愛の病/洋三

飛んで火に入るの二人

 水戸は昔から、自分には執着心というものがないのだと思っていた。
 一番困るのが、好きなものを聞かれることだ。好きな食べ物、お気に入りのブランド、よく聴く音楽、繰り返し観た映画。こちらが問えばみなすぐにあれこれ嬉々として答えるが、水戸はそういったものを聞かれるといつも困った。食事なんて安くて腹に溜まるものであれば味は二の次だし、服はサイズが合っていて派手過ぎなければなんでもいい。音楽なんて興味もなければ自分からCDを買ったことさえなく、映画も誰かに誘われでもしない限りは観ない。
 だから、好きな異性のタイプ、というようなものだって特になかった。
 何人かの女と付き合ってみたことはあるが、どの相手も向こうから水戸を誘ってきて、そのくせ毎回向こうから別れを切り出されるのがお決まりだった。引き留めようとも思わなかったし、対抗馬が現れればそれとなく譲ってやりさえした。浮気をされたこともあるが咎めたことはなく、束縛はするのもされるのも大嫌いだった。セックスにもほとんど課せられた義務をこなすような心持ちで応じていたし、キスのような些細な触れ合いさえ自分からは絶対にしなかった。
 そんな自分が、と、時々我ながら可笑しくなる。
「――ね、三井さん」

 いつもの通り仲間達の元へ顔を出すなり、大楠は驚きに目を瞬いた。
「――あれ、よーへー」
 そう声をかければ、水戸は困ったようにその眉尻をさげながら「バレたか」と笑い、薄っすら赤く腫れた右頬を擦った。正午の屋上へ惜しみなく降り注ぐ陽光と抜けるような冬の青空が、痛々しく腫れあがった頬といい感じのコントラストを描いている。
「喧嘩か?」
「うーん、まあ、喧嘩は喧嘩だけど」
「……あー」
 なるほど、と気まずさ半分呆れ半分に頷く。喧嘩は喧嘩でも、頭に痴話とつくやつだ。道端で有象無象の不良どもに囲まれたのではなく、ベッドのうえで恋人にバチンとやられたのだろう。
「お前、まさか浮気でもしたんか?」
 愉快そうに眉毛を吊り上げた野間が、ぷかりと煙をはきながら言った。
「まさか」
 水戸が苦笑まじりに首を横へ振る。すると今度は、高宮がひひひと笑いながら混ぜ返した。
「誰よあの女っ、からの、バチン、か。モテる男は辛いのう」
「バチンなんて可愛いもんじゃねーよ。裏拳でガツンだ」
「いやはや、お熱いねえ」
 水戸は反論せず、屋上の縁を囲うフェンスへ背中を預けてしゃがんだまま静かに笑っている。そうなれば、話は終いだ。大楠も野間も高宮も、表面上は冷やかすような態度をとってはいるが、正直なところ、うかつに藪を突いて蛇を出したくはない。
 みなはっきりと口にはしないが、水戸の交際相手は二年前に卒業した湘北高校バスケ部OBの三井寿である。いわゆる公然の秘密というやつで、大楠も野間も高宮も、たぶん桜木でさえも、水戸から直接「いろいろあったけど俺いまミッチーと付き合っててさ」と改まった報告を受けわけでもなければ決定的な現場を目撃したわけでもなく、ことの真相は誰にもわからないのだが、それでも、なんとなく、そうなのだろうと思っている。
 みなはっきりと口にしないし、面と向かって聞く度胸――あるいは、無神経さ――もなかった。
 すくなくとも大楠は、水戸にも三井にも幸せになって欲しいと思っている。けれど、手放しに祝福してよいものかと躊躇う気持ちもないではなかった。なにせ、男同士だ。その事実自体に嫌悪感はそれほどないが、なんでこうなったかなあ、と首を捻りたくなる瞬間はある。割り切れないというのか、すぐには消化しきれないというのか。ほんとにそれでいいんだな、と肩を掴んで問い詰めたくなるような。つまり、複雑なのだった。誰も彼も示し合ったように核心へ触れないあたり、きっと野間と高宮も似たような気持ちなのだろう。
 だがそれでもやっぱり、最後には「おめでとさん」という気持ちが勝った。
 大楠は水戸の歴代の彼女を何人か知っているが、どの子も可愛らしくて、愛情深くて、そしてちょっとばかり嫉妬深かった。水戸はいつも彼女たちをまるで他人から無理矢理持たされた高価な荷物のように取り扱っていて、傍目に見てもちっとも楽しそうではなく、別れ話の翌日などはあからさまに肩の荷が下りたような顔をしてみせたりもしていた。
 ――結婚は、向かねえだろうな。
