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 畳のうえに転がった筒を、三井のつま先が派手に蹴飛ばした。祝卒業と書かれた金の箔押しが西日を反射し、きらきらと光る。
「――花道、探してるだろうね」
 水戸が笑いを堪えながら言うと、三井も悪戯っぽく目を輝かせて「だろうな」と笑った。
 卒業式のあと、いまからでも留年しろと泣きながらゴネる花道を巻いて逃げ込んだ水戸のアパートで、ふたりは立ったまま抱き合っていた。ボタンのない学ランの合せから手を差し込み、同じくボタンのないシャツのちぎれた糸を摘まんで引っ張る。卒業式だからと珍しく襟付きの白シャツを着込んできたのが仇になったらしい。
「シャツのボタンまで毟られるなんて聞いたことねぇよ」
「学ランのはバスケ部の馬鹿どもにやっちまったかんな」
「アンタ、元ヤンの癖にモテんだもん。変なの」
「お、嫉妬か?」
 妙に嬉しそうな声で言う三井に「誰が」と笑い返し、無残な様相を呈するシャツの下のインナーをたくしあげた。三井のうつくしく引き締まった脇腹には、一昨日水戸が付けたちいさなキスマークがある。その赤い印を親指で撫でてから、ゆっくりと両の手のひらを背中へ回した。
「俺には本体があるからいいし。ボタンなんか、ね」
「……やっぱ妬いてね? お前」
 頭上で笑いを噛み殺している三井を睨めあげながら「妬いちゃわりーか」と開き直る。
 元弱小バスケ部の快進撃というドラマ性のおかげか、はたまた流川楓というスタープレイヤーに対する注目度のおこぼれにあやかってか、湘北高校バスケ部員の校内での認知度はうなぎ上りだった。三井とて例外ではない。なまじ元は番長格の不良として名を知られていたものだから、当時と今とのあまりにおおきすぎるギャップが、かえって多くの女子生徒たちの心を射止めたものらしかった。
「なんでもホイホイあげちゃうんだもんなあ」
「だって、ジャージだの名札だの、あんなもん取っといてもしょうがねーだろ」
「バスケの練習着なんかも、みんな花道と流川にあげちまったんだろ」
「アイツらが欲しがんだもん。どうせ大学で指定のやつ新しく買わされっしさ」
「カバンは?」
「あれは宮城にやった。自分でくれっつったくせに、汚ねーだのくせーだの散々に言いやがってよ」
 と、そういうわけで、今日の三井はほとんど手ぶらなのだった。残ったのは卒業証書とボタンのない学ランだけ。潔いと言えば潔いが、その姿はまるで高校時代の思い出の一切を振り捨てようとしているようにも見える。
「……三井サン、ホント、なんで留年してくんなかったの」
「お前まで言うんか、それ」
 すっかり居直って恨み言に唇を尖らせる水戸を見下ろし、三井が噴き出すように笑った。
 大方の悲観的な予想を覆し、三井は見事大学への推薦入学を果たしていた。神奈川選抜として挑んだ秋季国体での活躍が、スカウトの目に留まったものらしい。進学先は神奈川県内だが、三井は県外からのスカウト生たちと共に、寮での生活を選択していた。もう実家には戻らないつもりらしい。
「ねえ、やっぱり俺にもなにかちょうだいよ。なんでもいいからさ」
 嫉妬と不安が綯交ぜになった内心を隠すことなく三井を見上げ、ねえねえ、としつこくねだる。見上げた三井は、少しばかり意外そうに目を瞬いていた。
「今日のお前、なんか変じゃね?」
「そりゃ、そうでしょ。……だって、卒業だよ。三井サン大学生だよ」
「そうだな」
「浮気とかしたらぜってー許さねえから」
「しねえって」
「名前、マジで書いときてえなあ」
「お前それよく言うけどさ、どこに書くつもりなんだよ」
「どこでも。ケツとか足の裏とか」
 水戸が言うと、三井は「そりゃいいな」と可笑しそうに声をあげて笑った。その余裕ぶった態度が気に入らなくて、目の前の尖った顎にがぶりと噛みつく。舌の先につるりと感触の違う肌の質感が触れ、それもまた無性に気に障った。
「あっ、馬鹿。噛むなって」
 三井のおおきな手のひらが水戸の額を押す。その合間に、反対側の手が不自然な動きを見せた。三井の学ランのポケットから、水戸の学ランのポケットへ。元不良らしく、ずいぶんと手癖の悪い恋人だ。
「……なにしてんの」
「バレたか」
 そう言って舌を出した三井を胡乱げに見上げながら、自分の学ランのポケットを探る。するとそこには、ちいさくて硬いなにかの感触がふたつほどあった。まさか、と思いながらそれらを握りしめ、ポケットから手を勢いよく引き抜く。
 握った拳を恐る恐る開くと、そこには金色に光るちいさなボタンと、それから、銀色に輝くシンプルなリングがあった。
「……第二ボタンだけは、ちゃんと取っといたぜ」
 偉いだろ、と歯を見せて笑う恋人を、呆然と見上げる。
「三井サン、アンタってホント――」
「おっ、惚れなおしたか?」
「なんだよ、もう。こっちは……まさか、ペアリング?」
