アンタが好きっす、とはじめて言われたとき、三井はてっきり喧嘩を売られているのだと思った。流川の顔はそのくらい険しく、どうも自分から告白しておいて相当に不本意かつ不可解だったらしい彼の心情が、その麗しい顔面を存分に使って雄弁に語られていた。
いまだって、ときどき「なんで俺はこんなやつを好きなんだろう」という顔で睨まれることがある。その度に三井は「こっちが聞きてーんだが」という顔で首を傾げる。あるいは「こっちの台詞だ馬鹿」という顔で睨み返すかだ。
三井が流川の告白に答えたのは、赤木と木暮が引退し、宮城をキャプテンとした新体制がはじまって、ふた月ほど経った頃のことだった。告白されたのがインターハイの後、流川が全日本ジュニアの代表選手に選ばれたという報せを本人から直接受け取ったのと同時だったから、おおよそひと月以上は待たせたことになる。
三井も最終的にはうんと頷き、晴れてカップル誕生とは相なったものの、一日のほとんどをバスケやバスケについて考えることに費やしているふたりだ。ただでさえ過酷な部活動の後に居残り練習までしてみっちり体力を使い果たすものだから、いかにも高校生カップルらしい放課後の過ごし方というものを実践できたためしなどなかった。寄り道をしたところで行き先は色気もクソもないファミレスかボリューム重視のラーメン屋、土日のデートの行き先だってテーマパークや映画館ではなく、ストリートコートかスポーツ用品店だ。道中の話題もほとんどがバスケのことで、色っぽい雰囲気になどなりようがない。
それはそれで部活動に打ち込む男子学生としては充実した毎日だが、晴れて恋人同士となったばかりのカップルとしては、やはりどこか物足りなさを覚える日々だ。
そこで、三井は勝負に出た。
「――お前、寒くねえの?」
ちょうど昼休みに入ったばかりで、屋上には三井と流川のほかに人影はない。三井はこれ幸いと流川の隣へ座り、肌寒さを口実に肩を寄せながら尋ねた。人目を避けるために建屋の壁沿いの日陰を選んで座っているから、口実は口実として、実際にやや肌寒い。けれど流川はきょとんとした顔で目を瞬き、ちいさく首を振った。
「べつに」
「体温高いもんな、お前」
「アンタが低いんだろ」
「低かねーよ。普通だ、普通」
学ランの下に着こんでいたパーカーの袖を引っ張り出しながら、苦笑いで返す。
作り物めいた美貌の持ち主であるせいか、一見するとなんとなくひんやりとした手触りの、血の通わない無機物めかしいイメージのある流川だが、子供体温というのか、触れるとむしろほかの誰よりずっと暖かいのだった。そういうちいさな発見を得るたび、この妙な関係も案外悪くないもんだ、と、意外なほど素直にそう思える。
「……なあ」
三井の短い呼びかけに、流川がちいさく首を傾げた。洗いざらしの黒髪がふわりと風に煽られ、シャンプーだろうか、ほんの僅か花のような甘やかな匂いが香る。
三井は座ったまますこしだけ背伸びをして、やや上にある流川の唇に自分のそれを重ね合わせた。ちょん、と触れるだけのキスからはじめて、強引に舌をねじ込む。流川が驚いた様子で咄嗟に体を引こうとしたので、パーカーの袖に包まれた両手で顔を挟み、強引に引き留めた。
「――ん、っ、せんぱ……、まっ、て」
流川が切れ切れに制止の言葉をもらす。はじめてなんだろうな、と、三井は冷静にそう思った。
流川とこういう関係になって、挨拶のような触れるだけのキスは何度かしたことがあったが、いかにも恋人同士という雰囲気のキスは今日はじめて仕掛けた。
待たない、と囁くように答えて、流川の薄い下唇を軽く噛む。両手で顔を挟んだまま親指で頬を撫で、他の指で優しく耳元をくすぐってやった。
「ん、ふ……っ、なに、きゅうに……」
流川がもぞもぞと座り悪そうに体をよじりながら、困惑した様子で言った。しかし生来の負けず嫌いはこんな時でも健在なのか、両腕は三井の腰をしっかりと捕らえ、その視線は抑えきれない興奮に鋭く輝いている。三井はごくんと喉を鳴らしながら膝立ちになると、流川の両足の間に体を割り込ませ、にやりと笑いながら言った。
