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 小さな子供連れの一団に混じって自動ドアをくぐると、西日で温められたアスファルトが安物のサンダルの底にむわりとした熱気を噴きつけてきた。
 水戸が住むアパートの近くにはいいスーパーが無く、そのおかげで間取りのわりに家賃がずいぶんと安いのだからしょうがないのだけれど、夕飯時になるといつも飛ばせない原付を飛ばして十五分はかかる格安スーパーまで買い出しに行く羽目になる。母親が作り置きの食事を置いて行ってくれることもあるが、稀だった。
 そういう事情もあって普段の夕飯はアルバイト先の賄いで済ませてしまうことも多いのだが、最近ではアルバイト自体にあまり力を入れていなかった。インターハイに出場する親友の応援へ行くために遠征費を貯めるという名目もなくなったし、入院中の花道を放ってもおけない。せっかくの夏休みだが、今年の夏はこのまま家と体育館と病院を往復するだけの健全な季節になりそうだった。
 去年の今頃は、こんな高校生活が待っているだなんてほんの少しも想像できなかった。中学の三年間と同様、喧嘩とアルバイトとギャンブルに明け暮れ、友人たちと適当に悪さをして、馬鹿だなあと笑いあいながら、なんとなく過ぎ去ってゆくものだと漠然と思っていた。
 それがどうだ。この夏の熱さときたら。
 つい込み上げてきた笑いを噛み殺しながら駐輪場へ向かい、愛車の原付に買ったばかりの荷物をつけた。エンジンキーには、広島で買ったご当地キーホルダーがぶら下がっている。そのキーホルダーを指先でそっとつついてから、ゆっくりとエンジンをかけた。
 年季が入っているうえにさんざっぱら酷使している愛車は、いくらエンジンをふかしてもスピードが出ない。ステップへ置いた買い物袋を両足で挟みながらとろとろと走っていると、眼前に交通整理をする婦警の姿があった。どうも、ちょっとした事故があったものらしい。鼻をひしゃげさせた軽自動車と、いかにも免許を取り立ての大学生といった風情の若い男がひとり。相手はいないようだから、おおかたスピードの出しすぎか、ハンドル操作を誤っての物損事故だろう。そうあたりを付けながら「夏だなあ」とつぶやき、ハンドルを切って普段使わない裏通りへ入った。不良などと呼ばれる生き方をしていると、後ろ暗いことがなくともつい警官という生き物を避けてしまう。身に染み付いた習性のようなものだ。
 そうしてふらりと入った裏道は、古い住宅街をくねくねと縫う昔ながらの細い市道だった。ときおり庭から飛び出してくる子供たちに気を配りながら、相変わらずのとろとろとした安全運転を続ける。このまましばらく行けば、すぐに元の通りへ合流するはずだった。そう思いながらも、ふと気紛れに違う通りへ愛車の鼻先を向けた。
 その公園の存在自体は昔から知っていた。知ってはいたけれど、わざわざ気に留めるようになったのはここ最近のことだ。なんの変哲もないちいさな公園。なにか特筆すべきことをあげるとしたら、古びたバスケットのゴールがあることと、ときおりそこでひとりボールを放っている男の存在。それぐらいだった。
 背の低いフェンスに車体を寄せて、そっとエンジンを切る。念のため荷物をおろし、サンダルをぺたぺたと鳴らしながら公園の入り口へ向かった。
「――気合い入ってんね、ミッチー」
 そう遠巻きに声をかけると、いましがたボールを放ったばかりの後ろ姿が震え、たった今水戸の存在に気付いたような様子で弾かれるように振り返った。前は三井サンと呼んでいたのに、いつの間にかミッチーなどという親しみを込めたあだ名で呼ぶようになった。そう呼ぶと、彼はほんの少し照れ臭そうにする。それがいけなかった。呼びたくなる。こちらを振り向かせたくなってしまう。
「……水戸」
 薄紫色の夕暮れを背負った三井は、その細く尖った顎に汗を滴らせながらぜいぜいと肩で息をしている。今日は丸一日練習だったはずだが、そのあとでずっとひとり自主練習を続けていたのだろう。汗の滴る顎先を見つめ、そこに残る薄い傷跡を探した。かつて水戸が付けた傷はすべて癒え、その顔には絆創膏もかさぶたも青痣もない。ただ一筋、べつの男がつけた傷跡があるだけだ。
「すごい汗」
