三井が流川の住むマンションへ着いたのは、午後一時をやや回った頃だった。
「……遅い」
「そう言うと思って、買ってきた」
三井はそう言うと、片手でスニーカーを脱ぎながら、大きく膨らんだビニール袋を押し付けるように手渡してきた。袋の前面には、近所にあるスーパーのロゴがプリントされている。
「なにこれ」
「メシだよ。フライパンくらいあんだろ」
「……作んの?」
あんたが?
そう言外に含ませながら問うと、三井はさも心外そうに眉を吊り上げて言った。
「お前なあ……。お互いもう三十路だぜ? 独り身なんだし、料理くらいできねーでどうすんだよ」
三井はそう言うなり、家主の許可もなくさっさと部屋へ上がりこんでしまう。流川はその後ろをのそのそと付いていきながら、三井を部屋へ上げるのは今日がはじめてだな、と頭の隅で思っていた。
衣食住のどれにもさほどの興味がない流川の部屋は、ただとにかく広いだけで、あとはほんとうに特筆すべきところがない。
服は着られればよいし、食は質より量が最優先で、オフは基本的に外食がメイン。住まいはとにかく広くて頭を打たない程度に天井が高く、手足を伸ばして眠れるサイズのベッドさえ置ければ文句はなかった。
そういうわけで当然キッチンにはなんのこだわりもなく、渡米前に母親から持たされた調理器具一式も、帰国時にすべて処分してしまっていた。さすがにフライパンだけは買ってあったが、貰い物のステーキ肉を焦がしてしまって以来一度も使っていない。
「冷蔵庫と電子レンジとフライパンはあるけど、あとはなんもねー」
正直にそう告げると、三井は肩を竦めて呆れ混じりに笑いながら、流川の持つ袋を指さした。
「想定内だ」
見れば、生鮮食品は豚肉と小ぶりの玉ねぎが数玉くらいで、ほかはチルドタイプのレトルトご飯に冷凍のカット野菜、使い切りサイズの合せ調味料など、もし余らせて残りを置いて帰られても困らないような品物ばかりだった。これでキャベツが丸ごとひと玉など入っていようものなら、残った分は間違いなく冷蔵庫の中に眠らせたまま腐らせてしまっていただろう。
三井はいつもこうだ。
一見傍若無人で我儘放題に振る舞っているように見えて、ときおり不意に、こういう卒のない気遣いができる一面を見せる。
コートの中ではまったく逆だ。
個の能力を頼んだインサイドでの強引な勝負はしない。常に試合の流れを冷静に把握していて、他のプレイヤーを生かし、チームを勝たせるためのプレーに徹している。けれど、ここぞという場面では誰より闘志を剥き出しにして、俺によこせ、俺に打たせろ、と貪欲な顔で流川を見る。
そして、必ず期待に応えてくれる。
流川と同じ、根っからの点取り屋なのだ。
不思議なひとだな、と思う。分かりやすいようで分かりにくく、かと思えば、複雑なようでとても単純なひとだ。
「なに作るんすか?」
流川が興味津々の顔でそう尋ねると、シンクで手を洗っていた三井が「生姜焼き」と短く答えた。
「お前も手伝えよ。ほら、手ェ洗って」
「……料理とか、いっぺんもやったことねーっす」
「それも想定内だ」
三井は笑いながら言うと、体を半分ほど横へずらし、流川が手を洗うためのスペースを空けてくれた。そこへおずおずと立ち、言われるがままハンドソープを泡立てる。
「俺も人に教えるほど上手くねーから、あんま当てにすんなよ」
「はあ」
と、そう言いながら、三井はじつに手際よく調理を進めていった。
流川は終始言われるがまま電子レンジと冷蔵庫と三井の間を往復するだけの時間を過ごし、気付いた時にはもう豚の生姜焼きとたまねぎの味噌汁が出来上がっていた。
味付けは全部目分量で、いかにも男の料理、といった感じの豪快な出来だが、そのぶん量と濃いめの味付けは万年食べ盛りの流川好みだ。
ほとんどオブジェと化していたダイニングテーブルに皿を並べ、二人向かい合って「いただきます」と手を合わせる。それからは、ただ無心で箸を動かした。飾り気のない素朴な味わいだが、それがかえって空きっ腹にはちょうどよい塩梅だった。とにかく白米が進むのだ。
流川のどんぶりに盛られた三人前はあろうかという大盛りの白米がほとんど底をついたころ、常識的な量の食事をとっくに平らげて一息ついていた三井がやっと口を開いた。