「ヤろうぜ」
流川が怪訝そうに眉をひそめる。
「ここで?」
「おう」
「……いま?」
「おう」
三井がきっぱりと頷けば、流川の切れ長の目元がさっと赤らみ、視線はうろうろと地面を彷徨った。ここは学校の屋上だ。頭上には抜けるような秋の青空が広がっていて、校庭からは昼休みを使って草野球や草サッカーに興じる生徒達の活発な笑い声が絶え間なく聞こえている。
「俺じゃ勃たねえか?」
あけすけにそう尋ねると、流川が悔しそうな顔で首を振った。
「……いや」
その答えを聞いて、三井は知らず知らずのうちに詰めていた息をほっと吐き出した。流川のほうから告白してきたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、けれどやはり、頭の隅に漠然とした不安はあった。俺も、とその思いに応えてしまった手前、ここでもし「やっぱり無理」と断られでもしたらあまりに盛大で手酷い肩透かしだ。自分で自分が哀れになる。
「ならいいだろ」
三井は安堵の滲む内心を隠すようにぶっきらぼうに言って、流川の学ランのボタンをぷちぷち外した。続けてシャツの裾をウエストから強引に引っ張り出し、そのままの勢いでみぞおちの辺りまでめくりあげれば、きれいに引き締まった腹筋のラインと、透けるように白い肌が青空の下に露わになる。
「アンタが上?」
流川が不満そうに言う。想定内の疑問だったので、三井はとくに動揺もせず答えた。
「それはべつにどっちでもいいけど。――いや、さすがに入れるとこまではしねーぞ」
「なんで」
「準備がいるだろ。ちゃんと洗って、慣らさねえと」
三井の説明を聞いて、流川がまた不満そうに「なんで」と重ねる。
「なんでもクソもねえわ。汚ねえだろ、フツーに」
「そうじゃねえ」
「じゃあなんだよ」
「……なんで知ってる」
三井は一瞬面くらって、無言のままぱちぱちと目を瞬いた。眼下で流川が悔しそうに顔を歪めている。
「……なんでって、べつに、俺も実際やったことはねーよ。昔のツレに女と後ろでヤんのが好きなやつがいて、そいつがぺらぺら喋ってんの聞いてただけ」
勘違いすんなよ、とはさすがに言わなかったが、恐らく言外の意図までしっかり伝わったのだろう。流川はますます悔しそうに顔を歪めて俯き、無言で三井のベルトを外しはじめた。
乱暴な手付きでベルトを外され、スラックスのホックを外され、ジッパーをおろされ。三井も同じように流川のそれを外してやり、互いにあとは下着をおろすだけ、という格好になった。校庭からは相変わらず牧歌的な笑い声と金属バットの打球音が聞こえてきて、現在の状況との落差に笑い出しそうになる。
「……先輩」
本気っすか、と流川が小さな声で言った。興奮半分、戸惑い半分といったところだろうか。
普段の尊大な態度からはあまり想像がつかないが、流川は意外と常識をわきまえた男だ。返事や挨拶は湘北基準――この基準がまず常識をはるかに下回っているのは否めないのだが――ではきちんとしているほうだし、赤木や木暮、彩子の言うことなんかは割合素直に聞く。三井のことも彼なりに敬ってくれているようで、二人きりでいるときにだって「先輩」という敬称が外れたことはない。
けれど流川のそんなところがいまだけはやけにもどかしく感じて、三井はわざと軽薄に口元を歪めて笑った。
「なに、びびってんの?」
「誰が」
「お前が」
「……は、冗談」
流川はむっと顔を顰めると、鼻を鳴らして吐き捨てるように答えた。この程度の挑発で、簡単にその気になってしまう単純さが可愛い。三井はつい頬が緩みそうになるところをなんとかこらえ、挑発的に唇を吊り上げたまま眼下の頬へキスを落とした。
不意に髪を巻き上げるほどの風がびゅうと一陣吹いて、流川の丸い額が露わになる。普段は野暮ったい前髪に覆われていて、なかなか拝むことのできない場所だ。なんとなくいいものを見たような気分になって、三井はその丸く滑らかな額にもキスを落とした。流川がくすぐったげに体を捩る。