 視線の行く先を誤魔化すようにそう言いながら、買い物袋の中のスポーツドリンクを投げ渡す。それを反射的に受け取った三井は、もの言いたげな顔で何度か唇をまごつかせたあと、ちいさな声で「サンキュ」と言ってキャップをひねった。
「パスくらい出せるけど、手伝おうか」
 自分用に公園の入口にある自販機で缶コーヒーを買いながら、そう声をかける。すぐに返事が無かったので、のんびりとしゃがみこんで投入口に手を突っ込み、そのまま首だけで後ろを振り返った。
 思いがけず、無言のままに目を瞬く。
 三井はリングの前に立ったまま、ぼんやりと所在なさげに立ち尽くしていた。長い両腕を持て余し気味にだらりとぶらさげ、転々と転がるボールにも目をくれずに。
「……どうかした?」
 首を傾げて尋ねると、三井は慌てた様子で「いや」と短い否定の言葉を返した。俯きがちな顔に影が差し、その移ろいやすい表情を隠してしまう。
「なんでもねえ。……もう帰る」
「そう」
「ああ。お前は?」
 尋ね返された水戸は、缶コーヒーのプルタブを上げながら「俺も帰るとこ」と答え、傍らに置いていたスーパーのビニール袋を軽く持ち上げて続けた。
「晩メシの買い出しに出てきただけだからさ。俺んち、この近くなんだ」
 そう言いながら立ちあがって、自販機の横のベンチへ腰をおろす。冷たい缶を額に当てて熱を冷ましながら、もう帰ると言ったくせに立ち去ろうともしない上級生の姿を眺めた。
「暑いね、今日。今年一番じゃない?」
 場つなぎに至極つまらない世間話を振りながら、コーヒーを口に含む。すると三井は露骨にほっとしたような顔をし、いかにもな作り笑いを浮かべて言った。
「――ああ、そうらしいな。でも、明日はもっと暑いってさ」
「へえ。天気予報?」
「いんや、帰り際に彩子が言ってた」
 三井はそう言うと地面に転がしていたボールを拾い上げ、代わりにスポーツドリンクのボトルを地面に置いた。そのまま軽くドリブルをして、流れるようにレイアップシュートを決める。素人目にも、綺麗だな、と思った。動作のひとつひとつがしなやかで柔らかく、シンプルなのだ。
「……ねえ、ミッチー」
 缶に口を付けたまま、声をかける。
「帰んないの?」
 ほんとうなら、いつまでだってその姿を眺めていたい。いつか、バスケをしている三井のほうが好きだ、と本人に告げたことがあった。あのときは慰めのために口にしただけの言葉だったが、いまでは真実そう思っている。三井のバスケは綺麗だ。ただ上手いというのとも、強いというのとも違う。綺麗なのだ。そして、どこまでも泥臭い。綺麗なのに泥臭くて、カッコ悪くて、応援せずにはいられなくなる。目が離せなくなるのだ。
「なんかあったんだね。帰りたくないんでしょ?」
 茶化すように笑いながら続けると、三井はぐっと眉を寄せてうっとうしげに顔を逸らせ、吐き捨てるように言った。
「……ほっとけ」
「ほっとけないよ」
 ベンチから腰をあげ、ぽつねんと立ち尽くした三井へ歩み寄る。三井は逃げなかった。どこまでも分かりやすい人だ。ほんとうに放っておいて欲しいのなら、はじめに声をかけられたときにさっさとこの場を立ち去ればよかったのに。
 あのときもそうだったな、とぼんやり思う。春先に一度、三井と屋上で話をしたことがあった。あのときも、彼は立ち去らなかった。そうして、彼の身の上話を聞いた。あれは多分、彼自身、いつか誰かに聞いてほしい話だったのだろう。その相手に選ばれた理由が、たまたまだったのか、あるいはなにか思うところがあってのことなのかは分からない。その真意を知りたい気もするし、知りたくないとも思う。自分の気持ちなのに、どうにも儘ならない。
 不意に空が陰りだし、西日で火照っていた肌の上を湿った風が撫でた。風からは雨と夜の匂いがして、夏だなあ、と心の中で呟く。身を焦がすような暑さに、ころころと移ろう分かりやすい天気。羽目を外して痛い目を見る若者。
「……俺んち、来る?」
 言葉が勝手に舌の先から転がり落ちる。三井は首を横に振り、水戸は隠しようもなく落胆した。
「行けない」
「なんで」
 見当はずれの苛立ちが、水戸の語気を荒くした。気安く腹を見せて懐いたふりをして、いざ撫でようとすれば尻尾を巻いて逃げ出す。近付けば喜んで寄ってくるくせに、餌をやれば首を振って食べようとしない。