 というのが、軍団全員の水戸洋平評だった。男友達としては最高に信頼のおける男だが、自分が女だったとして、水戸を生涯の伴侶に選ぶ気にはなれない。だって、彼女候補とのデートより不良仲間との連れパチンコを選ぶような男だ。そんな男が選んだ相手はなんと男で、しかもあの三井寿ときた。「まさか」と「なんで」が一周どころか三周も四周も回って、もはや「おめでとさん」以外にかける言葉もない。
「――おい」
 不意に屋上の入口が開き、派手なパーマ頭が扉の隙間からのぞいた。
「あれ、リョーちんじゃん。どったの?」
 大楠がひょいと気安く片手をあげながら言うと、宮城は苛立たしげに眉根を寄せながら短く舌打ちをした。
「どーしたもこーしたもねえわ。お前ら、花道見てねえか?」
 その言葉に、水戸が首を傾げる。
「うーん、見てないねえ」
「あんにゃろう、なんべん言ってもすっぽかしやがって。三回目だぞ、三回目」
「ああ、昼ミーティングだっけ?」
 首を傾げたまま苦笑した水戸に、宮城が溜息まじりで頷いた。
「おう。……まあ、もうちっと探してみるわ」
「俺も手伝うよ。心当たりあるし」
「いらねーよ。どこだ、その心当たりっつーのは」
「まあまあ、そう言わず。――俺、花道叩き起こしたらそんままフケっから」
 水戸はそう言うとひょいと立ち上がり、「じゃ」と、振り返ることもなく屋上を後にしていった。その後ろ姿を、宮城の怪訝そうな瞳が追いかける。
「……あいつ、まだやってんのか?」
 ちょんと自分の頬をつつきながら宮城が呆れたように言うのを、野間が苦笑気味に否定する。
「いいや。ありゃあ喧嘩は喧嘩でも――」
「――痴話喧嘩ってヤツだな」
 高宮がニヤリと笑って後を引き取る。
「……あー」
 宮城は途端に渋い顔をすると「もういい」と両耳を塞ぎながら続けた。
「聞きたくねー」 
「んん? リョーちん、まさか……」
 大楠の問いに、宮城の顔がますます渋さを増す。
「言うな」
「え、本人に聞いたん?」
「んなこと聞けっか! 見ちまったんだよ! たまたま!」
「……あー」
 ご愁傷様、と野間が後を引き取る。思わぬタイミングで飛びこんできた答え合わせに、全員の顔へ脱力したような笑みが浮かんだ。
「まあ、あたたかーく見守ってやろうや」
「……るせー。お前らに俺ん気持ちがわかるか」
「えっ、なに、まさかの三角関係!?」
 そう言って目を剥いた大楠に、宮城が慌てて噛みつく。
「ちげーっつの馬鹿! なんつーか、ほら……うっかり兄弟の濡れ場見ちまったみてーなさあ、そういうあれだよ。気まじーのなんのって」
「……あー」
 と、今度は三人揃って頷いた。神妙な三つの顔を順番に見ながら、宮城が草臥れたように言う。
「勘弁してほしいよな、ったく……。あん人が誰とどーなろうが勝手だけどよ、なんでまたあんな危なっかしいのとくっつくかね?」
 ため息まじりの問いに、大楠の顔へも苦い笑みが広がる。
「まあ、確かに安全ではねーけど……あれでも結構落ち着いたんだぜ、ミッチーとくっついてから」
「だから、言うなって」
「まあまあ。俺たちゃ洋平の野郎はぜってーまともな恋愛も結婚もできねえに違いねえって、それなりに心配してたんだよ。それがいまじゃあミッチーひと筋ときた。愛だぜ、こりゃあ」
 なあ、と大楠が言えば、野間も高宮も深々頷いた。
「今日も今日とて甲斐甲斐しく通い妻だからなあ」
「おう。これが年貢の納め時ってやつだ」
 わっはっは、と大口を開けて笑う高宮を、宮城の恨めし気な視線が睨みつける。
「おめーら、他人事だと思いやがって……」
「まあまあまあ。あの洋平がこんだけ長続きしてるんだ。マジのマジに愛だぜ、ありゃあ」
 なあ、とまた大楠が言えば、野間と高宮もまた深々頷く。しかし宮城は煮えきらない顔で唸った。
「……愛だの恋だの、そんなタマかねえ、あれが」

 薄暗い部屋に、三井の不規則な呼吸の音だけが響いている。
「――ただいま。いい子にしてた?」
 水戸が呼びかけると、毛布からはみ出した裸の肩甲骨がびくりと大袈裟に震えた。
 ただいま、と言ったが、ここは三井のアパートだ。大学生の一人暮らしにしては広い間取りで、シンプルなモノトーンの家具で統一された室内はいつ来てもこざっぱりと片付けられているが、洗面所には生活雑貨の買い置きが雑然と積まれていたりもしている。冷蔵庫にはごみ収集カレンダーが貼られていて、冷凍庫には不格好な形をしたハンバーグが入っていたりもする。