「――そういやお前、スマホがどうとか言ってたよな?」
本能の赴くまま黙々と頬袋を膨らませていた流川は、その問いに一瞬首を傾げてから、ああ、と頷いた。
「そう。壊れた」
「お前の壊れたは信用ならねーんだよ」
「だから、見てってば」
「どこにあんだよ」
「リビングのソファんとこ」
と、ダイニングからひと続きになっているリビングを指差すと、三井は「お前なあ」と呆れたようにため息をついた。
「先輩を顎で使うなっつの」
「すんません」
「いいよ、もう」
「……すんません」
「はいはい」
流川が「すんません」ともう一回謝ると、三井はふっと破顔して「似合わねーことすんなって」と返した。そうすると目尻に細長い皺が寄って、記憶のなかのそれよりずっと優しげな顔立ちになる。
「お前に謝られると、かえって落ち着かねーよ」
そう言って立ち上がった三井は、空いた食器をシンクへ運ぶと、そのままの足でリビングのソファへ落ち着いた。
「おい流川、これ、電源切れてんじゃん」
「うるせーから切ったっす」
「勝手に付けるぞ」
「うす」
三井の問いに頷いてから、残りの白米を一気にかきこむ。三井に倣って空いた食器を片付け、少し迷ってから電気ケトルでお湯を沸かした。確か、貰い物のドリップコーヒーがまだあったはずだ。
「先輩、コーヒー飲むっすか」
念の為そう尋ねると、リビングから「おー」と間延びした声が返ってくる。その意識は、もうすっかり流川のスマートフォンへと移ってしまっているらしい。そう思った途端にお湯が沸くのが妙に待ち遠しくなって、なんだか変にそわそわとした。
「……ミルクとか砂糖とか、いるっすか」
「いらねー」
「……うす」
むっつりと頷き返して、がちゃがちゃとマグカップを取出す。大昔になにかの記念で貰ったものが、ちょうど二つあった。色も形もちぐはぐだが、無いよりはいい。
慣れない手付きでちいさなドリップパックを開き、ちょうどよく沸いたお湯を慎重に注いだ。こぽこぽと音を立てて落ちるコーヒーの雫を睨みながら、リビングの気配を探る。
「先輩、どーっすか」
「充電切れてたみてーで、まだ起動中」
「うす」
「うす、じゃねーよ。ずっと家にいたんなら、充電くらいしとけって」
その言葉にまた「うす」と言いかけて、咄嗟に口をつぐんだ。ようやくお湯が落ちきったのを確かめて、リビングへ急ぐ。
「コーヒー」
置いときます、と声をかけ、ソファの前にあるローテーブルへマグカップを二つ置いてから、三井の隣にそっと腰掛けた。三井の前に置いたマグカップには、湘北高校の校章と「祝卒業」の文字が描かれている。
「うわ、なんだこれ」
スマートフォンからマグカップに視線を移した三井が、驚いたように目を瞬いた。
「卒業んときに貰った……っていうか送られてきた。もうアメリカいたから」
「へえ、俺ん時は確か置き時計だったぜ」
懐かしいなあ、と笑う横顔に、ちいさく頷き返す。
「宮城先輩たちんときも、時計だった」
「よく知ってんな」
「押し付けられた。寝坊すんなって」
「寝坊って、お前、朝練とか遅れたことねーじゃん」
「屋上に置いとけって言われた。……午後の授業に寝坊しないようにって」
流川が言うと、三井は声をあげて笑った。
「はは、なんだそりゃ」
「まだあるかも」
「屋上にか?」
うん、と頷き、自分の分のマグカップを手に取った。こちらはもっと大昔、小学生の頃に参加した大会の参加賞として貰ってからずっと使っているもので、わざわざ捨てる理由もないからと、引っ越しの度につい荷物へ紛れ込ませてしまう年代物だ。その年代物を見咎められて、また高らかに大笑いされた。つくづくよく笑うひとだ。
三井はひとしきり大笑いしたあと、笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、懐かしそうに目を細めて流川を見た。
「……久しぶりに行きてーな、あの屋上」
「先輩もよく寝てた」
「お前ほどじゃねーっつの」
そう言って流川の頭を軽く小突いてから、三井はふたたび手元のスマートフォンへ目線を落とした。ようやく充電が終わったものらしく、ぶる、と震えて画面が光る。
