顔に向かって飛んできたクッションを反射的に両手で受け止めてしまったのは、これも一種の職業病というやつだろう。クッションの向こうには、いかにも「怒ってます」といった様子で肩を怒らせた恋人がいる。
「……先輩」
流川がクッション越しに恐る恐る声をかけると、恋人――三井はその顔に青筋と笑顔を一緒くたに浮かべて流川を睨み据えた。
「お前さ、俺がなんで怒ってんのか、分かるよな」
「分かる……と、思う」
「じゃあ言ってみな」
その言葉に、流川の背中がぎくりと震える。分かるような分からないような、まあ実のところちっとも分からないのだが、流石の流川も、分からないと言ってはいけない空気であることだけはなんとか理解していた。
「あの」
「おう」
「えっと」
「おう」
「……その」
「おう」
ごめんなさい、とクッションに向かって呟き、視線から逃れるように身体を縮こめる。そこへ三井の手がにゅっと伸びてきて、長い指がぱちんと流川の額を弾いた。
「いてっ」
「そうか、痛いか」
「……痛いっす」
「そうだな、痛ぇよな」
三井はそう言うと二度三度頷き、おもむろに着ていたTシャツの裾をべろっとまくりあげて静かに言った。
「……俺はもーっと痛かったなあ?」
背丈の割にほっそりとした腹部のラインを、三井の長い指がするすると這う。
「握力がつえーのはしょうがねえ。だがよ、犬みてーに舐めたり噛んだりすんのはやめろって、俺なんべんも言ってるよな?」
そこにあったのは、昨晩流川がつけたものと思われる、いくつもの赤い痕跡だった。おおきな手のかたちをしたあざに、虫刺されのようなちいさな斑点。どう見ても人間のものとしか思えない歯型。それはもう、ずいぶんとひどい有様である。
「……あの」
「うん?」
「おれ、ちゃんと反省するんで」
「あたりめーだ馬鹿」
「挽回のチャンスを……」
と、言い終わるや否やのところで、流川はまた「いてっ」と呻いた。
「暴力反対っす」
「こっちの台詞だっつの、この馬鹿犬」
「……おれ、犬?」
「おー。こりゃ馬鹿犬に手を噛まれるってやつだ」
「なんだっけ、それ」
「ことわざだろ、確か」
へえ、と相槌を打ちながらそっとクッションを置き、真っ赤な手形のうえに自分の手のひらを重ねる。
「あ、こら」
「だいじょーぶ。反省した」
「信用できねー!」
「反省したもん」
「かわいこぶんな! かわいくねーから!」
と、そう言いながら、三井が無類の犬好きであることは流川もよく知るところである。そして、言いつけを守ればちゃんとご褒美をくれる躾上手ないい主人であることもまた、流川のよくよく知るところなのだった。
2020.09.01