「……ミッチーって、誰にでもそうなわけ?」
 苛立ちに任せて吐き捨て、頭ひとつ分高いところにある三井の顔を睨んだ。複雑な表情だった。怒っているようでもあったし、悲しんでいるようでも、喜んでいるようでもあった。その複雑な顔を眺めているうち、顎の先に残る一筋の傷が目について、水戸はまた強烈な苛立ちに襲われた。
 ――洋平クンって、意外と一途なタイプなんだ。
 中学生の頃、はじめて付き合った女性にそう言われたことを不意に思い出した。高校生だと年齢を偽って働いていた日雇いのイベント設営のバイト先で出会った、女子大生だったと思う。ジッポに付けた傷と、その傷を消さないでいる理由を尋ねられたのだ。水戸は、自分の持ち物にそうしたささやかな目印をつけるのが、子供のころからの癖だった。ひとからなにかを貰ったり、買い与えられたりするのが嫌いで、欲しいものはなんでも自分で金を貯めて買った。ずっと使うだろうな、というものは、買ってすぐになんとなくわかる。買ったらすぐ名前を書く代わりにちいさな傷をつけて、修理がきかなくなるまで使った。おんぼろの原付に、シルバーのジッポ。財布や服、靴、広島で買ったキーホルダーだって、たぶん、ずっと使い続けるだろう。その彼女にも、そういうところが好きだ、と言われた。けれど、彼女にはなんの傷もつけなかった。なんとなく付き合いはじめて、ほんとうの年齢を教えることもなくいつのまにか別れていた。
 この傷は、自分がつけるべきだった。
 そんな傲慢な思いが胸を焼いた。さっさと自分の印をつけておけばよかった。屋上で彼の傷だらけの顔に目を奪われたそのときに、つけておくべきだったのだ。
「ミッチー、ねえ、なんか言ってよ……」
 暴力的な衝動を抑え込みながら、絞り出すように言った。三井は緩やかに首を振って「だめだ」と苦しそうに言う。なにが、と尋ねると、三井はまた首を左右に振り、ぽつりと途方に暮れたような声で言った。
「俺、男が好きなんだ」
 その言葉に、一瞬、あらゆる衝動と感情が真っ白になった。ゆっくりと目を瞬き、目の前にある顔をぼうっと眺める。
「中学んときに気付いて、それからずっと、男しか好きになれねえ。もうそういうのはやめにするって決めた。決めたのに……」
 泣くのかな、と思った。バスケがしたいと言って体育館の床に膝をついたときのように。お前が好きだ、そう言って泣いてほしいと思った。そうしたら、水戸は躊躇うことなくその心に自分の印をつけてやれる。
「言えよ。言って、なんでもいいから」
 ぶらりと体の横に下げられた両手を掴み、顎の傷にそっと歯を立てた。三井が怯えたように「ひっ」と喉を鳴らす。そのうちに、自分の頬にあたたかな水滴が落ちた。
「……お前のことを好きになりたくない」
「どうして?」
「別れたくないから」
「別れなきゃいいだろ」
「だって、俺、もうすぐ卒業じゃん。お前は『短い間でしたが、ありがとうございました。大学でも頑張ってください』とか言って、ボールに寄せ書きなんかして、俺を見送るんだろ。そうしたら終わりだ」
「……なんだよ、それ。そんなのバスケ部の連中が言うことだろ。俺はアンタにありがとうって言われることはあっても、言うようなことをしてもらった覚えはねえよ」
 むっとしてそう言い返すと、三井はぐずついた鼻をすんと啜りながら「ひでえ」と苦笑した。でも、事実そうだ。バスケ部の連中のように彼を無条件に先輩として慕えないかわりに、水戸は彼の罪を被って三日間の停学処分を受け、その心の柔らかい部分へ踏み込む権利を貰った。彼と同じコートに立てない代わりに、形式ばった先輩後輩の枠組みを飛び越えて、彼の隣に立つことができる。
「ねえ、ミッチー。……三井サン。俺、アンタが好きだ。アンタが欲しいよ」
「嘘だ」
「嘘じゃねえ。屋上でアンタとふたりきりで話したことあったろ。たぶん、あんときからずっと好き」
 そう告げた途端、空からぽつぽつと雨粒が落ちだした。夕立だろう。じきに酷くなる。そんな予感があった。
「俺んち、来てよ。……ねえ、来るでしょ?」
 三井がちいさく頷き、水戸は、たぶん生まれて初めて、嬉しくてもひとは泣くのだということを身をもって知った。

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