「ん、や、なに……」
そうやって舌足らずに唸りながら煙たげに顔を背けられると、まるで親の指図にむずかる子供を見ているようで可笑しかった。地面に座り込んでいる流川と膝立になった三井とでは、三井のほうが幾分目線が高い。おかげで普段見上げてばかりの顔を存分に見下ろせるのも愉快だ。
三井は込みあがってくる笑いを堪えきれず、肩を揺らしながらくすくす笑った。一方の流川は、マウントをとられた挙句に顔を好き放題されて不満気である。
「なに笑ってる」
「いや、だってさ。お前……」
可愛い。三井が囁くように言うと、流川はすぐ不機嫌そうに唸った。そういうところが可愛いのだ。駆け引きなんかてんでする気もない、直情径行の負けず嫌い。小学生の頃、ミニバスの試合中なんかに三井が一人で何十点も取ると、コートのど真ん中で地団駄を踏みながら悔し涙をこぼすような子供がいたが、あんな感じだ。あれがそのまま高校生になって、上っ面だけ無表情に取り繕ったような感じである。
「可愛いって言うな」
流川がぶすくれた顔で抗議の声をあげた。図ったようなタイミングで校庭からホイッスルの音が鳴り響く。三井は「からかいすぎたか」と肩を竦め、柔らかな黒髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜた。
「……撫でるのもやめろ」
「なんで」
「なんでも」
引き続きぶすくれた様子でそう言いながら、流川が三井の腕を掴む。照れているのか拗ねているのか、細やかな機微をその表情から窺い知るのは難しいが、言葉ほど怒っていないのは確かだ。それをいいことに、三井は掴まれていないほうの手をこっそりと下へ伸ばし、下着越しにまだ柔らかな流川の股間へ触れた。
「――っ」
流川がはっとしたように息を詰める。
「……なあ」
ポケット、と三井がだしぬけに言うと、流川は珍しく険のない顔で素直に三井を見上げた。尻のポケット、俺の、と重ねて囁くと、三井の腕を掴んでいないほうの手がぎこちなく尻へ降りていき、遠慮がちにポケットの中を探る。ややあって、目的のものを探り当てた流川が真っ赤な顔で三井の胸を押した。
「よくできました」
「……これ」
「見たことぐれーあんだろ」
流川の手には、ひと続きに繋がったふたつのパウチがある。コンドーム、と三井が囁くと、流川の肩が大袈裟に跳ねた。可愛い。声には出さずに呟く。
「着け方わかるか?」
質量を増しはじめたペニスをゆるゆると揉みながら尋ねると、流川は困ったように眉を下げたまま控えめに首を傾げた。なんとなく知ってはいるけど、実際にやったことはない。そんなところだろう。
「じゃ、俺がやってやるから。な?」
甘ったるい声で言い含めるように続ける。すると流川は、恐る恐るといった風に三井の片腕を離した。自由になった手でパウチを受け取り、角を咥えてふたつに分ける。ぷちぷちぷち、とミシン目の破けるちいさな音がやけに大きく聞こえ、三井も思わず唾を飲んだ。
誰かがホームランでも打ったのか、校庭からワッと大きな歓声があがる。
三井はもう一つ唾を飲んで、流川の下着の中へ手を滑り込ませた。昼間の学校という背徳感のなせる業か、そこはすでに可哀そうなほど張りつめていて、わずかにぬめりを帯びている。咥えたままだったほうのパウチを破り、ローションを纏ったラテックスを取り出してから、もう一度唾を飲み込む。
三井だって、白昼堂々学校でこんなことをするのははじめてだった。緊張と興奮に震える手で流川の下着をおろし、飛び出した竿の先っぽにコンドームを被せる。巻いたところをくるくると根元まで引きおろしてやって、そのまま一、二と上下に扱いた。
「あ、っ……!」
流川が短く喘ぐ。たったそれだけのことで三井もひどく煽られて、まだ触れられてもいない股間がぐっと膨らむのを感じた。焦る気持ちを抑えながらもうひとつのパウチを破って乱暴に下着をおろし、手早くコンドームを着ける。