それからは、またあの通知ラッシュだ。
「――うおっ、なんじゃこりゃ」
「だから言った。壊れてる」
ほれ見たことか、とばかりに流川が言うと、三井はそのくっきりとした目元を驚いたように何度か瞬き、それからまた、風船がぱちんと弾けたように勢いよく笑い出した。
呆気にとられた流川が静かに目を白黒させていると、その顔がまたおかしかったようで、三井はひいひいと引きつけを起こしたように息を継ぎながら、しまいには崩折れるように上体を折って笑い続けた。
「……っぷはは、ひー、腹いてえ。……バァカ、お前、こりゃ壊れてんじゃなくて――ああ、もう」
途切れ途切れに言葉を続けながら、三井の長い指が画面を滑る。
「ほら、見ろよ。――お前、俺ァ昨日ちゃんと説明したはずだぜ?」
そう言って示された画面には、流川と三井のツーショット写真が表示されていた。二人の前には食べかけの肉が乗った小皿があって、確かに昨夜撮られた写真だということが分かる。
その、言葉にすればなんの変哲もない写真を見た瞬間、流川は思わず目を見開いたままぴたりと固まってしまった。
「なに、これ……」
酒が入っていたせいか、かすかに赤らんだ頬をだらしなく緩めて笑いながらカメラを見る三井と、頬杖をついたまま彼に肩を組まれている流川。三井の右腕は画面の外へ伸びていて、よほど窮屈な姿勢で撮ったのか、平均よりずっと大柄な二人の体は寸分の隙間もなくぴったりと密着している。
驚いたのは、その写真に切り取られた自分の顔までもが、薄っすらと、自分自身でさえ見慣れぬような柔らかい笑みを浮かべていたせいだった。
それも、その視線を顔ごと三井の横顔へ注いで――。
「いまどきはさ、こういうプライベートショットをSNSにあげんのもファンサービスなの」
「……え?」
「だから、説明しただろうが。ちゃんと確認もとったぜ。……お前、日本に戻ってすぐ広報に言われてアカウント作ったろ? それっきり写真のひとつも上げねえから、広報の連中がぼやいてたんだよ」
あ、と口を開けたまま固まった流川に、三井がまた笑う。
「思い出したか?」
そうだ。
昨夜の三井の講釈は、昨今のスポーツ界を取り巻くファンサービス事情にはじまり、女性ファンにウケる写真の撮り方から、次はやれキャプションの書き方だのハッシュタグの付け方だのと続き、最後には「手本を見せてやる」とか言いながら、流川のスマートフォンをああでもないこうでもないと弄くり回して終わったのだった。
それが、これか。
「すげーぞ、コメントだけでもう二千件だって」
そりゃうるせーはずだわ、と三井が可笑しそうに言う。
「あ、見ろよ。仙道が『来年は俺も混ぜてくださいね♡』だってさ」
「……仙道?」
「コメントだよ。あとで返し方教えっから。――あ、クソ、藤真からも付いてら」
三井が笑いを堪えて肩を震わせながら指差した文字を読むと、『kenji_fujima04』と書かれた横に『俺も♡三井の奢りでな♡』の一文があった。その上には、三井が先ほど読んだものらしい仙道のコメントと思しき一文がある。藤真のコメントの下には『ryota_myg0731』というアカウントからの『俺も♡愛してるぜバーカ♡』というコメントと『ayakooo___m』というアカウントからの『私も♡ごちそうさまでーす♡』というコメントがあり、その下には更に『akagitakenori_official』というアカウントからの『後輩のアカウントで遊ぶな』というコメントと『shinichi_maki.official』というアカウントからの『その通り。三井、お互い歳をとったな。また近いうちに飲もう』というコメントがあった。
ちょっと目を通しただけで、さしもの流川でさえ一瞬目眩を覚えるような面子と文言ばかりが並んでいる。
そして極めつけは、これだ。
それは、大量に連なるコメント群の一番上にあった。『k_rukawa.official』という自分のものと思われるアカウント名とともに、もっと目眩を覚えるような一文が書かれていたのだ。
「……なんすか、この『三井先輩お誕生日おめでとうございます♡』って」
――三井先輩お誕生日おめでとうございます♡