「あったり前よ」
 三井は偉そうにふんぞり返ってそう言うと、自分のポケットからもうひとつのリングを取り出し、これ見よがしに水戸の鼻先へと突きつけてきた。なんの装飾もない、シンプルな細身のシルバーリング。三井のすらりと長い指によく似合いそうだ。
「ヤバい、三井さん、俺ホント嬉しいんだけど」
「安もんだけどな。ブランドもんでもねーし」
「値段なんかいいよ。もう、マジで大切にすっから」
「おう。失くしたら容赦しねえかんな」
 照れ隠しだろうか、やけに高圧的な口調で「覚悟しろよ」とのたまった三井に、触れるだけの口付けで答える。そしてその体を力いっぱい抱き締め、ぎゅうぎゅうと目の前の肩口に目一杯顔を擦り寄せながら言った。
「……ね、三井サン。俺、アンタのこともう絶対手放せない」
「べつに、手放さなくていいんだけど」
「俺、重いよ?」
「重くていーっつの。むしろ、重くなくなったら別れる」
「別れたくねえ」
「じゃあ、いまのまんまでいいだろ。……俺も、別れたくねえし」
 もう、お前しかいらねえもん。
 と、三井が笑う。その唇に噛みついて、何度もきつく吸った。
「……ヤベ、もう勃った」
 息継ぎの合間に言うと、三井は笑って「結局それかよ」と水戸のつま先を控えめに踏んで抗議の意を示した。その足を踏み返しながら、三井のベルトにこっそりと手をかける。
「ね、今日泊まってくっしょ?」
「どーすっかなぁ」
「朝飯作ったげるよ」
「ん、もう一声」
「今晩のビールも奢るからさ。卒業祝いってことで、ね?」
 そう言いながら緩んだウエストの隙間に手を差し込み、三井の小ぶりな尻をきゅうと揉んだ。あっ、と短い悲鳴をあげた唇を強引に塞ぎ、舌先を甘噛みする。
 今度は前歯で柔らかい下唇の感触を味わっていると、不意に三井が両手で水戸の頬を包み、額を合わせて顔を覗き込んできた。
「……なあ。ちゃんと着けろよ、それ」
 その不安げな言葉に、首を傾げながら答える。
「着けるに決まってんじゃん」
「ぜってーだぞ。……女避けに、さ、なるじゃん。指輪着けといたら」
「女、って……」
「お前だってモテんだろ。ヤリてぇときにすぐヤれねえってなったら、わかんねーじゃん。お前は元々女のほうが――」
 いいんだし、と言いかけた唇を、もう一度噛み付くように塞いだ。
「なに言ってんの。ヤれるヤれねぇでアンタのこと放り出したりしねーって」
「俺だって、お前に名前書きてぇ」
「書けばいいじゃん」
「……ケツに?」
「足の裏でもいいよ」
 水戸が肩を竦めながら言うと、三井はぷはっと吹き出し「くすぐってーだろ、それ」と笑った。その笑みのかたちに持ちあがった頬に唇を寄せながら尋ねる。
「じゃあさ、どこならいいわけ?」
「んー、脇とか?」
「そこもくすぐってーじゃん」
「膝の裏とか」
「バスケんとき見えるっしょ」
「左なら見えねぇべ。ほら、サポーターで隠れっし」
 な、と瞳を輝かせる三井に、言いようのない愛おしさと可笑しさが同時に込み上げてきた。
「ねえ、この会話さぁ、めちゃくちゃバカップルって感じじゃない?」
「はぁ? お前が言い出したんだろーが」
「そうだけど。もう、アンタってなんでそんなに可愛いわけ?」
 抱えていたはずの嫉妬も不安もなんだかどうでもよくなって、結局抱きあったまましばらくふたりでくだらない話をし続けた。少し高い場所にある三井の顔がくるくると表情を変えるたび、ほんとうに、なにもかもがどうでもよくなってしまうのだ。
 結局、その日の夜はただ夕飯を一緒に食べ、水戸の奢りでビールを飲んで、なにもせずに並んで眠った。次の日の朝、三井はもう同じ高校の先輩でも親友のチームメイトでもなくなっていたけれど、相変わらず水戸の恋人としてそこにいて、水戸は彼のために少しだけはやく起き、左手の薬指に指輪をはめたまま、簡単な朝食を作って食卓に並べた。
 畳のうえに転がったままの筒が、朝日を弾いてきらきらと光る。その横にはくしゃくしゃに丸められたボタンのない学ランがあって、そのうえには布団からはみ出した三井の長い腕が無造作に伸ばされていた。薬指には、水戸と揃いの指輪が光っている。
 マジにバカップルじゃん、と心のなかで苦笑し、枕のシワが写った頬を指でつついた。バカップル上等、と今度は声に出して啖呵を切り、いつか見惚れた横顔に唇を寄せる。
 そこにはもう水戸がつけた傷は残っていないけれど、その代わりに彼自身と、揃いの指輪と、オマケの第二ボタンがある。
 今日だけはいくらでも、どこまでも三井を甘やかしてやろうと心に決め、寝癖のついた短い髪をそっと撫でた。一度大切にすると決めたら、ひとでもモノでも、いつまでだって大切にするのが、水戸洋平という男なのだ。

2020.07.11

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