこうか?」
「ん、サンキュー」
 喋っているうちに三井も段々と覚醒してきて、ううん、と唸りながら丸めていた体をゆっくりと伸ばした。しょぼついた目を手の甲できつく擦り、おおきなあくびをひとつこぼす。
 そこで、三井はようやくある異変に気付いた。
「……ん?」
 首に違和感がある。
 触ると、ごつごつとした金具のようなものが指先に触れた。まだどこか醒めきらぬ頭にたくさんの疑問符を浮かべながら、右手の人差し指をその金具にひっかけ、ぐいぐいと力任せに引っ張る。
「ああダメダメ、首んとこ擦りむくよ」
「はあ?」
 どういうことだ? と、三井の眉がきつく寄った。それを黙殺した水戸が、両手でそっと三井の右手を掴む。そして、有無を言わさぬ力強さでもって首元から引き剥がした。その手を顎の下まで運び、上目遣いに三井の瞳を覗きこんで言う。
「……ね、三井サン、怒んねぇって約束できる?」
「できねぇ」
「だよね」
 水戸は存外あっさり引き下がると、三井の手を握り締めたままあっけらかんと笑った。その飄々とした様子がかえって恐ろしい。
「……なにお前。なんか怖ぇんだけど」
「アンタが怖がるようなことはしねぇよ。俺のちょっとした夢を叶えてほしいだけ」
 ね、と甘えたような声が言う。咄嗟に逃げを打とうとしたが、水戸のほうが二枚も三枚も上手だった。引けていた腰を足でぐっと引き寄せられ、きつく抱きすくめられる。汗ばんだ素肌が擦れあい、ますます全身に汗が滲んだ。こうなると、三井に逃げ場はない。
「首輪」
「……は?」
「首輪。着けてほしくて」
 ――首輪。
 その突拍子もない単語に、ようやく自分が置かれている状況を察した。
「着けてほしくて……って、もう着けてんじゃねーのか、これ」
「だって、起きてっときに頼んでもぜってー嫌がるでしょ」
「当たりめーだろ」
 三井は顔じゅうに戸惑いの表情を露わにしながら、それでも気丈に視線を尖らせて目の前の男を睨んだ。けれど、その程度のことで怯む水戸ではない。
「……自分じゃ分かんねえだろうけど、すげー似合ってるよ。ほんと可愛い」
 水戸は切れ長の目尻をこれでもかとばかりに甘く垂れさせ、うっとりと囁くように言った。その低く柔らかな声が、体の奥に残った熱をじりじりと煽る。
「色は赤で、名前のプレートもちゃんと付けてもらったんだ。結構高かったけど、こんだけ似合ってりゃ全然惜しくねえよ」
 水戸の指が首輪と素肌のあいだに滑り込んできて、くん、とやや強めに引き寄せられる。たったそれだけのことで、背筋に得体の知れない感覚が駆けのぼった。
「み、と……」
「うん?」
「なあ、俺、いまからなにさせられんの……?」
 三井は抵抗らしい抵抗も忘れ、うわごとのように水戸の名前を呼びながら言った。
 突然その身に降りかかった非日常的なシチュエーションに、三井の理性の壁はあっという間に脆くも崩れ去った。隠しきれない期待感に揺れる三井の瞳を、水戸の熱っぽく潤んだ瞳が見つめ返す。
「三井サンはなんにもしなくていいよ。首輪したまんま、今日一日ずーっと俺んちにいてくれればそれでいいから」
「……なんだよ、それ」
「犬の真似しろとか、そういう酷いことは絶対言わねーし、鎖でつないだりもしない。ただそのカッコで俺の近くにいて欲しいの」
 水戸はそう言うとおもむろに体を起こし、横たわったままの三井にゆっくりと覆いかぶさった。
「ね、三井サン。いいでしょ?」
 答えを言う前に、唇を塞がれる。ただでさえぼうっとしていた頭が、痺れたように思考力を失ってゆく。
 気付けば、三井は声もなく頷いていた。よくわからないけれど、水戸がそうしたいというのだから、しょうがない。
 水戸は見たこともないような満面の笑みを浮かべて「やった!」と短く叫ぶと、力いっぱい三井を抱きしめ、寝起きの汗でべとつく髪に頬を擦り寄せながら言った。