いわゆる、兜合わせ、というやつだ。
腰を落としてぐっと股間を流川のそれに寄せ、がちがちに勃起した二本のペニスを擦りあわせる。手や性器と比べればさほどのこともない触れ合いだが、けれど視覚的にはくらくらするほど刺激的で、背徳的だ。
軽く着崩しただけの制服と、頭上に広がる青空。
男同士の行為であることを如実につきつけてくる二本のペニス。
そして目の前には、目だけを爛々とぎらつかせた流川の真っ赤な顔がある。つい先程まで可哀そうなほど戸惑っていた少年の面影はすっかり消え失せていて、三井は思わず、はふ、と熱い息を吐いた。
「……なあ、手」
貸して。三井がそう言い終わるより早く、流川の手が二人の股座へ伸びる。三井も導くように手を添えて、流川の大きな手のうえから二本のペニスをまとめて握り込んだ。途端、これまでの仕返しといわんばかりに流川の手が激しく動く。
「ん、ふ……う、っ」
三井の口からも、とうとう抑えきれない嬌声が零れた。ん、ん、と鼻の奥で甘い声を響かせながら唇を噛みしめ、流川の肩へ縋り付く。
もう少し暑い季節だったら、背中から湯気が立っていたかもしれない。
縋り付いた流川の身体は、そんな馬鹿げたことを思ってしまうほどに熱かった。
「る、かわ……くち……」
くちびる、と三井がねだれば、流川の発火しそうなほど熱い唇が素直に三井のそれを塞いだ。三井から仕掛けた時はあんなに初心な反応をしてみせたのに、今度は流川のほうから舌をねじ込んでくる。指の長いおおきな手でペニスを扱きあげられながら舌を吸われ、歯茎を嬲られ、唾液を啜られ。かと思えば下唇にきつく歯を立てられ、舌を噛まれ、唾液の滴る顎をじっとりと舐めあげられる。
――食われる。
咄嗟にそんな単語が思い浮かぶほど、流川の責めは熾烈だった。まるで、膝のうえの子猫が急に虎かライオンにでもなったような気分だ。成長著しいにもほどがある。
「や、るかわ、まっ……待て、待って……」
はふはふと湿った息を吐き出しながら、縋り付いた肩に爪を立てた。とは言っても、こまめに短く整えている丸い爪先は学ランの布地のうえを滑るだけだ。その感触がどういうわけか流川を煽ったようで、三井の「待って」という願いはすげなく却下された。
「待たない」
「――あ……っ!」
ぐり、と親指の爪先を先端にねじ込まれ、三井が喉を晒して仰け反る。自慰とも、女の手の躊躇いがちな愛撫とも違う、乱暴だが的確な刺激だ。痛みと快感が一気に押し寄せ、感覚の境界が曖昧になる。
「せん、ぱい……おれ、もう……」
流川が焦れたように言った。
「はえーよ、ばか……」
意地に任せてそう答えた三井も、実のところかなり限界が近い。腰が勝手に動き、固いコンクリートのうえについた膝がぶるぶると震える。場所が場所だからおおきな声は出せないし、痛いし、苦しいし、それなのに震えがくるほど気持ちがいい。やっていることはただの兜合わせなのに、これまでに経験したそんなセックスよりも興奮する。
膜がかかったように現実感を無くした世界の片隅で、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
いつの間にか校庭のざわめきも去っていて、時折風に煽られてフェンスや扉ががたがたと鳴るのと、ふたり分のペニスがにちゃにちゃと擦れあう音だけが屋上に響いている。
「せんぱい……せんぱい……っ」
流川がたどたどしく三井を呼んだ。背筋がぶるりと震え、あっ、と短い嬌声が漏れる。手の動きもいよいよ乱暴になってきて、技巧も何もない単調な動きなのに、それでもたまらないほど煽られた。下腹が勝手にぐっと収縮して、今度はあっと声を漏らすこともできず流川へしがみつく。
三井が先に達して、そのあとすぐ流川もつられるように達した。