 はじめてこの部屋を訪れたとき、水戸は、この人はひとりでも生きていけるタイプの人なのだな、と、そんなことを漠然と思ったものだ。人生に確固とした目標があって、その目標のためにきちんと自分を律することができて、他人を当てにせずとも自立した生活を営むことができる。本来は、そういう人だ。
「寒くなかった?」
 水戸の問いに、三井の首が弱々しく縦に振られた。三井は上半身を起こすのも辛いのか、うつ伏せで枕に頬を預けたまま眉をきつく顰め、潤んだ瞳で縋るように水戸を見ている。水戸は微笑んだままベッドへ歩み寄り、立ったまま腰だけを折って三井の顔を覗き込んだ。
「腕は? 痛くない?」
 問いを重ねながら三井の体温で温まった毛布の下へ手を差し込み、汗で湿った肌を撫でる。首、肩、背中と辿ってゆくと、すぐに無機質な手触りの拘束具が指先へ触れた。三井の両腕は後ろ手に纏められ、腰よりすこし上のところで革の拘束具にきつく戒められている。やったのはもちろん水戸だ。
「痛く、ね、けど……」
 三井が掠れた声で言った。
「そっか、よかった」
 水戸が優しく微笑みかけると、三井はほっとしたように眉根を緩め、ずりずりと肩で這うようにしてベッドサイドの水戸へ体を寄せた。その姿を見下ろしながら毛布の下の手を滑らせ、三井の尻の割れ目をコツコツと叩く。
「あ……っ!」
「ちゃんと咥えてたんだね」
 水戸は「偉い偉い」と子供に言うように続けながら、三井の尻に生えた奇妙なかたちの尻尾を再び指先で突いた。
 三井の尻に生えているのは、バイブレーション機能のついたエネマグラだった。艶のない黒色をしたシリコーン素材の短い尻尾が、三井の尻から会陰部にかけてをグロテスクに覆っている。充電はもうとっくに切れているので振動はしていないのだが、たっぷりのローションと共に埋め込まれたそれは、三井の身じろぎに合わせてひくひくと卑猥にうごめいている。
「やめ……っ!」
 三井はむずかるように体をくねらせたが、体力の限界が近いのか、その抵抗もまた弱々しかった。
「あーあ、毛布もシーツもぐちゃぐちゃじゃん」
 水戸はそう言うと、するりと指先を伸ばしてエネマグラをぐっと押しこんだ。
「あ、あー……っ!」
「これだけでそんなにイイの? ほんとスケベだね、三井さん」
「ちが、ちがう、やめ、嫌だ……っ、――あっ!」
 水戸がさらに指先へ力を込めると、三井はたったそれだけの刺激で全身を強張らせ、背中をきつく反らせながら達した。その拍子に三井の長い脚が湿った毛布を蹴り、しなやかな背筋があらわになる。
「ずいぶん汗だくだね?」
 余裕ぶって笑いながら眼下の裸体を見下ろす水戸だったが、内心では腹を食い破りそうなほどの怒りと興奮がとぐろを巻いていた。
「……いい加減、俺がなんで怒ってるか分かった?」
 水戸が静かな声で言う。すると三井は、あきらかに恐怖の滲んだ顔を俯かせ、肩を震わせながら「わかりません」とちいさな声で言った。
「……そっか。半日もあげたのに、わかんねえのか」
 ため息と共にそう告げれば、三井の体がぎくりと強張る。
 文字通り、半日だ。朝の目覚めと共に三井を拘束し、後ろの穴に玩具を埋めてバイブレーション機能のスイッチを入れ、水戸はそのまま学校へ向かった。そして今が午後の一時をやや回ったところである。
「ごめ、なさ……謝る、謝るから」
 三井が涙声で言った。水戸を怒らせてしまった理由は分からないと言いながら、ただこの責め苦から逃れたいというその一心のみで謝っている。
 あのプライドの高い三井が、だ。
 プライドが高く負けず嫌いの、誰より意地っ張りで見栄っ張りで諦めの悪いあの三井が、ぐずぐずと子供のように鼻を鳴らして泣きながら、自分よりひとまわりも小柄な水戸に支配され、怯え、訳もわからぬままに謝っている。
 その事実を噛みしめた水戸の背筋を、震えあがるほど強烈な興奮が駆けのぼった。
「――へえ、理由もわかんねえのに謝るんだ」
 努めて冷静なふうを装いながら、冷ややかな笑みを浮かべて言う。たったそれだけのことでも三井は怯んだように首を竦ませ、違う、と縋るような目で水戸を見上げた。
「お、俺が、きのう、約束、やぶった、から……」
「そうだね。でも、俺だってそれだけじゃここまではしねーよ」