「あとでお風呂いれたげるよ。髪洗わせて?」
「……ああ」
「乾かすのも俺がやっから。眠くなったら寝ていいし、お腹空いたら言って。メシも作ったげる」
「……うん」
「ああ、可愛い。ほんと可愛い」
 どこが? と尋ねたい気持ちをぐっと堪えながら、水戸のきつい抱擁を受けとめる。ほんとうにわからない。わからないが、今日の水戸はただどこまでも三井を甘やかしたい気分らしい。そんな水戸の気分とこの首に巻かれた赤い首輪とがどう関係しているのかは、さらによくわからないのだが。
「痛くしねーなら、もう、なんでもいいわ……」
 三井が途方に暮れたようにそう言うと、水戸の両腕に籠もる力がますます強まった。
「しねーよ。するわけねえじゃん」
「朝起きていきなり首輪着けられてりゃ、誰だってこれからやべぇプレイに付き合わされんじゃねえかって疑うと思うぜ……」
 いまの三井の格好は、全裸に真っ赤な首輪を着けただけという、誰が見てもこれから特殊な行為に挑む人間のそれだ。
「だって三井サン、痛ぇのヤでしょ」
「そりゃ普通ヤだろ」
「マゾなのに」
「……ああ?」
「そういうとこが可愛い」
 可愛いと付け加えればなにを言っても許されると思っているのだろうか。そんなふうに邪推しないでもないが、三井はおとなしく口をつぐんだ。言い合いでも殴り合いでも勝てる相手ではない。
「三井サン」
「あんだよ」
「呼んでみただけ」
 水戸はにっこりと微笑んでそう言うと、三井の頬に唇を寄せ、ちいさな声で再び「三井サン」と繰り返した。三井の所在を確かめるように。あるいは、それ以外に言葉を知らない子供のように。
「……一日中、このカッコでここにいりゃあいいんだな」
「うん」
「なんもしねーで」
「うん」
「……なんもシねーの?」
 痺れを切らして、ぼそりと尋ねる。水戸は弾かれたように体を起こすと「シていーの?」と期待に満ちあふれた顔で三井を見下ろし、両手で三井の顔を挟んだ。
「シていーなら、する。めちゃくちゃシたい」
「……いーぜ」
 痛ぇのはナシな、と言い終わる前に唇をふさがれる。くちあけて、と命じられるままに口を開けると、縮こまっていた舌を歯で容赦なく引きずり出された。ふたり分の唾液が、横たわったままの三井の頬を伝って敷布団に落ちる。
「三井サン、大好き」
 吐息の混じった甘い声が、息継ぎの合間に言った。三井もほとんど吐息のような声で「俺も」と返した。酸素を求めて喉を反らせば、巻かれた首輪が素肌に食い込む。水戸の指が喉元の金具にかかり、なにかをくすぐるように指先が動いた。
「……寿」
 唐突に下の名前を呼ばれ、三井の肩がちいさく跳ねる。
「プレートにね、寿って入れてもらった」
「……洋平」
「寿サン。……ふふ、慣れねえなあ」
 呼び辛ェわ、と三井も照れ隠しに悪態をつく。
「うん。だからさ、今日だけ……」
 これをしてる間だけ。
 なんでもやったげるから、ね。
 水戸は首元のプレートを軽く引っ張ると、ね、ともう一度言い、ねだるように小首を傾げて三井の瞳をじっと見つめた。三井はこの顔に弱い。顔、というより、瞳だ。普段は小憎たらしいほど冴え冴えとした理性的な瞳が、三井の姿を映したままじわじわと熱っぽく潤んでゆく。その様を真正面から見せつけられると、どんな不条理な願い事でも受け入れてしまいそうになる。
 それくらい、いいに決まっている。拒む理由もない。
 それなのに、あれやこれやと対価を差し出して、三井の了解を得なければ気が済まないらしい水戸の妙な律義さが愛おしかった。
「……いーに、決まってんだろ、バァーカ」
 そう言って、目の前の首に抱き着いた。潤んだふたり分の視線が至近距離で交わり、あっという間に焦点を失う。頼まれなくたって、はなから一日中この部屋を出ないつもりだった。部屋どころか、布団の中からさえ、出られるかどうか。

2020.07.22