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 梅雨も明けたというのに空は朝からずっとぐずついていて、一度は辞めると言ったくせになかなか抜けきらない喫煙癖のためにちょうどよい場所を探していた水戸は、ひと気のない特別教室棟の、いまは使われていない三階の第二音楽室へ入った。
 積み上げられた椅子の山から一脚だけ引っ張り出し、日当たりの悪い窓際に置く。ほんのわずか窓を開ければ、湿ったぬるい空気が勢いよく吹き込み、長らく使われていない暖房機から埃ともカビともつかないちいさな塵と古びた匂いが立ち上った。
 座面があちこちささくれた椅子に腰掛け、ポケットからひしゃげたパッケージを取り出す。一緒に取り出したシルバーのジッポは、煙草を吸い始めた頃に少ない小遣いを貯めて買った思い入れのあるものだ。右の隅に一筋長い傷が入っていて、それはあえて消さずずっとそのままにしてあった。
 ホイールを回し、咥えた煙草に火をつける。窄めた唇をほどいて息を吐けば、白いもやのような煙がもうもうとたちこめた。そのまま窓の隙間から頭を出してベランダを覗くと、土汚れのついた室外機のうえに灰皿代わりの空き缶が乗っているのが見える。単細胞な不良少年同士、考えることはみな同じというわけだ。
「――お」
 と、不意にそうこぼしたのは、遠目に見える三年生の教室に、見知った人影を見つけたからだった。見知った人影――三井は、窓際の最後列に据えられた座席に浅く腰かけ、その長い脚を気だるげに伸ばし、見るからに退屈そうな様子で窓から外を眺めている。表情までは窺えないが、きっと眠そうに目をしょぼつかせていることだろう。
「偉い偉い」
 そんなふうに呟いて、窓枠に頬杖をついた。
 不良少年たるもの、内申点など二の次だ。最低限の単位と出席日数さえ稼げば、あとは野となれ山となれ。三井も恐らくそうだったはずで、いまはその最低限を稼ぐために必死なのだろう。居心地がよいはずもない教室で、分かりもしない授業をただ黙って聞いている。すべてはバスケのためだ。
 指の先でフィルターをつまみ、ふうっと細長い煙を吐く。その瞬間、壁一枚挟んですぐ隣にある音楽準備室から耳障りな笑い声が聞こえた。どうも、先客がいたものらしい。
「――しかし三井の野郎も、すっかり爽やかになっちまってなあ」
 そう言ってげらげらと耳障りな声で笑った男は、おそらく二年生だろう。顔も姿も見えないので定かではないが、身なりと人数ばかりが派手で喧嘩も遊びもからきしの、あまり大したことのない連中のうちの一人だ。
「だよなァ。あのダッセエ髪型、マジ別人かと思ったぜ」
 そう気だるげに答えた男も、おそらく二年生だ。グレていた頃の三井や堀田達の行状についてはそれほど詳しくないが、二年生である彼らにとっては長らく目の上のタンコブのような存在だったのだろう。
「……それによぉ、宮城なんぞシめるために鉄男クンまで連れてきたって話だろ。よくヘーキでガッコ来れるよなあ」
「鉄男クンて、あの喧嘩屋とかいうヤベー奴だよな? なんで三井なんかに顎で使われてんだか」
「ああ、お前知らねーの?」
 明らかに侮蔑の混じった声が言う。水戸は壁一枚隔てた隣でその声を聞きながら、じりじりと胸を焼く炎のような感情を持て余していた。三井なんか、ねえ。と、誰に言うでもなく独り言ちる。きっと、彼らは見たことがないのだ。あれだけの醜態を晒してなお捨てきれなかったバスケへの情熱を。コートの上で誰よりうつくしいシュートを放つ、彼の姿を。
 そんな水戸の苛立ちを他所に、隣の教室ではなおも下卑た話題が続く。
「三井ってさ、鉄男クンのオンナだったらしーっつう話よ」
 へえ、と驚いたような声があがり、続いて「マジかよ」と興奮を押し殺したような囁きが聞こえた。
「マジマジ。しかもさぁ、他校のダチから聞いたんだけど、三井ってマジもんのソッチ系らしいって話だぜ」
「ウッソだろ、ちょーキメぇじゃん!」
「それがいまじゃマジメぶってバスケやってんだぜ。ヤベーよなぁ」
 ヤベーヤベー、と、中身のない相槌を繰り返しながら、男たちはがさつな足音を立てて音楽準備室から去っていった。
 いつの間にかすっかり長くなっていた灰が、煙草の先からぼろりと落ちる。その残骸をぼんやりと眺めながら、いましがた聞いてしまった話を頭の中で反芻した。
 ――鉄男のオンナだったらしーっつう話よ。
 鉄男、というのは、きっと体育館襲撃事件の折に三井と共にいた男たちのうちの一人だろう。日本人離れした大柄な体躯に癖の強い長髪を靡かせた、野性的な風貌の男だ。