 わかるよね、と水戸が言うと、三井は苦しげにひきつった呼吸を繰り返しながら唇を噛み、再び怯えたように顔を俯かせた。その顎に指をかけて顔をあげさせ、子供へ言い含めるように告げる。
「飲みに行くのはいい。連絡もなしに帰りが遅くなんのだって、ムカつくけど、あんたにはあんたの事情があんだろうし、別にいいよ。……でもさ」
 そこで一度言葉を切り、無理矢理上げさせた顔をゆっくりと覗き込んだ。
「――あの男、誰?」
 そう静かに問いかけ、怯えきった瞳をじっと睨み据える。水戸の脳裏に浮かんでいたのは、名前も知らない一人の男の顔だった。
「昨日の夜、あんたを担いで来た男。ただの先輩にしては、ずいぶん仲が良さそうだったね?」
 言葉にした途端、昨晩覚えた怒りが生々しく蘇ってくる。
 昨晩三井と会う約束をしていた水戸は、アルバイトを終えるなり真っ直ぐ帰路へつき、この部屋で彼の帰りを待っていたのだった。遅くとも九時前には帰ると聞いていたのに、三井は日付を越えても帰ってくるどころか連絡さえなく、ようやく帰ってきたかと思えば、その隣には知らない男がいたのである。
 部活の飲み会だったのだろう。男は見るからにスポーツマンというようないかにもらしい風体で、酔い潰れた三井に肩を貸し、馴れ馴れしく腰を抱きながら、勝手知ったる様子で三井の部屋の鍵を開け、ずかずかと室内まで入ってきた。男は風体こそスポーツマン風ではあったが、長身の三井がしなだれかかってもよろめく気配さえ見せない筋骨隆々とした厳つい大男で、水戸よりもふたまわりは大柄だった。そんな男に「誰だ」と聞かれ、咄嗟に「後輩です」と答えた。高校の後輩です。バイト先から近いんで、たまに泊めてもらってて、と。もっともらしく。
 だから男が三井を乱暴にベッドへ横たえるところも、黙ってみているしかなかった。馴れ馴れしく頬を叩いて「後輩に迷惑かけんなよ」と笑う様も。帰り際「三井を頼むな」と余裕たっぷりに苦笑された時も。水戸は黙って曖昧な微笑みを浮かべることしかできなかった。
 三井が急な飲み会や部活動のミーティングなどを理由に水戸との約束をふいにするのは、これまでも稀ながら何度かあったことだ。けれど三井には三井の付き合いがあるだろうし、上級生からの断れない誘いもあるだろうと、ずっと大目に見てきたつもりだった。連絡くらいしてよ、と拗ねたようにこぼしたことがあるくらいで、面と向かって不満を訴えたこともないし、今しているような仕置きを与えたこともない。
 だが今回ばかりはなぜだか無性に腹が立って仕方なかった。どうしても我慢ならなかった。床の上でまんじりともせず朝を迎え、アラームの音と同時に二日酔いの三井を叩き起こし、夜中じゅう抱え続けた苛立ちをそのままぶつけた。売り言葉に買い言葉で言い合いになって、軽い揉み合いになった。短気を起こした三井が水戸の手を強引に振り払おうとして、その手がたまたま頬を打った。
 その瞬間、水戸の中でなにかが切れた。
「……あの男、ずっとあんたのことエロい目で見てたぜ。あんたもまんざらじゃなさそうだったね? べったり寄りかかって、甘ったれた顔して、へらへら笑いかけて」
 水戸自身も、これがただの言いがかりだということは分かっている。それでも言わずにはおれなかった。
「あんた、ああいう男好きだよな。……昔体育館に連れてきたのもあんな感じだったし」
「ちが……っ!」
「違う? ……嘘だね。年上で、ガタイがよくて、なんかちょっとアブナイ感じでさ。わがまま放題させてくれて、甘やかしてくれる男なら誰でもいいって感じ。ほんと甘ったれだもんね、あんた」
 無遠慮に三井の古傷へ手を突っ込み、わざとらしいほど棘のある言葉をぶつける。言葉で心を責め立てるのと同時に、いまだ三井の中に埋まっている玩具を掴み、反論を封じるように乱暴な手付きで動かした。
「あ、あー……っ、まって、まて、いやだ……っ!」
 突然の狼藉に三井の体が跳ねる。三井がいやいやと首を振るたび、短い髪がぱたぱたとシーツを叩いた。男らしい直線的な眉は八の字に歪み、端正な目元には涙の粒が滲んでいる。
 水戸は眼下に広がる刺激的な景色を噛み締めるように眺め渡しながら、ぐりっ、と一際強く手の中の玩具を押し込んだ。
「――っ、あぅ! ああー……っ!」
 三井の喉から、悲痛な悲鳴が迸る。指や性器と違って、前立腺を刺激することだけに特化した形状の玩具だ。振動こそしていないとはいえ、さぞかし強烈な快感だろう。三井は両目をこぼれそうなほど見開くと、背中を丸めて腰を跳ねさせ、そのまま勢いよく達した。