屋上にはしばらくふたりの荒い呼吸だけが響いて、どれほど経った頃だろうか。突然、がこんと扉が大きな音を立てた。屋上と校舎とを隔てる、分厚い金属の扉だ。三井も流川も大袈裟にびくんと肩を跳ねさせ、急に現実へ引き戻されたみたいに慌てて衣服の乱れを正した。三井は初セックスのあとの童貞のようなおぼつかない手つきでふたり分のコンドームを外して口を縛り、流川は見たこともないほど焦った顔で三井の口元をぐいぐいと拭っている。そこでやっと自分が口の端から涎を垂らしていたことに気付き、三井は隠蔽のために慌ただしく動かしていた手をふっと止めて、きょとんと目を瞬いた。
「――ふ」
ややあって、腹の奥からじわじわと笑いがこみ上げてくる。流川も珍しく毒気のない顔で肩を震わせていて、ふたり顔を見合わせてしばらくくすくすと忍び笑いを漏らした。家鳴りかなにかだろうか、音が鳴っただけで誰かが入ってくる気配もなく、屋上には三井と流川の押し殺したような笑い声だけが響いている。
「……あー、びびったァ」
ひとしきり笑い終わった後、三井がしみじみと言った。流川も頷いて、ほっとしたように体の力を抜く。
「五限、サボっちまったな」
「俺はべつにいーっすけど。……大丈夫なんすか、出席日数」
「さあ。でもまあ、なんとかなるだろ」
三井があっけらかんと答えると、流川は呆れ顔でおおきなため息をついた。「なんで俺はこんなやつを好きなんだろう」の顔だ。
「本気で留年する気っすか」
「なわきゃねーだろ。つーかべつに、今日入れたってあと五日はサボれるし」
俺の計算ではな、と三井が答えると、流川が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「……当てになんねー」
「数1Aで赤点取ってるやつに言われたかねーわ」
「るせー」
「言っとくけど俺、一年のこの時期は学年で四十番くれーには入ってたかんな」
三井がふふんと鼻高々に言った。過去の栄光ではあるが、一応事実だ。けれど流川は懐疑的な様子で「嘘つけ」と眉根を寄せた。
「嘘じゃねーって。そのへんの先公捕まえて聞いてみろよ」
もぞもぞと流川の隣へ移動しながら、もう一度ふふんと笑う。ついでに使用済みのコンドームをぺちゃっと流川の前へ落とすと、流川はまた「なんで俺はこんなやつを好きなんだろう」の顔で三井を睨んだ。
ふと会話が途切れると、階下で名前も知らない漢詩を読み上げる訥々とした声がやけに明瞭に響いた。
体がようやく興奮状態から抜けきったのか、忘れていた肌寒さが急に三井の背筋をぶるりと震わせた。指先を守るようにパーカーの袖を引っ張り出しながら、隣の流川へ肩を寄せる。
「……なあ」
「なんすか」
「お前、寒くねーの?」
三井が尋ねると、流川はやっぱり「べつに」と首を振った。触れあった肩がほんのり暖かくて、好きだなあ、と唐突に思う。
三井とて流川を見て「なんで俺はこんなやつを好きなんだろう」と思うことはしばしばあるし「なんでこいつは俺のことが好きなんだろう」とも思う。けれどいま肩に感じている体温は本物で、この体温を心地よいと思っている気持ちも、本物だった。目の前で萎びている使用済みのコンドームも、もちろん、本物だ。
「……あのさ」
三井がぽつりと切り出す。流川は黙って続きを待った。
「俺んちの親父、単身赴任してて。お袋が土日だけ泊まり行くんだよ」
だからさ、と一度言葉を切り、乾いた唇を湿らせる。
「……お前が嫌じゃなかったらだけど」
「嫌って、なにが」
「俺とすんの」
最後まで。
三井の控えめな呟きに、流川がぱちぱちと目を瞬く。それから五秒ほど無言の時間があった。五秒後、流川はぐっと悔しそうに眉を寄せると、素早く体を起こして三井の顔を覗き込み、ちいさな声で絞り出すように言った。
「……なんで嫌だと思った」
責めるような問いのあと、ちゅう、と控えめな音を立てて唇を吸われる。
「好きっす」
そう告げた流川の顔はやっぱり悔しそうに歪んでいたけれど、いつも涼やかな目元がわずかに赤く染まっていることに、三井は気付いた。そして「俺も」と、こちらもやっぱり悔しそうな顔で答える。どこか遠くで、真面目に授業へ臨む生徒達の朗らかな笑い声が、あはは、と響いた。
2023.06.01