 オンナ、というのは、つまり、そういうことに違いなかった。三井が、あの男に女のように抱かれていたということだ。水戸の脳裏に、長髪だった頃の三井の陰鬱とした横顔が過る。前歯の抜けた間抜けな顔しか記憶にないはずが、その顔まですっかりいまの三井とすり替わった姿で想像された。
 屋上で目を奪われた、あの傷だらけのうつくしい横顔。その横顔が向く先にいるのは鉄男だ。三井の長い指が鉄男の剥き出しの二の腕を滑り、鉄男の無骨な指先が三井の滑らかな首筋を辿る。三井は嫣然とした顔で鉄男の名前を呼び、鉄男は己の所有物の所在を確かめるように三井の名前を呼ぶ。
 不意に、かっと腹の底が熱くなった。
 三井に対する嫌悪感ではない。ならば、彼を笑いものにする男たちへの純粋な怒りだろうか。それとも、単なる劣情か。あるいは――嫉妬、だろうか。
 そこまで考えて、急に自分の情動が恐ろしくなった。こんな得体の知れない気持ちに付けられる名前の持ち合わせなんて、どこを探しても見当たらない。
「――おおい、洋平。お前、こんなとこにいたんかよ」
 聞き馴れた声に名前を呼ばれ、そこでようやく我に返った。
「……忠」
 ドアの陰から顔を出した野間が、水戸の顔をまじまじと見ている。
「なんかあったのか?」
「いや」
「いやってお前、人でも殺したんかって顔してるぞ」
 え、と咄嗟に左手で頬を触り、そのあまりに強張った筋肉の手触りに苦笑した。確かに、これでは野間が訝しむ訳だ。彼が現れなければ、実際に先程の男たちを半殺しくらいにはしていたかもしれないなとすら思った。
 火の消えかけた煙草を誰の物とも分からぬ空き缶へ捻じ込み、はあ、と大きなため息をつく。
「……参った」
「はあ?」
 不思議そうに首を傾げた野間の後ろから、大楠と高宮もひょいと顔を出した。こりゃあ穴場だ、と高宮が笑い、よくやった洋平、と大楠が駆け寄ってきて水戸の肩を叩く。
「――おっ、ありゃあミッチーじゃねえの?」
 水戸の肩越しに窓を覗いた大楠が、眉をあげて驚いたように言った。それを聞きつけた高宮も寄ってきて、おお、と感心したような声をあげる。
「マジメに励んどるのう。感心感心」
「態度は不真面目丸出しだけどな」
 短い腕を組んで頷いた高宮に、大楠が笑いながらそう混ぜ返した。
 三井のことを気にかけているのは、なにも水戸だけではない。桜木軍団の連中や、堀田達。三井があれだけの迷惑をかけたバスケ部の面々だってそうだ。最後まで三井に噛みついていた花道さえ、いまではすっかり懐いてしまっている。彼を嫌う人間がいても、彼の存在に無関心でいられる人間などいないのではないか、と、そんな大袈裟なことを思ってしまうくらいには、良くも悪くも人を惹きつける男だ。
「つーか洋平よ。俺たちからミッチーが見えるってこたぁ、あっちからも俺たちが見えるってこったろ」
 大楠のあとに続いてのんびり歩み寄ってきた野間が、人差し指と中指を立てて煙草を吸う仕草を真似ながら言う。
「喫煙所としちゃあイマイチだな」
 大楠がそう言って肩を竦め、水戸も苦笑を浮かべながら「だろうね」と返した。だいいち、一度は三井の前で禁煙を誓っているのだ。教師に見つかるリスクももちろんだが、真面目に授業へ取り組む三井に、ここで喫煙している姿を見られたくない。
「だが、ミッチーがサボってねえか監視すんにはもってこいだ」
 今度は、高宮がしたり顔で言った。その通りだ、と水戸も思う。ここからなら、誰にも邪魔されずに三井を眺めることができる。自分自身でさえ持て余し気味の衝動からも解き放たれて、ただ彼を気のすむまで眺めていることができる。まるで、煙草と三井とを天秤にかけているような気分だった。どちらを取るかは、すべて自分次第だ。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、三井が口をおおきく開けて欠伸をひとつこぼした。つい先程水戸の脳裏に過ぎったような、蠱惑的な色気などどこにもない。あろうはずもない。
 まるで狐にでも摘まれたような気分になり、がっくりと肩を落として項垂れた。洋平、と自分の名前を不思議そうに呼ぶ友人たちの声をどこか遠くに聞きながら、これはなかなかヤバいんじゃないの、と頭を抱えて窓の向こうを睨む。
 そこには、ただひたすらに平和な顔で欠伸をこぼす上級生の横顔しかなかった。

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