「は、は……っ、あ、うっ……ん」
 息も整わぬ様子で、三井が忘我の表情を浮かべる。水戸はシーツへ横たえられたその顔を静かに見下ろしながら、今度は下腹部の、丁度玩具の先端があるだろう場所を容赦なく押した。
「い……っ!」
 快感に緩みきっていた表情が、驚愕のそれに変わる。反射的に手を出して抵抗しようとしたのか、拘束具が耳障りな音をたてて軋んだ。
「――動くな」
 水戸がそう言えば、よく躾けられた体は勝手に抵抗をやめ、顔だけが哀れなほどの驚愕と困惑の色を浮かべて水戸を見上げた。
 こういうところがいけないのだ。
 ちいさな作りの顔に見合わぬおおきな瞳が、表面にたっぷりと水分を纏わせて水戸の顔を映していた。こういう表情をすると、三井の顔は途端に本来の甘さを取り戻す。くっきりとした二重まぶたの目、細い鼻筋、つんと尖った肉感的な唇。直線的な眉と顎に刻まれたケロイド状の傷跡だけがちぐはぐに男臭くて、あとはどちらかといえば甘い印象の強い顔立ちだ。
 普段は不良時代に身につけた虚勢のしたへ隠している、三井のやわらかな素顔。
 彼の隠し持つ被虐嗜好を言葉巧みに引きずり出し、徹底的に屈服させてようやく見ることのできた、虚飾のない素顔。
 こんな素顔は、水戸だけが知っていればいいのだ。ここは水戸だけが辿り着くことのできる境地だ。
 そういう、尽きることのない独占欲と征服欲が否応なしに煽られる表情を、いま、三井はなんの自覚も意図もなく浮かべている。
「ねえ、三井さん。俺いいこと思いついちまったんだけど」
 続けられたその言葉を聞き、三井の顔が恐怖で強張る。水戸は汗の引きはじめたその額へ唇を寄せると、場にそぐわぬ優しげな手付きで頭を撫でながら言った。
「ちょっと待っててね」
 そう言い置いて、バスルームへ向かう。一分も経たず戻ってきた水戸の手には、カミソリが握られていた。T字状の、髭剃りに使うような一般手なカミソリだ。
「――仰向けになって」
 これからなにをされるのかと怯えきった顔で水戸を見上げながら、けれど三井は健気に指示に従い、窮屈な体を仰向けに横たえた。後ろにまとめられた手が痛いのか、しばらくは座り悪げに体を捩っていたが、結局は諦めたように全身の力を抜き、表情だけを硬くして水戸の言いつけに従っている。
「いい子」
 そう言って頬を撫でてやると、三井はますます怯えたように表情を強張らせた。
「痛いことはしねえよ。約束でしょ?」
「は、い……」
 三井が頷く。その顔を優しく撫で続けながら「いいこと」の正体を告げた。
「ここさ、剃っちまえばいいなと思って」
 ここ、という言葉に合わせ、頬を撫でているのとは反対の手でおもむろに三井の陰毛へ触れた。そこは汗と精液でしとどに濡れそぼり、一部は乾いて固まってしまっている。
「え……」
「パイパンなんて別に興味なかったんだけどさ。ここ剃っちまえば、あんたも下手なことできねえじゃん」
 水戸が喜色を満面に湛えた顔で言うと、三井は反対にこの世の終わりのような顔をしてその両目を見開いた。陰毛を剃るのもプレイの一環としてわりあいスタンダードな行為であるという知識は元からあったが、やろうと思ったのは今日がはじめてだった。興味がなかった、という言葉も嘘ではないが、日常生活や大学での交友関係に支障をきたすような行為を強い、三井を完全に水戸以外の人間から隔絶してしまいたくなかったのだ。
 水戸は、やっと取り戻したバスケを全身全霊で楽しんでいる三井が好きだ。
 努力という概念を具現化したような端正なシュートフォームと、応援せずにはいられなくなる泥臭いプレーが好きだ。
 口も態度も悪い男なのに、いつの間にか人の輪の中で楽しそうに笑っている不思議な人懐っこさが好きだ。
 我儘で気分屋でいかにも自己中心的な振る舞いをするのに、じつは案外人の目や立場などを気にしてあれこれと気に病みやすく、なんでも悪いほうへくよくよと考え込んでしまうその繊細さが好きだ。
 そういう三井が好きだから、彼を他人から遠ざけるような過度な束縛はしなかったし、いらぬ追及を生むような痕跡も残してこなかった。彼の人生のほんの一部だけを独占して、目に見えない部分だけを作り変えて、それで十分だと自分に言い聞かせてきた。
 ずっと、そう言い聞かせてきたのに。
「ほら、脚開けよ」