と、長いアメリカ生活で流川の乏しい日本語力がさらに衰えていなければ、確かに、そう書いてあった。
ハートマークは百歩譲ってまだいい。
問題は、その前の文章だ。
「先輩、誕生日って……」
「あ? 言ってなかったっけ?」
三井がぱちぱちと目を瞬く。流川はぶんぶんと大きく首を左右に振って「聞いてねー!」と怒鳴った。
「知らなかった……!」
思いがけず悲壮な感じの声が出る。
三井は一瞬たじろいだように体を引いて、けれど、すぐ気を取り直したように肩を怒らせて言った。
「はあ? 俺だってお前の誕生日なんか知らねーよっ! そもそも男同士で誕生日なんかいちいち教え合うか!?」
そう怒鳴り返されて、はたと我に返る。
「確かに……」
「だろ?」
確かに、とまた繰り返しつぶやく。
ほかの高校がどうかは知らないが、少なくとも、不良軍団と名高い湘北高校には部員の誕生日を祝い合うようなハートフルなイベントなどあろう筈もなかった。よしんばあったとして、あの頃の流川がそのイベントにどれほどの注意を払っただろう。
三井の言い分は、もっともすぎるほど、もっともだ。
もっともなのだが、流川にとっては、なぜだか無性にショックな事実だった。
「……まあ、俺も悪かったよ。よくわかんねーけど、お前がそこまでキレると思わなかったし」
と、三井が気まずげに言う。よくわかんねーのに謝ってしまうところが、なんとなく三井らしい。そう思いながら、流川も「俺のほうこそ、すんませんした」と謝り返した。それを三井が「しっし」と野良犬でも追い払うように手を振って制する。
「やめろよ、お前に謝られっと、なんかケツのあたりがむずむずすんだよなあ」
「なんすか、それ」
「気味が悪ィってことだよ!」
「……ひでぇ」
流川がむっと眉を寄せて黙り込むと、三井はようやく調子を取り戻したように笑って「そうそう、その顔」と流川の顔を指差して言った。
「お前といえばその顔だよな」
「どの顔っすか」
「ふてくされたガキみてーな顔」
そう言ってげらげらと笑う三井に「もっとひでぇ」と返しながら、流川も同じことを思っていた。
三井といえば、この顔だ。
印象的な顔はほかにもたくさんある。
バスケがしたいとぼろぼろ涙を流すぐしゃぐしゃの顔。いまにも胃の中身をすべてひっくり返しそうな青い顔で、それでも俺にパスを寄越せと言うギラついた顔。生意気な後輩たちに先輩風を吹かせながら、逆にやり込められてぎゃあぎゃあと喚いているときの真っ赤な顔。
よくよく思い返せば、高校生の頃の三井は、眉を寄せてむつっつりと不機嫌そうにしているか、桜木や宮城あいてに目を剥いて怒鳴り散らしていることが多かったようにも思う。
それでも流川が三井を思い出すときに脳裏へ過るのは、いつだって笑った顔だった。
宮城や桜木と馬鹿をやってげらげらと笑っている顔。安西先生に声をかけられて、照れ臭そうにはにかんだ顔。ワン・オン・ワンの最中に見せる、ひりつくような不敵な笑み。
あのうつくしいスリーポイントシュートを決めた瞬間の、恍惚とした笑み。
「……ねえ、先輩」
「あんだよ」
「いまから、久しぶりにワンオンしねーっすか」
突然のその申し出に、三井が虚を突かれたように目を見開いた。
「俺が負けたら、誕生日プレゼント、なんでも買うっす」
「なんでも……って、車とか、マンションとかでもいーんか?」
と、戸惑いが混じったままの瞳で茶化すように言った三井に、深々と頷く。
「なんでもって言ったら、なんでも」
「……じ、じゃあ、お前が勝ったら?」
気圧されたように後退る三井を追いかけ、ぐい、と顔を寄せた。
「俺が勝ったら――」
と、そこまで言ってから、はた、と正気に返る。
なにも考えていなかったのだ。
三井が勝ったらなんでも買ってやる、というのは、どうしてもいますぐ三井とワン・オン・ワンがしたくて、そのエサに、咄嗟に口をついた思い付きだったからだ。
だから結局、思いついた限りの願望をそのまま口に出した。
「……先輩が、明日俺に朝メシ作る」
その言葉を聞いた三井が、呆気にとられたように口をあんぐりと開けた。
「……はあ?」
二人の間に、ふっと沈黙が落ちる。
ややあって、三井がまたげらげらと大声をあげて笑いだした。