 わざと乱暴にそう言うと、三井の喉から「ひっ」と上擦った悲鳴が漏れる。命令の遂行を促すようにカミソリを握ったままの指先で下腹をなぞれば、背中に敷いた両手のせいで腰を突き出すような恰好をとっているせいで、よく絞られた腹部にはくっきりと筋肉の隆起が浮かび上がった。ウエイトトレーニングでしっかり鍛えあげられた背中との対比によって、三井の腰は女のそれに例えたくなるほどくびれている。そのうえ骨盤が狭いので、実際の筋量よりすらりと細いように見えるのだ。
「あんた毛ェ薄いし色も白いから、全部剃ったら綺麗だろうな」
「ほ、ほんとにやんのかよ……っ!?」
「やるよ。やんねえ理由ある?」
「……ない、です」
 よほど嫌なのか一瞬だけ普段の威勢を取り戻した三井だったが、取り付く島もない水戸の返事にその威勢も呆気なく萎んだ。唇だけが、名残のように怒気で戦慄いている。水戸は、可哀そうに、と他人事のようにその顔を眺めた。嫌ならば嫌と言えばいい。そうだ、そのためのセーフワードだ。三井がそれを口にしないのであれば、水戸がこの暴挙を――これが暴挙であるという自覚があったとしても――やめてやる義理はない。悪いのは三井だ。自分はいつだってこの手を止められる。止めない三井だって、共犯なのだ。
 そうやって際限なく暴走を続ける感情の裏で、卑怯者、と、僅かばかり残った理性が吐き捨てるように言った。剃刀を持った手がちいさく震える。
「……なんで、言わねえの」
 結局口をついたのは、この期に及んであまりに卑怯な言葉だった。
「泣くほど嫌なら言えばいいだろ。なんのためのセーフワードだよ」
 水戸が絞るような声で言うと、三井は無言でぐずぐずと鼻を啜った。ほんとうは気が狂うほど甘やかして、真綿にくるんで押入れの奥に仕舞っておきたいくらい大事に思っているのに、結局は泣かせてばかりだ。そう思うと、腹立たしいような情けないような、大声で喚きながら自分で自分をボコボコに殴り倒したいような、そんな気持ちになった。けれど、自分がそんなふうに感情的には振舞えない人間だということも分かっている。
 水戸は、三井のようには生きられない。
 三井や桜木、赤木や木暮や宮城や流川のように、命を燃やしてなにかを愛したことがない。燃え尽きるほど燃えたことがない。吐くほど自分を追い詰めたこともないし、倒れるまで走ったこともない。他人に縋ってみっともなく泣き喚いたこともない。
 でも。ほんとうは。
 正直に言えば、怖かったのだ。
 進学に伴って、三井の交友関係は一気に広がった。成人すれば遊びの幅も広がり、出会う人間の種類も変わる。
 元来、三井は人の輪の中心にいるのが似合う男だ。膝の故障さえなければ、きっと水戸のようになんの目標も持たず日々をただ無為に過ごしているだけの男とは一生交わることもなかったはずの男なのだ。水戸だって、三井がそんな男のままであれば、自分のものになってほしいなどとはつゆほども思わなかっただろう。実際いまは桜木が不在ならばわざわざ湘北高校バスケ部へ顔を出すことはないし、三井がいた頃だって、水戸のほうから親しみを持って言葉をかける部員は桜木と三井と、あとはせいぜい宮城くらいのものだった。根っから品行方正な他の部員たちのことは、応援こそすれ、挨拶や事務連絡以上の言葉を交わすこともなければ、ふざけたあだ名で呼びかけたりもしない。
 けれど本来は、三井だってその根っから品行方正な側の人間だったはずだ。
 そういう男が泥沼の底でもがいている姿と、その泥沼から藁をも掴む思いで這い上がろうとする姿を同時に見せつけられた。正直みっともなかったし、馬鹿かとも思った。でも、すぐに目を逸らせなくなった。バスケを取り戻した三井は、がむしゃらで、貪欲で、不思議なほどかっこよかった。生まれてはじめて、このひとが欲しいと衝動的に思った。だから、どれだけ回りくどい手を使ってでも、自分の手元に縛り付けておきたくなった。手始めに体から作り替えて、自分なしでは生きていけない生き物にしてしまおうと思った。
 そして、実際そうしてしまった。
 三井はもう、まともなセックスでは満足どころか射精に至ることさえ難しいだろう。それなのに、一度満たされることを知った心は限度を知らずに渇きを訴えた。
 怒りと恐怖に顔を歪めてじっと立ち尽くす水戸を、三井の不安げな瞳がゆらゆらと映す。しばらくそのまま静かに睨み合って、先に口を開いたのは三井だった。
「……やれば」
 気の毒なほどの鼻声で、三井が言った。
「――っ、は?」
「やりたいんだろ。……べつに、やれば」
 湿った睫毛を伏せて、三井がもう一度言う。
「……なに。意地になってんの?」
 いまや、水戸のほうが追い詰められているような心地だった。それを悟られないようにせせら笑ってはみたが、三井はゆるゆると首を左右に振った。
「いいよ。お前、なんも悪くねえもん。俺、が、馬鹿で……っ、だめな男だから、っ、お前がなんで怒ってんのかもわかんねえ、し……っ」
 ひくひくと喉を震わせながら、三井が言う。その言葉を聞いて、水戸は一瞬気が遠くなった。
 三井がいま告げた言葉は、その場で取り繕ったおべっかや、言い訳の類いではない。いまの三井は、恐らく本心から「俺が悪い」と思っている。
「……やめてよ。アンタが悪いわけないじゃん、なんで分かんねーの?」
 声が震え、握りしめた拳に力が籠る。詰るように投げかけた問いは、どう考えても八つ当たりだ。アンタが悪いと言って仕置きをはじめたのは水戸で、三井に非があるとするなら、昨晩の約束をすっぽかしたという一点だけ。その他は水戸が勝手に邪推をして、勝手に嫉妬心を膨らませているだけだ。
「ご、めん……」
 三井が震える声で謝罪の言葉をこぼす。
「だから、謝るなって……っ!」
 水戸がそう突っぱねると、三井はびくりと大きく肩を震わせ、唇を噛んだ。曝け出されたまま放置された自身はすっかり萎え、汗の引いた体は小刻みに震えている。水戸の眼前に広がっているのは、いかにも暴力行為の後というような景色だ。思わず床へ目を逸らすと、三井が縋るように「水戸」と名前を呼んだ。
「頼む、から……。なあ、お願いだから……」
 ゆるして、捨てないで。
 三井の怯え切ったか細い声が、どこまでも健気に水戸の情を乞う。その声が耳に届いた瞬間、心臓が握りつぶされたように痛み、知らず呼吸が浅くなった。
「だから、それは俺の台詞だって……っ!」
 とうとうそう吐き捨て、水戸は眼下の裸体をきつく抱き締めた。腕の中の体が恐怖で慄いたのを肌で感じ、罪悪感にますます息が詰まる。
「……三井サン、ごめん。やりすぎた」
 つい謝罪の言葉が口をついたけれど、許して、とまではさすがに言えなかった。
 そもそもSMプレイにおける「お仕置き」というのは、あくまで双方の合意と筋書きのあるロールプレイであって、ゴールも決めずに一方的に強いるものではない。理性を失い、ルールを無視して相手の心を傷つければ、その瞬間、単なる暴力に成り下がってしまう。
 水戸は震える手を三井の背中へ伸ばし、拘束されていた手首をやっと解放した。
「……痛かった、よね?」
 恐る恐るそう尋ねると、三井は躊躇いがちに首を横に振った。しかし、長時間同じ体制で固められた腕は解放されてもなお痺れや強張りが残っているのか、どこかぎこちない。水戸を抱き返すようにのろのろと持ちあげられた腕を取って、赤くなった皮膚をそっと擦った。
「捨てないでなんて、ほんと、俺の台詞だよ……」
 冷えきった三井の手に額を擦りつけ、懺悔の言葉を繰り返す。三井は緊張をほどくようにゆっくりと息を吐き、自由の利かない両手で水戸の頬を包んだ。
「……なんで、怒ってたんだよ」
 その問いには、いまだ怯えを含んだ躊躇いがあった。水戸がぐっと言葉に詰まると、三井の瞳が不安げに揺れる。その傷ついた顔を見て、やっと自分に正直になる決心がついた。
「……嫉妬、したの。ずっとしてた」
「しっ、と?」
「うん。……元々、俺がアンタに惚れて、無理矢理はじめた関係でしょ。捨てられんだとしたら、俺のほうじゃん」
 だから、怖くて。
 やっとの思いでそう告げると、三井は呆けたようにぱちぱちと目を瞬いた。
「怖いって……お前が?」
 うん、と三井の手のひらに包まれたまま頷く。
 人生ではじめて心からひとを好きになって、自分の中にこんなにも醜い執着心があるのだと知った。どんなにめちゃくちゃな喧嘩の最中にだって理性を失ったことなどないのに、三井が自分から離れていくかもしれないと考えるだけで頭の奥がかっと熱くなって、居ても立っても居られなくなった。嫉妬なんかダサいからやめようと思っても、自分の意思ではどうにもできなかった。
「ただでさえ年下だし、アンタの前じゃできるだけカッコつけたいのに。……全然うまくいかねえ」
 こんなのはじめてだ。顔を歪めて吐き捨てると、目尻からぽろりと熱い雫が落ちた。三井が驚いたように目を丸くする。
「泣くなよ」
「……泣いてねえ」
「泣いてんだろ」
 三井が困ったような顔で笑いながら、水戸の頬へ唇を寄せた。そのまま唇同士を重ね合わせ、優しいだけのキスを交わす。
「……次からはさ」
 キスの合間、三井がぽつりと言った。
「もうちょい可愛く嫉妬してくんね?」
「……はあ?」
 なにそれ、と眉根を寄せる水戸に、三井は少しだけ照れ臭そうに続ける。
「嫉妬されっこと自体はさ。……その、結構嬉しかった、から」
 水戸は思わず唖然となって、それからすぐ、頬がかっと赤く染まった。三井のほうも似たり寄ったりの調子で、お互い顔を赤らめたまましばらく向かいあった後、揃って吹き出すように笑う。
 ひとしきり笑い終わると、水戸の胸の中でぐるぐると渦巻いていた負の感情もすとんと落ち着き、今度は三井への愛おしさと後悔の念ばかりが勢いよく押し寄せてきた。
「なんだよ。俺、マジで馬鹿じゃん……」
 顔を隠すように三井へ抱きつき、自嘲混じりにこぼす。ダサいとからしくないとか、そんな理屈をこねる前にちゃんと言葉にすればよかったのだ。三井が声を殺して笑っているのを触れあった肌の振動で感じ、ますます胸が苦しくなる。
「……なんで笑ってられんの。怒れよ」
 水戸は、思わず八つ当たりのようにそう口にしていた。この期に及んで三井のほうから罰してほしいなんて、どこまでも自分勝手な感情だ。けれど三井は怒ることも呆れることもせず、水戸の背中を優しく叩きながら言った。
「お前っていっつも冷静でさ、年下の癖に余裕ぶっこいてて、ヤるときだって全然がっつかねーだろ。……俺ばっかお前のこと好きなんじゃねーかって、時々すげえ不安になる」
 だから、と三井が静かな声で続ける。
「今日のも、途中までマジで愛想つかされたんかと思ってたから。そうじゃねえんならそれでいいっつーか、許すもクソもねーっつーか……」
 尻すぼみに重ねられた言葉に、腹の底から熱いものが込み上げてたまらなくなった。
「……愛想つかすなんて、一生ありえねーよ。俺がアンタのことどうやって落としたか、覚えてねーわけ?」
「そりゃあ、覚えてっけどよ」
「俺のほうこそ、俺ばっかりがアンタのこと好きなんだって思ってた。だからつまんねー嫉妬なんかして……ほんと、馬鹿みてーだ」
 ごめん、と水戸が再び謝罪の言葉を繰り返すと、三井は「もういいっつの」とぶっきらぼうに言って、水戸の頭をぐちゃぐちゃに撫でまわした。
「もういいし、べつに、はじめっから怒ってねーし。……それによ」
 三井が言いづらそうに口をまごつかせる。
「なに?」
 体を起こしてそう尋ね返すと、三井は恥ずかしそうに顔を逸らして、ぼそりと答えた。
「……続き。しねーの?」
「……していーの?」
 恐る恐る聞けば、三井がちいさく頷く。眼下の真っ赤に染まった耳を見ながら、水戸はじんわりと自分の体に体温が戻ってくるのを感じていた。
「今度は、ちゃんと優しくする。……二度としない」
 自分に言い聞かせるようにそう告げて、裸の胸に手を這わせた。すると三井は困ったように眉尻を下げ、ちいさな声でもごもごと言った。
「……たまになら」
「え?」
「……たまになら、いーけど」
 お仕置き。
 続けられた言葉に、水戸はぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「言っただろ。次はもうちょい可愛く嫉妬してくれ、って。……お前でも嫉妬であんなんなるんだって思ったら、意外と気分良かったしな」
 三井は恥ずかしそうに顔を赤らめたまま、けれどしてやったりの顔で笑っている。水戸はいよいよたまらなくなって、再びがばりと三井を抱き締めていた。
「やめてよ、もう。……加減、できなくなっちまう」
「だから、いーっつの」
「……三井サン、好き。ほんと好き」
「……俺も」
 好き、と。はじめからこうやって思いを伝えていればよかったのだ。カッコつけずに真正面から好きと伝えて、不安なときは正直に縋ればよかった。嫉妬心だって、ここまで膨れ上がる前にちゃんと曝け出していればよかった。簡単な話だが、簡単なようで、難しいことばかりだ。
 けれどそれこそがきっと、ただの執着心と「愛」というものの違いなのだろう。

2023.06.01